第2話 肖像画のない城
案内の侍女に従って北の棟へ向かう間、セラフィーナは自分の勘が妙にざわつくのを感じていた。
城は、整いすぎていた。
廊下の要所には、色の違う組紐を肩に垂らした使用人が立っている。青の者、緑の者、深紅の者。すれ違うたびに、彼らは決まった歩幅で壁際に寄り、決まった角度で頭を下げた。誰かがどこかで小さな鈴を鳴らすと、次の角の使用人がすっと姿勢を正す。まるで見えない糸で全員が繋がれているかのようだった。
「こちらが奥方様のお部屋にございます」
先を歩く侍女頭が扉を開けた。年の頃は四十ほど、背筋の伸びた女で、口調には隙がない。名をマレーナといった。
「マレーナ、とお呼びしてよろしいですか」
「お好きなように。奥方様」
取りつく島のない返事だった。それでもセラフィーナは、この女がさっき廊下で三度、下働きの娘の組紐の色を確かめたことを覚えていた。同じ城に長く仕える者が、なぜ仲間の目印をいちいち確かめる必要があるのだろう。
途中、若い従僕が一人、配膳の盆を抱えて回廊の中ほどに立っていた。マレーナがすれ違いざま、低く鋭く咎めた。「そこはお前の場所ではない。青は三つ目の柱まで」。従僕は弾かれたように三歩下がり、青い組紐を握り直して壁際へ寄った。叱責の理由が、セラフィーナには半分もわからなかった。立ち位置がひとつ違うだけで、なぜあれほど厳しく正されるのか。まるで、誰かがその一歩の狂いで人を取り違えることを、心底恐れているかのように。
部屋は簡素だが清潔で、樅の薪が爆ぜて松脂の甘い匂いを立てていた。窓の外には、雪を残した稜線が藍色に暮れていく。王都から六日。ここは、中央の目が届かない北の果てだ。
「夕餉は鐘が二度鳴ってから、大広間の隣の間で。それまでご自由に」
マレーナはそう言い置いて去った。組紐は、深い紺色。侍女頭の色なのだろう、とセラフィーナは頭の隅に書き留める。人の癖や目印を覚えるのは、幼い頃からの習いだった。姉と比べられ、見分けられ、いつも劣るほうとして扱われてきた娘は、逆に、人と人の細かな違いを拾うことに長けていた。
夕餉までにはまだ間があった。じっと部屋にいると、あの青灰色の瞳が瞼の裏に浮かんでくる。セラフィーナは灯りを一つ手に取り、廊下へ出た。
回廊は長かった。石壁に沿って歩くうち、ふと足が止まる。
――何かが、足りない。
壁だ。壁が、あまりに広い。名家の城の回廊といえば、歴代当主の肖像画がずらりと並ぶのが常だ。ロズウェルのような貧乏伯爵家でさえ、色褪せた曾祖父の絵を後生大事に飾っていた。それがここには、一枚もない。
壁には確かに、額を掛けていた跡があった。日に灼けずに残った四角い影が、点々と続いている。かつては絵があった。それを、誰かがすべて外したのだ。
なぜ、当主の顔をすべて城から消す必要がある。
燭台の炎が、影の並ぶ壁を揺らしながら舐めていく。蝋の焦げる匂いの中で、セラフィーナの背をひやりとしたものが這い上がった。整いすぎた使用人の作法。組紐の色。鈴の合図。そして、顔のない壁。それらがまだ形にならないまま、胸の奥で一つの絵になろうとしている。
「奥方様。こんなところで、いかがなさいました」
背後の声に振り返ると、白髪の老従者が立っていた。式のとき、大公の耳元へ囁いていた男だ。皺深い顔に、燭台の火が濃い影を刻んでいる。
「……ここには、ご当主様の肖像がないのですね」
老従者の目が、ほんのわずか、細くなった。
「北の城は火が絶えませぬゆえ、煤で絵が傷みます。それだけのことでございますよ」
なめらかな答えだった。なめらかすぎて、かえって幾度も繰り返してきた言葉のように聞こえた。
「もう長いこと、こうしております」ギデオンは静かに続けた。「北の城には北の城の作法がある。奥方様も、じきに慣れましょう」
慣れる。何に。問い返そうとして、セラフィーナは老従者の眼差しに気づいて口をつぐんだ。慇懃に伏せられたその目の奥に、値踏みするような、けれどどこか案じるような光がある。まるでこちらが、触れてはならない一線にどこまで近づくかを、静かに測っているような。
彼は名をギデオンと名乗り、「湯が冷めます。お部屋へお戻りを」とだけ言って、深く頭を下げた。その手が、いつのまにか懐から小さな覚え書きを取り出しかけ、また仕舞われたのを、セラフィーナの目はやはり拾っていた。
夕餉の間には、先にリゼットが着いていた。明日には王都へ、そして実家へ帰る姉は、今宵が北で過ごす最後の夜だった。
「見たでしょう、この城のみすぼらしさ」
姉は銀の匙で澄まし汁をかき回しながら、声をひそめて笑った。「石と樅ばかり。踊りの一つもない田舎。あなたにはお似合いよ、セラフィーナ。地味な部屋に、地味な妻」
「……ええ、姉様」
逆らわない。逆らわないことだけは、昔から得意だった。
けれど姉の目が、料理の合間に何度も扉のほうへ走るのを、セラフィーナは見ていた。大公が現れないかと窺っているのだ。北の野蛮人、と泣いて嫌がったくせに、いざ妹が「大公妃」という座に着くと決まった途端、姉の中で何かが揺れ始めている。
「ねえ」リゼットが匙を置いた。声が、猫のように甘くなる。「もし北の暮らしが辛くなったら、いつでも言いなさい。姉が代わってあげてもよくてよ。……あの方、どうせ人の顔なんて覚えていらっしゃらないのでしょう?」
匙の背に映った姉の笑みが、揺れて歪んだ。
セラフィーナは答えなかった。汁物の湯気が、頬にぬるく触れて消えていく。
姉は本気だ。冗談の形を借りて、確かめている。取り替えられるかどうかを。
顔を覚えられない夫。取り替えのきく妹。姉の目の奥で、その二つが、危うい算段となって結びつこうとしていた。
窓の外で、風が針葉樹を鳴らした。硝子越しに、雪の残る稜線が最後の光を失っていく。
この城は、何かを隠している。組紐も、鈴も、消された肖像も、老従者の懐の覚え書きも、すべては一つの秘密を守るための仕組みだ。まだ像は結ばない。けれど輪郭だけは、確かに指の先に触れている。
そして自分は、その秘密のただ中へ、たった今、足を踏み入れてしまったらしかった。取り替えのきく駒として。あるいは、この城で唯一、取り違えられなかった娘として。




