第6話 間違えたことは、一度もない
秘密の輪郭に触れたあの夜から、大公は少しだけ、セラフィーナを避けるようになった。
食卓での言葉は減り、視線は前より慎重になった。知られてしまった、という怯えが、その素っ気なさの下で震えているのを、彼女は感じ取っていた。触れれば壊れそうな距離。それでも彼は、彼女を城から追い出そうとはしなかった。
転機は、思いがけない形で訪れた。
その日、隣接する辺境伯領から、使者が城を訪れていた。国境の兵の配置をめぐる、こみ入った交渉ごとだ。相手は恰幅のよい壮年の騎士で、供を二人連れていた。
セラフィーナは大公妃として、その謁見の末席に控えていた。石造りの謁見の間には、松明の脂の匂いと、鎧のかすかな金気の匂いが混じっている。
交渉は淀みなく進んでいた。大公の受け答えは的確で、辺境伯の使者も満足げに頷いている。ギデオンが背後に控え、時折そっと耳打ちして、大公の記憶を支えていた。
ところが、である。
話が佳境に入ったところで、使者が席を立ち、供の一人と二言三言、言葉を交わした。そうして戻ってきた男に向かって、大公が口を開こうとした、そのとき。
供の男が、主人の位置とすり替わって、大公の正面に立っていた。
背格好の似た二人。どちらが使者本人か。松明の逆光の中、大公の目が、ほんの一瞬、宙をさまよった。ギデオンの耳打ちは、間に合わない。
まずい。
大公が、供の男を「辺境伯どの」と呼びかけようとしている。使者ではなく、供を。それは些細な言い間違いに見えて、致命的な失態になりかねなかった。「大公は人の顔も見分けられぬ」――その噂に、確かな証拠を与えてしまう。
考えるより先に、体が動いていた。
「辺境伯さまのお話は、まことに理にかなっておりますこと」
セラフィーナは末席から進み出て、澄んだ声で、本物の使者のほうへ向き直った。まるで話に割り込む無邪気な妻を装って。
「先ほどの、川向こうの兵をひと月ごとに交代させるというご提案、あれはあなた様のお考えでございましょう? 北の民には、ありがたいお心遣いです」
使者の顔が、得意げにほころんだ。「奥方様にそう言っていただけると。ええ、あれはわたくしめの献策にございます」
その一言で、誰が主人かがはっきりした。大公の視線が、すっと本物の使者へ定まる。彼は何事もなかったように「では、その案で進めよう」と続けた。危うい一瞬は、深い川の底へ沈むように、静かに流れ去った。ギデオンが背後で、小さく息を吐くのがわかった。
供の男は、自分が今しがた大公を試すような真似をしたことにも気づかず、へつらうように頭を下げている。悪意はなかったのだ。ただ主人のそばへ寄りたかっただけの。けれど悪意のない偶然こそが、この城では最も恐ろしい。誰も、大公の秘密を守るために気を張っていない相手だからこそ。
交渉は無事にまとまり、使者たちは満足して城を辞した。石畳を打つ馬蹄の音が遠ざかり、松明の脂の匂いだけを残して、謁見の間に、二人だけが残された。
大公は、しばらく口を開かなかった。
窓から差す午後の光が、彼の黒髪に鈍く滑っている。やがて、彼はこちらを振り返った。青灰色の瞳が、まっすぐにセラフィーナを捉える。今度は、逃げなかった。
「……助けたな。今、私を」
「差し出がましいことを」セラフィーナは目を伏せた。「ただ、川の話が面白くて、つい」
「嘘が下手だ」
思わず顔を上げると、大公の口の端が、ほんのわずか、和らいでいた。笑みと呼ぶには淡すぎる、けれど確かに、氷の一角が溶けたような表情だった。
「そなたは、見ていたのだな。私が、あの二人を取り違えかけたのを。……気づいたのは、そなただけだ」
沈黙が落ちた。彼が、何かを決めかねているのがわかる。言うべきか、言わざるべきか。石の壁に、松明の炎が長い影を揺らしている。
「聞きたいのだろう」やがて彼は、絞り出すように言った。「私が、人の顔を覚えられぬことを」
セラフィーナは、息を詰めた。ついに、彼のほうから。
「覚えられぬのだ。昨日会った者も、今朝話した者も。目を逸らせば、崩れて消える。鏡の中の、私自身の顔さえ、私は知らぬ」
淡々とした告白だった。淡々としているからこそ、その孤独の深さが、かえって胸に刺さった。十年、この人はこれを、たった一人で抱えてきたのだ。
「けれど」大公の声が、そこで初めて、かすかに揺れた。「そなただけは、違う。輿入れの日から、今日まで。着飾った姉と並んでいても、侍女に紛れていても。私は、そなたを間違えたことが、一度もない」
なぜ。その問いを、彼はすでに何度も自らに投げてきたのだろう。答えの出ないまま。
「なぜ、あなただけが……いえ」セラフィーナは言い直した。「なぜ、わたしだけが、あなたに間違われないのでしょう」
「わからぬ」大公は静かに首を振った。「十年、わからぬままだ。ただ、そなたが目の前に現れると、それが誰かなど考えるまでもなく、わかる。そなただ、と」
彼は自分の手のひらを、不思議なものでも見るように見つめた。「はじめは、気の迷いかと思った。輿入れの日、書状に次女とあっただけで、顔など知らぬはずだった。それなのに、扉が開いてそなたが入ってきた瞬間、私は迷わなかった。あの姉のほうではなく、そなただと。……十年、誰の顔も掴めなかったこの手が、そなたのことだけは、確かに掴んでいる」
その声には、戸惑いと、細い糸のような希望と、そして怖れが入り混じっていた。掴めるものを得た者が、それを失うことを何より恐れるように。
「だから、そなたに秘密を知られたとき、私は……」彼は言葉を切った。「怖かった。そなたに去られたら、私はまた、誰も掴めぬ闇に戻る」
冷酷無情の氷大公。そう恐れられる男の口から漏れたのは、迷子の子供のような一言だった。
窓の外で、鳥が一羽、鳴いた。
セラフィーナの胸の奥で、あの燠火が、今までになく熱く灯った。取り替えのきく駒だと言われ続けた自分を、この人は、この世でただ一人、決して取り違えない。理由もわからぬまま、十年も前から。
去られたら闇に戻る、とこの人は言った。けれど、と彼女は思う。私だって、同じかもしれない。誰にも見分けられず、姉の予備として生きてきた私を、この人だけが迷わず見つけてくれる。それは、生まれて初めて味わう、「私であること」の証だった。
「わたしは」気づけば、口が動いていた。「どこにも行きません、大公様」
言ってしまってから、頬が熱くなった。政略の妻が、口にする言葉ではなかったかもしれない。けれど大公は、その言葉を、乾いた土が雨を吸うように受け止めた。青灰色の瞳が、ほんの少し、和らぐ。
「十年前」ふいに、そんな言葉が彼の唇からこぼれた。「戦のあった頃……そなたと、どこかで会っていた気もするのだ。馬鹿な話だが」
その一言に、セラフィーナの心臓が、とん、と跳ねた。井戸端でよみがえった、あの冬の記憶。冷たい水。血の匂い。「ありがとう」という掠れた声。
まさか。けれど彼は「気のせいだ」と自ら打ち消して、それ以上は語らなかった。
二つの記憶が、まだ像を結ばぬまま、静かに、けれど確かに、同じ一点へ近づいていく。その予感だけを胸に残して、午後の光が、ゆっくりと傾いていった。




