第7話 名簿を諳んじる人
その夜、セラフィーナは寝つけなかった。
昼間、大公が漏らした言葉が、耳の奥で何度も響いていた。去られたら、また誰も掴めぬ闇に戻る。冷酷と恐れられる男の、あんなにも心細い声を、誰が想像するだろう。
水差しの水は、とうに空だった。喉の渇きを口実に、彼女は上掛けを払って寝台を下りた。廊下は冷え、石の床が素足に硬い。厨房へ向かうつもりで角を曲がると、書斎の扉の隙間から、細い灯りが漏れていた。
こんな刻限に、誰が。
そっと近づいて、隙間から中を覗く。そして、息を呑んだ。
大公が、一人、机に向かっていた。羊皮紙の束を前に、低い声で何かを繰り返している。
「東の見張り塔、ヨナス。左の頬に古い傷。声は低い。……南の砦、ベルグ。太い眉、笑うと声が高くなる。……」
人の名だ。領地に仕える者たちの、名と、特徴。彼はそれを、一つずつ声に出して諳んじていた。まるで、明日には消えてしまう文字を、必死に石へ刻みつけるように。
顔を覚えられぬ男が、それでも人を忘れまいとする、たった一つのやり方。名と、事績と、癖。顔の代わりに、その人を繋ぎとめる糸を、彼は毎晩、手で編み直しているのだ。
どれほど、そうしていただろう。
「そこにいるのだろう、セラフィーナ」
ふいに、大公が顔を上げずに言った。心臓が跳ねる。見つかっていたのか。
「……申し訳ありません。灯りが見えたもので」
扉を押して中へ入ると、大公は羊皮紙から目を離さなかった。机には、細かな字でびっしりと埋まった名簿が積まれている。蝋燭の芯が焦げる、かすかな匂いがした。
「毎晩、こうしておられるのですか」
「忘れぬためだ」彼は淡々と答えた。「一日会わねば、名も顔も薄れる。三日会わねば、消える。だから、書く。声に出す。そうやって、かろうじて領地を治めている」
セラフィーナは、机の端に積まれた名簿の背表紙に、そっと指を触れた。何冊もある。何年分もの、人を忘れまいとする執念が、そこに積み上がっていた。
開かれた一冊を、彼は指でたどっていた。文字は、同じ名が何度も書き直された跡で、黒く滲んでいる。一度書いて、忘れて、また会って、書き足して。そうやって塗り重ねられた墨の層が、そのまま彼の孤独の厚みだった。
「戦のあとに就いた兵だ」大公が、名簿の一行を指した。「もう八年、私に仕えている。八年だぞ。それでも、朝の見回りですれ違うたびに、私はこの男に名を尋ねねばならぬ。八年の忠義を、私は顔で報いてやることさえできぬ」
声に、抑えた苦さがにじんでいた。冷酷どころではない。この人は、誰よりも、人を大切にしようとしている。ただ、そのやり方が、あまりに孤独なだけだった。
「お手伝いさせてください」
言葉は、自然と口をついて出た。「わたしは、人を覚えるのが得意です。声も、癖も、一度見れば忘れません。あなたが繋ぎとめようとしている糸を、わたしも一緒に、握っていられます」
大公の手が、止まった。顔を上げた彼の目に、蝋燭の炎が小さく揺れている。
二人は、書斎を出て、回廊の突き当たりのバルコニーへ出た。
夜の北の空は、驚くほど澄んでいた。冷えた空気が肺を刺し、遠くで梟が低く鳴いている。手すりに触れると、石が氷のように冷たかった。
「妙な女だな、そなたは」大公が、夜空を見上げたまま言った。「私の秘密を知って、逃げるでも、脅すでもなく、手伝うと言う」
「逃げる理由が、ありませんもの」
「あるだろう。この秘密は、金になる」彼の声は平坦だった。「宮廷には、私を憎む者が大勢いる。北境の軍権を欲しがる者たちだ。彼らに『大公は人の顔も見分けられぬ』と告げれば、そなたは望むものを何でも手に入れられる。実家へ帰ることも、姉に席を譲ることもな」
試している、とセラフィーナは思った。突き放すことで、こちらの本心を確かめている。傷つくことに慣れた者が、傷つく前に自分から差し出す、拙い防具だ。
「そういう計算は、昔から苦手なのです」彼女は正直に答えた。「損か得かで動けるほど、器用ではありませんでした。だからいつも、姉に出し抜かれてばかりで」
大公の肩から、ふっと力が抜けたのがわかった。
「呪われた男だぞ、私は」
その一言に、彼女は彼の横顔を見た。呪われた、と彼は言った。ただ顔を忘れるだけではない、もっと深い何かを、この人は背負っているのかもしれない。けれど、今は問うまい。
「顔を覚えられなくても」セラフィーナは、静かに言った。「人は、その人を分かるものだと、わたしは思います」
大公が、こちらを向いた。
「わたしは、姉の予備として育ちました。いつも比べられて、いつも劣るほうで。誰の目にも、わたしは『姉ではないほう』でしかなかった。……でも、それでも、わたしを『わたし』として見てくれる人が、いてほしかった。顔かたちではなく、中身を。だから、あなたが顔を覚えられなくても、少しも怖くないのです。むしろ、」
言いかけて、言葉が詰まった。むしろ、羨ましいくらいです。あなたは、顔に惑わされない目で、人を見ているのだから。
大公は、しばらく黙っていた。それから、ひどく低い声で言った。
「そなたは、私が今まで会った――いや、会ったことすら覚えていられぬのだが」彼は、自嘲するように口の端を歪めた。「それでも、そなたのことだけは、明日も、明後日も、忘れぬ気がする」
梟が、また鳴いた。
二人の吐く息が、白く夜気に溶けていく。触れ合ってはいない。それでも、その距離は、輿入れの日よりずっと近かった。
「ひとつ、伺ってもよろしいですか」セラフィーナは、勇気を出して口を開いた。「あなたは、いつから、人の顔を、覚えられなくなったのですか」
大公の横顔が、わずかに強張った。夜空へ向けられた目が、遠い、遠い過去を見ている。
「十年前だ」やがて、彼は短く答えた。「戦の、終わりの頃。それ以上は……いずれ話す。今日ではなく」
その声に、これ以上は踏み込ませない硬さがあった。けれど拒絶ではない。いつか、と彼は言った。いつか、すべてを話すと。
セラフィーナは頷いて、それ以上は問わなかった。十年前。戦の終わり。彼女がまだ幼く、北へ逃げていた、あの冬と、同じ頃。
偶然だ、と自分に言い聞かせる。けれど胸の疼きは、収まらなかった。
この人の孤独を、分かち持ちたい。セラフィーナは、そう願っている自分に気づいた。そしてその願いの根が、遠い冬の記憶に繋がっている気がして、胸の奥が、静かに疼いた。
二人の間に横たわる謎は、まだ、厚い氷の下に眠っている。けれどその氷は、確かに、少しずつ薄くなり始めていた。




