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「冷酷」と噂の大公様は誰の顔も覚えられない。なのに私だけ、一度も間違えないのです  作者: フクベェ


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第5話 私だけが、間違えられない

 確かめる、と決めたその翌朝から、セラフィーナは静かな実験を始めた。

 まず、装いを変えた。マレーナに頼んで髪を結い上げ、侍女の一人から借りた地味な外套を羽織り、いつもと違う立ち位置から大公の前へ出てみる。廊下の陰、逆光の窓辺、他の侍女に紛れた列の中。

 結果は、どれも同じだった。

 どんなに紛れても、大公は迷わなかった。侍女が三人並んだ中から、彼はまっすぐにセラフィーナへ歩み寄る。「そこにいたか」と、当たり前のように。逆光でも、髪型を変えても、俯いていても。まるで彼の目には、他の何が霞んでも、彼女の輪郭だけがくっきりと灯って見えているかのように。

 逆に、他の者のことは、まるで見分けられていなかった。

 試しに、背格好のよく似た侍女二人に、同じ色の前掛けをつけさせて並ばせてみた。マレーナに名を尋ねられた大公は、答えられなかった。組紐の色を確かめ、ギデオンの耳打ちを待って、ようやく「右がハンナ、左がエルサ」と口にする。その手順の、なんと入念で、なんと痛々しいことか。

 人を見分けるという、誰もが息をするように当たり前にできることを、この人は一つ一つ、道具と手順で組み立てている。城じゅうの組紐と鈴は、そのための杖なのだ。


 その日の午後、大公は領地の家臣たちと会っていた。

 セラフィーナは回廊の柱の陰から、そっと様子を窺った。昨日、雪解けの用水路の件で城を訪れた壮年の家臣が、今日も別の用で顔を出している。同じ人物だ。声も、体つきも、昨日と変わらない。

 けれど大公は、その男を「初めて会う者」のように迎えた。

 「用向きを聞こう。……どこの誰だったか」

 男が身分と名を告げ、話し始めてしばらく経ってから、ようやく大公の目に理解の色が差す。ギデオンが素早く歩み寄り、耳元で二言、三言。「ああ、昨日の用水路の。続きか」。そう繋がるまでに、たっぷり十を数えるほどの間があった。

 昨日会ったばかりの家臣の顔を、大公は覚えていない。

 セラフィーナは息を殺した。指先が、柱の冷たい石に触れている。心臓が、静かに、けれど確かに速まっていく。

 仮説は、確信に変わりつつあった。

 この人は、人の顔を、記憶に留められないのだ。昨日会った者も、今朝話した者も、視線を外した途端、彼の中で崩れて消えてしまう。だから城じゅうが、組紐と鈴と立ち位置で、必死に彼を助けている。だから肖像画は、一枚もない。当主自身が、自分の顔さえ覚えていられないのだから。

 「冷酷」の噂は、盾だ。近づけないことで、間違えずに済ませるための。無愛想で、無感情で、誰の名も覚えぬ氷の大公。そう恐れられているほうが、彼にとってはずっと安全なのだ。挨拶を忘れても、旧知を無視しても、「あの人はそういう人だから」で済んでしまうのだから。

 その盾の内側で、彼はいったい、どれほど孤独に耐えてきたのだろう。毎朝、鏡の中の自分の顔さえ他人のように眺めながら。昨日笑い合った相手を、今日はもう思い出せぬまま。セラフィーナの胸に、鋭い痛みが差した。それは同情とは少し違う、もっと近しい、身を切るような感情だった。

 誰にも大事にされず、取り替えのきく駒として生きてきた自分。誰の顔も覚えられず、盾の内で一人きりの大公。二人とも、この世界の隅で、静かに欠けたまま生きてきたのだ。


 夕刻、セラフィーナは自ら、もう一つの検証を試した。

 夕餉の卓で、彼女はわざと侍女の外套をまとったまま席に着いた。髪も結ったまま、いつもと違う姿で。

 給仕たちが、一瞬とまどう。青組紐の少年などは、彼女を侍女と間違えて、危うく下座へ案内しかけた。マレーナが慌てて咎める。

 けれど大公だけは、卓に着くなり、まっすぐ彼女を見て言った。

 「……今日は、そんな格好をしているのか」

 誰も教えていない。組紐も、立ち位置も、いつもと違う。ギデオンの耳打ちすら、まだない。それなのに彼は、ひと目で彼女を妻と見分けた。

 「大公様は」セラフィーナは杯を置き、慎重に言葉を選んだ。「わたしが今日、こんな格好をしていると、どうしてお分かりになったのですか。誰も、お教えしていないのに」

 大公の手が、杯の途中で止まった。青灰色の瞳が、初めて逃げ場を失ったように、彼女を見返す。

 「……見れば、わかる」

 三度目の、同じ答え。けれど今度は、その言葉の下に隠されたものの重さを、セラフィーナははっきりと感じ取っていた。他の誰も見分けられぬ人が、私だけは見れば分かる。その矛盾を、彼自身、持て余している。

 「昨日の御用水路の家臣を、今日は初めて会う方のように迎えておいででした」

 言った瞬間、大公の頬から、わずかに血の気が引いた。杯を握る指に、力がこもる。認めもしない。否定もしない。ただ、氷の下で凍りつくような、その沈黙。薪の爆ぜる音だけが、二人の間に落ちた。

 それが、答えだった。

 「……もう、休む」

 絞り出すように言って、大公は席を立った。料理にはほとんど手をつけていない。去っていく背中は、いつもより硬く、いつもより孤独に見えた。

 知ってしまった。この城が守り抜いてきた、最も深い秘密の、その輪郭を。

 呪持ちの疑いは、貴族にとって命取りだ。もし大公が人の顔を見分けられぬと世に知れれば、政敵はそれを口実に、彼から爵位も北境の軍権も奪うだろう。今、自分はその秘密を、たった一人、手の中に握っている。

 実家に売れば、褒美が出るかもしれない。姉の望むまま、席を退くこともできる。

 けれど、胸の奥で燃える燠火は、そんな打算とは正反対の方向を向いていた。

 取り替えのきく駒だと言われ続けた自分を、この世でただ一人、迷わず見つけた人。その理由を、まだ知らない。知りたい。知るまでは、この人を、失いたくない。

 窓の外で、北の風が針葉樹を鳴らしていた。セラフィーナは冷えた指を、そっと胸元で握りしめる。料理の湯気は、いつのまにか冷めていた。

 まだ、すべてを知ったわけではない。なぜ彼が人の顔を失ったのか。なぜ、私だけが例外なのか。核心は、厚い氷の向こうに閉ざされたままだ。

 けれど今夜、確かに一歩、近づいた。そしてその一歩は、後戻りのできない一歩でもあった。秘密を知った者は、もう「取り替えのきく妻」ではいられない。

 秘密を知ったこの夜が、二人の何を変えてしまうのか。まだ、わからなかった。ただ、胸の燠火だけが、闇の中で少しだけ、明るさを増していた。


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