第8話 貌喰い
バルコニーの夜から、幾日かが過ぎた。
大公はセラフィーナに、名簿を託すようになった。彼女が城の者たちの特徴を書き留め、要点を短くまとめて渡す。すると彼は、以前より滑らかに人と接することができた。二人だけの、静かな共同作業。それは、政略の夫婦がまとうにはあまりに温かな、奇妙な連帯だった。
けれど、その連帯が深まるほど、セラフィーナの胸には一つの謎が重くのしかかっていった。
「呪われた男だぞ」。あの夜、大公はそう漏らした。ただ顔を忘れるだけではない。もっと根深い何かが、この城の隅々にまで影を落としている。
答えを求めて、彼女はあの夜、また一人、回廊に立っていた。
肖像画の消えた壁。額の跡だけが点々と残る、顔のない回廊。燭台の火が、その空白を舐めている。蝋の焦げる匂いの中で、彼女の中の断片が、ようやく一つの形に組み上がっていった。
組紐の色。鈴の合図。立ち位置の作法。ギデオンの耳打ち。毎晩の名簿。そして、歴代当主の顔を一枚残らず消した、この壁。
当主自身が、自分の顔を覚えていられないから。鏡を見ても、そこにいるのが誰かわからないから。だから、顔という顔を、この城から追放した。
これは、ただの病ではない。城ごと、家系ごと隠し通さねばならぬ、もっと恐ろしい何かだ。
「奥方様」
背後の声に振り返ると、ギデオンが立っていた。手燭の火が、皺深い顔に濃い影を刻んでいる。
「もう、およしなさいませ」老従者の声は、いつもより硬かった。「これ以上、深くお知りになれば、奥方様ご自身が、危うくなります」
「危うい?」
「呪いを知る者は、呪いに巻き込まれる。それが、この十年の掟にございました」
その一言が、決定打だった。呪い。ギデオン自身が、その言葉を口にした。セラフィーナは、燭台を握る手に力を込めた。
「ギデオン。わたしは、逃げません。あの方の傍にいると決めました。ならば、その方が背負っているものを、知らずにはいられないのです」
老従者は、長いこと彼女を見つめていた。やがて、深い息を吐き、道を譲るように半歩下がった。
「……お決めになったのなら、私は止めますまい。大公様は、私室におられます」
私室の扉を叩くと、低い声が応じた。
中では、大公が窓辺に立っていた。月明かりが、その輪郭を青白く縁取っている。彼は振り返らずに言った。
「ギデオンから聞いた。……とうとう、ここまで来たか」
「大公様」セラフィーナは、まっすぐに彼の背へ言葉を向けた。「あなたが人の顔を覚えられないのは、病ではない。呪いなのですね。この城が、顔という顔を消してまで隠している、呪い」
沈黙。窓の外で、風が針葉樹を鳴らした。
やがて、大公が振り返った。月光の中、その顔に、諦めにも似た静けさが浮かんでいる。
「貌喰い、という」
初めて聞く言葉だった。けれどその響きには、人の何かを喰らう、暗い牙の気配があった。
「十年前、北境の戦の末期。劣勢だった帝国が、古い禁呪を戦場に放った。浴びた者は、敵も味方も、人の顔の区別を失う。軍というのは、顔の集まりだ。誰が味方か分からなくなれば、崩れる。現に、崩れた。同士討ちで、幾百もの兵が死んだ」
彼の声は、遠い戦場を見ているように、平坦だった。
「私は、その呪いの核を、自分の身の内へ封じた。核を宿す媒体を壊すには、そうするしかなかった。おかげで戦は終わった。代わりに、私は――人の顔を、永遠に失った」
セラフィーナは、言葉を失った。同士討ちを止めるために、たった一人で呪いを呑んだ。英雄と讃えられてもいい行いだ。それなのに、この人が世間から受け取ったのは、「冷酷無情の氷大公」という悪名だけ。
「なぜ、治さないのですか」声が、震えた。「その呪いを、体から出せば」
「出せば、核は宿主を求めて散る。次は、領民に取り憑く」大公は静かに首を振った。「魔法の失われたこの時代に、核を安全に消せる術者はいない。教会の浄化は、体の外の呪物にしか効かぬ。だから私は、治さぬのではない。治せぬのだ。……この身に閉じ込めたまま、墓へ持っていくしかない」
窓辺で、彼は自分の手のひらを見下ろした。人の顔を、二度と掴めなくなった手を。
「はじめの頃は、狂うかと思った」ぽつり、と言葉がこぼれる。「朝、鏡を見ても、そこにいるのが誰かわからぬ。世話をしてくれる者の顔も、翌朝には他人だ。誰と話しても、初めて会う気がする。……人の世に生きながら、私は一人きりの島に流されたようなものだった」
セラフィーナは、胸を締めつけられた。それは、彼女自身がずっと味わってきた孤独の、もっと深く、もっと暗い底だった。誰にも「わたし」として見てもらえない娘と、誰の「その人らしさ」も掴めなくなった男。似た形の欠落を抱えた者同士が、こうして北の城で向かい合っている。偶然とは、思えなかった。
部屋に、重い沈黙が満ちた。
セラフィーナは、ようやく、この城のすべてを理解した。整いすぎた作法も、消された肖像も、大公の孤独も。すべては、一人の男が世界を救った代償を、静かに抱え続けるための仕組みだった。
「これで、そなたは私を破滅させられる」大公が、ふいに言った。青灰色の瞳が、まっすぐに彼女を射抜く。「呪いを帯びた者は、爵位にも要職にも就けぬ。それがこの国の掟だ。私が貌喰いだと世に知れれば、大公位も、北境の軍権も、すべて奪われる。その秘密を、そなたは今、握った」
試すような、けれどどこか縋るような目だった。取り替えのきく娘だった自分が、今、この誇り高い男の運命を、手のひらに載せている。実家では、姉のための道具でしかなかった手に。
おかしなものだ、とセラフィーナは思った。生まれてこの方、誰かの運命どころか、自分の運命さえ、自分で握ったことがなかったのに。
「大公様」彼女は、まっすぐに彼を見た。声が、震えないように気をつけながら。「一つだけ、教えてください。あなたは、その秘密を握ったわたしを――どうしたいのですか。口を封じますか。それとも、追い出しますか」
「どちらもせぬ」即座に、彼は答えた。「そなたを害することだけは、できぬ。……たとえ、それで身を滅ぼすとしても」
その言葉の重さに、セラフィーナは息を呑んだ。この人は、秘密を握られてなお、自分を傷つけない道を選ぶと言った。十年、誰も掴めなかった手で、たった一人掴んだものを、失うくらいなら破滅を選ぶと。
どうする、と彼の目が問うている。
セラフィーナは、静かに息を吸った。松明の匂いのする、冷たい夜気を。
答えは、とうに決まっていた。決まっていた、けれど、それを口にすれば、自分はもう二度と「取り替えのきく娘」には戻れない。誰かの運命に、自分の運命ごと踏み込むということなのだから。
それでも、構わなかった。




