第3話 はじめまして、と彼は言う
朝の食堂は、樅の薪と焼きたての黒パンの匂いで満ちていた。
リゼットは夜明け前に発った。別れ際、姉は「代わってあげてもよくてよ」の一言をもう一度、耳打ちのように残していった。その声を振り払うように、セラフィーナは長い卓の端に着く。
向かいの席に、大公が座っていた。
昨日、名も知らぬ自分を一目で「妻はそちらだ」と言い当てた男。その確信を思えば、朝の挨拶くらい交わせるだろうと思っていた。けれど。
「……客人か」
大公が、給仕に向かって低く問うた。青灰色の瞳が、探るようにセラフィーナを見ている。まるで、初めて顔を合わせる相手を確かめるように。
息が、一瞬止まった。
客人。昨日、あれほど迷わず妻と見分けた人が、今朝は自分が誰かを測りかねている。
給仕が凍りつき、口を開きかけたそのとき、卓の脇に控えていたギデオンが、身を寄せて何かを囁いた。ほんの二言、三言。大公の眉が、かすかに動く。
「ああ、奥方か。早いな」
昨日と同じ低い声が、今度はきちんと彼女を「妻」として捉えていた。ギデオンの囁きの前と、後で。まるで暗がりで手探りしていた男の指先に、ふいに灯りが差したように。
セラフィーナは黒パンを千切る手を止め、そっと二人を観察した。
パンには蜂蜜と、酸味の強い赤い木の実の砂糖漬けが添えられていた。北の味だ。噛むと舌の奥がきゅっと締まる。その酸味を味わいながら、彼女の目は自然と、給仕たちの動きを追っていた。
彼らもまた、あの組紐と鈴の作法に従っている。大公の右手に立つ者は必ず胸に白い布を垂らし、皿を下げるときは決まって主君の左からしか近づかない。誰かが順を違えると、ギデオンの指がテーブルの下で小さく鳴り、すっと元の位置へ戻される。
人を、間違えないための仕組み。昨夜、回廊で触れた輪郭が、朝の光の下でまた一段、はっきりしてくる。
食事の間、大公は多くを語らなかった。
北の国境の見回りのこと、雪解け水で増した川のこと。話すのはもっぱら領地の実務で、そのどれもが淀みなく、正確だった。数字も、地名も、家臣の名も、彼の口からはよどみなく出てくる。人の顔のことだけを、注意深く避けているように。
「大公様は」思いきって、セラフィーナは口を開いた。「昨日の対面で、どうしてわたしを妻と……」
匙が、皿の縁で小さな音を立てた。大公の手が止まる。
「……そなたを見れば、わかる」
答えになっていない答えだった。けれど彼はそれ以上言葉を継がず、視線を窓の外の白い稜線へ逃がした。喉の奥で、言いたいことを飲み下すような沈黙。
この人は、嘘が下手だ。
冷酷無情の氷大公。そう恐れられる男が、たった一つの問いにこんなにも不器用に口をつぐむ。棘のある冷たさではない。何かを、必死に隠している者の硬さだ。
窓の光が、彼の横顔を白く縁取っていた。よく見れば、目の下に薄い隈がある。よく眠れていない人の顔だ、とセラフィーナは思った。人でなし、と呼ぶには、この人はあまりに疲れている。
「北の暮らしは不便だろう」ふいに大公が言った。話を逸らすように。「必要なものは何なりとマレーナに。無理をする必要はない」
気遣いの言葉だった。けれどその声は、遠い相手に手紙を読み上げるように平らで、温度がない。まるで、目の前に座る妻の顔を、一晩眠れば忘れてしまうと知っている者の、諦めにも似た距離。
「大公様は、あまり眠れておいでですか」
問いは口をついて出た。大公の匙が、また止まる。青灰色の瞳が、初めてまっすぐに彼女を捉えた。誰かに自分の疲れを見抜かれるなど、思ってもみなかった。そう言いたげに、見開かれたまま。
「……なぜ、そう思う」
「目の下に、影があります。それに、話すとき、人の名の前だけ一拍、間が空きますから」
しまった、と思ったときには遅かった。大公の顔から、わずかに血の気が引いていた。見られている。見抜かれている。そう悟った者の、声にならない動揺だった。
「……よく、見ている」
絞り出すような一言だった。称賛でも咎めでもなく、ただ、怖れに近い響きがあった。
食後、書斎へ向かう大公を、セラフィーナは廊下の途中まで見送った。
別れ際、彼はふと足を止め、こちらを振り返った。何か言いかけて、けれど言葉は形にならず、ただ青灰色の瞳が一瞬、迷子のように揺れる。昨日の広間で見たのと、同じ揺らぎだった。
「夜は冷える。体を厭え」
結局それだけを言って、彼は背を向けた。ギデオンが後を追い、二人分の足音が石畳に吸い込まれていく。
一人残された廊下で、セラフィーナは昨日から胸に灯った燠火に、そっと息を吹きかけた。
昨日は迷わず私を選び、今朝は私が誰かを測りかねた。ギデオンが囁けば思い出し、囁く前は手探りする。領地のことは何一つ忘れないのに、人の顔のことだけは、まるで指の間から零れ落ちていくように。
それからの数日、セラフィーナは注意深く夫を見た。
昨日領地の陳情に来た村長が、翌朝もう一度城を訪れたとき、大公は「初めて会う」ように応対した。声を聞き、話の中身をたどり、ギデオンの短い耳打ちを受けて、ようやく「ああ、昨日の井堰の件か」と繋がる。相手の顔ではなく、言葉と事情のほうから、人をたぐり寄せているのだ。
その手際は舌を巻くほど滑らかで、余人はまず気づかない。冷淡で無愛想な大公が、ただ客に素っ気ないだけ。そう見えるように、彼と老従者は十年をかけて仕組みを磨き上げてきたのだろう。噂の「冷酷」は、その仕組みが落とす影に過ぎない。
考えたくない仮説が、一つ、頭をもたげていた。
――あの人は、人の顔を、覚えていられないのではないか。
だとすれば、昨日「妻はそちらだ」と言い当てた、あの一瞬は何だったのか。他の誰も見分けられない男が、名も知らぬ私だけを、迷わず選んだ。矛盾している。矛盾しているのに、その矛盾のちょうど真ん中に、自分がぽつんと立っている気がした。
窓の外で、鳶が一羽、灰色の空を横切っていく。その鳴き声を聞きながら、セラフィーナは自分の指先が、わずかに冷たく汗ばんでいるのに気づいた。
この仮説が正しいなら、それは、この城が守っている秘密そのものだ。
確かめたい。ただの好奇心ではなかった。あの疲れた横顔の理由を、迷子のように揺れる瞳の理由を、知りたいと思った。取り替えのきく娘として生きてきた自分を、たった一人、迷わず見つけた人のことを。
その日から、セラフィーナは静かに、夫を観察し始めた。




