第4話 北へ逃げた冬
「よく、見ている」――大公のあの一言は、それから幾日も、セラフィーナの胸の底で反響し続けていた。
城の暮らしに慣れていくにつれ、彼女はますます確信していった。この城の使用人たちは、みな一様に身構えている。新参の大公妃を、というより、「取り違えられること」そのものを恐れているように。
厨房では、鍋の焦げる匂いと湯気の向こうで、下働きの娘たちが忙しく立ち働いていた。セラフィーナが顔を出すと、一斉に手が止まる。
「奥方様が、こんなところへ……」
いちばん年かさの女が、慌てて前掛けで手を拭いた。名をハンナといった。セラフィーナは竈の前にしゃがみ、麦粥をかき混ぜる木杓子の動きを、しばらく黙って眺めた。
「その粥、木の実を後から入れるのですね。煮崩れないように」
ハンナが目を丸くした。「……よくご存じで」
「見ていれば、わかります」
娘たちの手が、おずおずと動きを取り戻す。それでも視線は、ちらちらとセラフィーナへ戻ってきた。新しい奥方は気位が高いに違いない、田舎の城など見下すに決まっている。そんな身構えが、湯気の向こうから伝わってくる。
セラフィーナは竈のそばに置かれた籠の、乾いた木の実を一つつまんだ。「これは、去年の秋のもの? 皮の色が濃いから、二年ものかしら」
「……二年ものです」ハンナがまた目を見張った。「よう、お分かりで。若い奥様がたは、木の実など皆同じに見えるとおっしゃるのに」
「同じものなど、一つもありませんもの」
人も、木の実も。よく見れば、ひとつひとつ違う。それを教えてくれたのは、皮肉にも「お前は姉の代わりだ」と言い続けた、あの家だった。比べられ続けた娘は、比べるために、誰よりも細部を見る目を持った。
厨房を出るころには、下働きの娘たちの強張りが、いくらか和らいでいた。
三日いれば、セラフィーナは城の使用人のほとんどを、名と癖で覚えてしまった。声の高い青組紐の少年、左足を少し引きずる洗濯女、笑うと右の八重歯が覗く厩番。マレーナが組紐の色をいちいち確かめねば人を見分けられない城で、彼女だけは、誰のことも一目で言い当てられた。
俯いて生きてきた娘の、たった一つの取り柄。姉と比べられ、劣るほうとして扱われ続けた分だけ、人と人の細かな違いを拾うことに、彼女の目は誰より長けていた。
中庭の井戸端で、ギデオンと行き合ったのは、そんなある日の午後だった。
老従者は釣瓶を引き上げ、桶に水を汲んでいた。セラフィーナが近づくと、その手がわずかに止まる。懐から、あの小さな覚え書きの端が覗いていた。
「ギデオン。あなたは、来客のことを書き留めておられるのですね。誰が、どんな用で来たか」
水を汲む手が、また止まった。ギデオンは答えず、ただ皺深い目でこちらを見返す。
「そして、大公様の耳元でそれを伝える。大公様が、その方を思い出せるように」
しばらくの沈黙のあと、老従者は静かに桶を置いた。「奥方様は、よく人をご覧になる」
肯定でも否定でもなかった。けれどその声の重さが、セラフィーナの推測が的を外していないことを告げていた。
「大公様は、幸せなお方だと思います」ギデオンが、水面へ目を落としたまま呟いた。「あなた様のように、細やかに人を見る奥方を迎えられて」
言葉は柔らかかった。けれどその奥に、案じる響きがある。まるで、こう続けたいのを堪えているかのようだった。だからこそ、あまり深く踏み込まないでほしい、と。
セラフィーナはもう一歩、踏み込みたい衝動を、辛うじて堪えた。まだ早い。この老人は、忠義の壁の内側に、主君の秘密を固く抱え込んでいる。無理にこじ開ければ、二度と開かなくなるだろう。
「北の水は、冷とうございましょう」ギデオンが話を逸らすように言った。「井戸の水は、夏でも指がしびれます」
その言葉に、セラフィーナは汲まれたばかりの水へ、そっと指を浸した。
――冷たい。刺すように。
その瞬間だった。
鼻の奥に、冷たい水の匂いがよみがえった。
雪。凍てついた道。誰かの荒い息。
幼い自分が、震える手で、木の椀に水を汲んでいる。目の前に、怪我をした若い男が倒れている。血の匂いと、雪の匂い。「大丈夫ですか」と、幼い自分が声をかけている。
「奥方様?」
ギデオンの声で、我に返った。井戸端に、白い日の光が戻ってくる。心臓が、妙に速く打っていた。
「……いえ。なんでも」
なんだ、今のは。
水の匂いが、記憶の扉をこじ開けた。けれどその向こうは、霧の中のようにおぼろだ。北へ逃げた冬。確かにあった。ロズウェル家が戦火を逃れて、一時、北へ身を寄せた冬が。まだ幼く、姉の影で息をひそめていた頃。
あのとき、自分は誰かに水を運んだ。怪我をした、若い男に。
けれどその顔が、思い出せない。名も、知らない。ただ、雪と血と、冷たい水の匂いだけが、指先にこびりついている。それと、「ありがとう」という掠れた声。震える手が、幼い自分の頭に、そっと触れたこと。
誰にも見向きされなかった予備の娘が、生まれて初めて、誰かに「ありがとう」と言われた冬。だからだろうか。忘れたはずの記憶が、こんなにも胸を締めつけるのは。
なぜ、この北の城で、あの冬の記憶がよみがえるのだろう。
偶然だ。ただ水が冷たかったから。そう自分に言い聞かせても、胸のざわめきは収まらなかった。井戸の底で、汲み残された水面が、白い空を映して静かに揺れている。
「お戻りになったほうがよろしい」ギデオンが桶を提げ、先に立って歩き出した。「日が翳ると、北の風は骨まで冷えますゆえ」
その背を追いながら、セラフィーナは濡れた指を、そっと握りしめた。
冷酷な夫の秘密。おぼろな冬の記憶。まだ何一つ形にならない。けれど二つの謎が、この城で、静かに自分を待ち構えている気がしてならなかった。
その夜、寝台に横たわっても、なかなか寝つけなかった。天井の梁を伝う燭台の影を眺めながら、二つの謎が頭の中で絡み合う。顔を覚えられない夫。北の冬の、名も知らぬ怪我人。まるで別々の糸のはずなのに、どこか奥のほうで、一本に縒り合わされていく予感がした。
確かめよう。彼女は決めた。この目で、はっきりと。
夫が本当に、人の顔を覚えていないのか。そしてもし覚えていないのなら、なぜ彼だけが、私を見分けられるのか。
その答えの糸口が、あの冬に眠っている気がしてならなかった。




