第22話 思い出せない、それでも
その夜、大公は眠れずにいた。
書庫での話が、彼の胸を、深くえぐったのだろう。セラフィーナが水差しを手に廊下へ出ると、書斎に、また細い灯りが点っていた。あの、初めて彼の秘密の素顔に触れた夜と、同じように。
「お眠りになれませんか」
扉を押すと、大公は窓辺に立って、夏の夜空を見上げていた。振り返らずに、彼は言った。
「……昔の話を、聞いてくれるか」
セラフィーナは、静かに頷いて、彼の傍らに立った。窓から、夜風が流れ込む。草いきれと、遠い花の匂い。
「呪いを、身の内に封じたとき」大公は、ぽつりと語り始めた。「私は、十九だった。戦場で、味方が味方を斬り殺していく地獄の中で、私はただ、これ以上、誰も死なせたくないと、それだけを思っていた」
彼の指が、窓枠を、そっとなぞる。
「呪いが、私の中へ流れ込んでくるのが、分かった。人の顔が、記憶が、片端から喰われていく。恐ろしかった。……だが、その最後の瞬間に、私は、一つだけ、必死に握りしめたものがあった」
彼の横顔を、夏の月が、青白く照らしていた。目の下の隈が、影を落としている。この十年、彼を眠らせなかったものの深さが、その一点に滲んでいた。
「呪いに呑まれる、というのはな」大公は、まるで自分に言い聞かせるように続けた。「己が、少しずつ、他人に溶けていくようなものだ。母の顔が消える。戦友の顔が消える。名を呼ばれても、それが誰なのか、分からなくなる。……最後には、自分が誰だったのかすら、危うくなる。あの淵の底で、私は、一つだけ、これを失えば私は私でなくなる、というものを、掴んだのだ」
セラフィーナは、息を詰めた。
「それが、何かは、分からぬ」大公は、首を振った。「顔でも、名でも、出来事でもない。ただ、『これだけは、手放したくない』という、強い願いのようなもの。……温かい、光のような。それを握りしめたまま、私は、呪いに呑まれた」
彼は、ゆっくりと振り返った。青灰色の瞳が、まっすぐにセラフィーナを見る。
「以来、十年。私は、あらゆる人の顔を失った。鏡の中の、自分の顔さえ。だが、たった一つ、あの瞬間に握りしめた『何か』だけは、私の中に残り続けた。誰のものかも、分からぬまま。……そして、その『何か』が、輿入れの日、そなたを見た瞬間、確かに、応えたのだ」
セラフィーナの心臓が、大きく鳴った。
「そなたが目の前に現れると、あの温かい光が、灯る。だから、私は、そなたを間違えない。離れれば、そなたの顔も思い出せぬというのに、目の前にいれば、迷わない。……この十年、私を支えてきた、たった一つの光。それが、そなただという気が、してならぬのだ」
言葉が、二人の間に、静かに落ちた。
セラフィーナの脳裏に、また、あの冬が蘇る。凍った小川。血の匂い。震える手が、幼い自分の頭を撫でた、あの温もり。
あれは、六つか、七つの頃だった。ロズウェル領に戦火が迫り、家人に紛れて北へ逃げた道すがら。雪をかぶった藪の陰に、一人の若い男が倒れていた。兵装は血にまみれ、唇は紫色で、もう長くはないように見えた。誰もが見て見ぬふりで通り過ぎるなか、幼いセラフィーナだけが、足を止めた。凍った小川の薄氷を割り、両手で水を掬って、男の口元へ運んだのだ。
なぜ、そうしたのかは、自分でも分からない。ただ、その人を、放っておけなかった。予備の娘。誰にも必要とされない子供。そんな自分が、初めて、誰かに必要とされた気がした。男は、掠れた声で「ありがとう」と言い、震える手で、彼女の頭を、そっと撫でた。生まれて初めて、向けられた、まっすぐな感謝だった。
まさか。
もし、あの冬の怪我人が、この人だったなら。呪いに呑まれる寸前、この人が「手放したくない」と握りしめた光が、水を運んだ、あの幼い子供だったなら――。
「わたしも」声が、震えた。「わたしも、忘れられない冬が、あるのです。あなたにも、お話ししました。北へ逃げた、あの冬のことを」
「……ああ」大公の声も、掠れていた。
二人は、見つめ合った。あと一歩。あと一言、口にすれば、すべてが繋がる。そんな予感に、部屋の空気が、痛いほど張り詰めた。
けれど。
「確かめる術は、ないのだ」大公が、絞り出すように言った。「私は、あの子の顔を、思い出せぬ。呪いに、喰われてしまったのだから。……たとえ、そなたがあの子だったとしても、私には、それを確かめる、顔の記憶がない」
その言葉に、セラフィーナは、胸が締めつけられた。そうだ。この人は、確かめようがない。突き合わせるべき顔の記憶を、この人は、初めから奪われている。だからこそ、希望を口にできない。違ったときの、闇が深すぎて。
「なら」セラフィーナは、彼の手を、そっと取った。「なら、確かめなくても、いいのではありませんか。あの冬の子が、わたしでも、そうでなくても。……今、あなたが間違えないのは、わたしです。それだけで、十分です」
大公の目が、揺れた。彼は、彼女の手を、痛いほど強く握り返した。その手のひらは、剣を握り続けた者の硬さと、けれど確かな熱を持っていた。
「客誓期が、明ければ」彼は、絞り出すように言った。「そなたは、いつでも、この結婚から降りられる。誰の顔も覚えられぬ男の妻など、務まらぬと言って、去ることもできる。……私は、そなたに、それを強いる気はない」
「降りません」
言葉は、迷いなく零れた。自分でも、驚くほど、まっすぐに。
「わたしは、この城で、初めて『わたし』でいられました。予備でも、身代わりでもなく。……だから、降りません。建国祭が来ても、その先も。あなたの隣に、いさせてください」
大公は、しばらく言葉を失っていた。やがて、その硬い手が、彼女の指を、一本ずつ、確かめるように包み込んだ。まるで、この感触だけは、決して忘れまいとするかのように。
窓の外、夏の星が、遠い冬の記憶のように、静かに瞬いていた。まだ、繋がらない。けれど、二人の心は、確かに、同じ一点で、震えていた。あと少し。手を伸ばせば届きそうな真実を前に、二人は、ただ寄り添って、短い夏の夜を分け合っていた。




