第21話 十年の糸
建国祭までの日々は、息苦しいほど、静かに過ぎていった。
表向き、大公夫妻は、社交の場に出ることを控えていた。噂の渦から身を引き、嵐に備える。けれど、大公邸の奥の書庫では、夜ごと、密やかな戦支度が続いていた。
「これを、御覧ください」
ある夜、ギデオンが、古びた羊皮紙の束を、卓に広げた。黄ばんだ紙に、色褪せた戦役の記録が、細かな字で綴られている。埃と、古い紙の、乾いた匂いがした。
「十年前、北境戦役の記録にございます。私が、この十年、少しずつ集めてまいりました」老従者の指が、一枚の紙をたどる。「奇妙なのです。劣勢だった帝国が、なぜ突然、失われたはずの禁呪『貌喰い』を、戦場に持ち出せたのか。あれほど古い呪具は、もう帝国にも残っていないはずでした。……誰かが、手引きせねば、あり得ぬことです」
セラフィーナは、大公の隣で、その記録に目を凝らした。数字。地名。部隊の動き。ギデオンが集めた断片が、一つの絵を描き出そうとしている。
彼女は、幼い頃から、人の顔ではなく、細部を覚えて生きてきた。誰の襟がほつれているか。誰の署名の癖が、右上がりに跳ねるか。姉の影で息をひそめて暮らすうちに、いつしか身についた癖だった。その目が、今、色褪せた記録の上を、ゆっくりと這っていく。
「……ここ」ふと、彼女の指が止まった。「この兵站の記録だけ、筆跡が違います。ほかの帳面は、同じ書記の手なのに。この一枚だけ、別の誰かが、後から書き足したように見えます」
ギデオンが、身を乗り出した。老いた目を、蝋燭に近づける。
「……まことに。奥方様、お見事な目にございます。わたくしは、数字ばかりを追って、筆跡までは」
「内容は、分かりません」セラフィーナは首を振った。「ただ、書いた人が違う、ということだけ。……もし、この一枚が、後から誰かの手で紛れ込まされたものなら」
「呪具の受け渡しを、正規の兵站に見せかけて紛れ込ませた」大公が、低く継いだ。「そういうことも、あり得る」
「手引きした者は、帝国と通じ、しかも、呪具の在処を知る立場にいた」ギデオンが続けた。「そのような者は、当時の宮廷に、ごく僅か。……そして、そのうちの一人が、戦後、めきめきと出世を遂げております。北境の軍権を欲しがる、あの御方が」
ヴェルナー侯爵。
その名を、誰も口にしなかった。けれど、書庫の空気が、ぴんと張り詰めた。
「呪いを負わせた張本人が、その呪いを口実に、大公様を裁こうとしている」
セラフィーナは、静かに言葉にした。口にすると、その悪意の深さに、背筋が寒くなる。
「十年前、侯爵は、大公様を戦場で葬るつもりだったのでしょう」ギデオンが頷いた。「呪いに呑まれ、同士討ちで死ぬ。あるいは、生き延びても、廃人同然になる。……そのどちらでもなく、大公様が呪いを『封じて』生き延びたことこそ、侯爵にとっては、最大の誤算だったのです」
大公は、黙って記録を見つめていた。その横顔に、初めて、抑えきれない何かが滲んでいる。握りしめた拳が、かすかに震えていた。静かな、けれど深い激情。
「私は」低い声だった。「十年、自分の不運を呪ってきた。戦の巡り合わせが悪かったのだと。……だが、そうではなかった。誰かが、意図して、私にこれを負わせた」
「大公様」
「かまわぬ」彼は、セラフィーナの案じる視線を、静かに遮った。「むしろ、腑に落ちた。呪うべき相手が、いるのだと分かった。それは、闇雲に運命を恨むよりも、ずっと、戦いやすい」
だが、ギデオンの表情は、晴れなかった。
「問題は、証にございます」老従者は、束ねた記録を、重い手つきで閉じた。「これらは、状況の証にすぎませぬ。宮廷で多数派の侯爵を、公の場で覆すには、動かぬ物証が要る。……手引きを裏づける、当時の書付。あるいは、それを見た、生きた証人が」
「その、証人が」セラフィーナは問うた。「北の辺境に、隠れ暮らしているという」
「はい。かつて侯爵の密使を務め、良心の呵責からか、姿を消した男。……ですが、生きている保証はございません。十年です。侯爵が、とうに口を封じている恐れも」
「その男を、探せますか」セラフィーナは問うた。
「手は打ってございます」ギデオンの声は重かった。「北の辺境に、それらしき者が身を隠しているという噂。……ですが、王都から北の果てまで、馬を飛ばしても、往復に十日はかかりましょう。建国祭まで、残された日は、もう幾らもございません。見つけ出し、口を開かせ、王都へ連れ戻す。そのすべてを、間に合わせられるかどうか」
しかも、と老従者は付け加えた。相手も、同じ男を探しているだろう、と。侯爵にとって、その証人は、自らの喉元に突きつけられた刃だ。生かしてはおけぬ。こちらが先に見つけるか、向こうが先に消すか。北の果てで、見えぬ競争が、すでに始まっている。
書庫に、重い沈黙が落ちた。
反撃の的は、見えた。けれど、それを射抜く矢は、まだ、遠い北の果てにある。しかも、その矢が、まだ存在するのかどうかすら、分からない。
セラフィーナは、古い戦役の記録に、そっと指を触れた。この紙の一枚一枚に、大公が奪われた十年が、刻まれている。彼が失った、人の顔。彼が背負った、孤独。毎朝、鏡の中に他人を見つける日々。人の名を、細部で必死に手繰り寄せる暮らし。そのすべての元凶が、今、はっきりと姿を現しつつある。
――わたしに、できることは。
剣も、魔法も、権力も、この手にはない。あるのは、人の細部を覚える、ただの目だけ。けれど、と彼女は思った。その目が、たった今、誰も気づかなかった一枚の異物を見つけ出した。ならば、この戦いで、自分にも果たせる役目が、きっとある。俯いて生きてきた予備の娘に、生まれて初めて、守るべきものと、振るうべき力があるのだ。
彼女は、蝋燭を引き寄せ、もう一度、記録の束に目を落とした。侯爵の狡知が紛れ込ませた、わずかな綻び。それを、一つ残らず見つけ出してやる。
「必ず、暴きましょう」彼女は、静かに、けれど強く言った。「あなたから顔を奪った者に、正しく、その報いを」
窓の外、夏の夜が、しんと更けていく。建国祭まで、あとひと月。二つの時計は、止まることなく、時を刻み続けていた。




