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「冷酷」と噂の大公様は誰の顔も覚えられない。なのに私だけ、一度も間違えないのです  作者: フクベェ


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第1話 妻はそちらだ

 大広間の空気は、磨き上げられた石の床と同じだけ冷たかった。

 六日間の馬車の揺れがまだ体の芯に残っている。針葉樹の脂と雪解けの匂いを吸い込みながら、セラフィーナは半歩下がった位置で目を伏せ、姉の背だけを見ていた。リゼットの結い上げた金の髪に、蜜蝋の燭台の光が滑っていく。姉はこういう場所でこそ咲く花だ。生まれたときから、そう決まっていた。

 「ノルディア大公、アルデヴァルト様のおなりにございます」

 従者の声が高い天井へ吸い込まれ、奥の扉が重い軋みを立てて開いた。足音が一つ。ゆっくりと、迷いのない歩調で近づいてくる。

 噂は、北へ嫁ぐ道中で嫌というほど聞かされた。冷酷無情の氷大公。挨拶を交わした相手の顔さえ翌日には忘れる、血の通わぬ人でなし――。

 顔を上げてはいけない。俯いて、比べられず、目立たず。それがロズウェル家の次女に許された、たった一つの振る舞いだった。

 姉が一歩、前へ出た。薔薇水の香が揺れる。

 「お初にお目にかかります、大公様。わたくし、ロズウェル伯爵が娘――」

 「妻はそちらだ」

 低い声が、姉の言葉を半ばで断ち切った。

 心臓が、一度だけ大きく鳴る。セラフィーナは思わず顔を上げた。

 黒髪の男が、まっすぐに彼女を見ていた。着飾った姉ではなく、その斜め後ろに控えた、灰色の地味な自分を。指の先まで冷えていくのに、見つめられた目の奥だけが、燠火に触れたように熱い。

 誰も、名を告げてはいない。どちらが妻かなど、この男が知るはずもなかった。実家からの書状には次女、とだけ記されていたはずだ。それなのに、彼の視線は最初から一度も迷わなかった。

 広間の隅で、貴族たちがさざめく。リゼットの白い頬が、蝋のように強張っていくのが横目に映った。姉のこんな顔を見るのは、初めてだった。

 大公はそれ以上こちらを見なかった。すっと視線を外し、居並ぶ家臣たちへ向き直る。その横顔には、先ほど自分を射抜いた確信の色がもう残っていない。誰の顔を見ても同じように、遠く、平らな眼差し。まるで、たった今言い当てた妻の顔さえ、次の瞬間にはどこかへ流れ去ってしまったかのように。

 奇妙だ、とセラフィーナは思った。あれほど迷わず私を選んだ人が、選んだそばから、私を見ていない。


 輿入れの列がこの城へ着くまで、セラフィーナは一度も「自分が嫁ぐ」という実感を持てずにいた。

 物心ついたときには、姉の予備だった。姉が熱を出せば同じ薬包を握らされ、姉の縁談が難航すれば「いざとなればセラフィーナを」と父が言った。姉と同じ金の髪に生まれつかなかったことが、まるで罪であるかのように扱われて。

 七つの冬、初めて誂えてもらった青い上着も、翌朝には姉のものになっていた。似合うのは姉のほうだ、と誰もが言った。そのとき覚えた、喉の奥が塩辛くなる感覚を、今もはっきり思い出せる。

 この大公家への話も、もとは姉に来た縁談だった。北の野蛮人のもとへなど、と姉が泣いて嫌がり、父が舌打ちして次女の名を書き足した。取り替えのきく駒。それが自分の値打ちだと、とうに知っている。

 その駒を、この男は一目で見分けた。

 なぜ。喉まで出かかった問いを、奥歯で噛み殺す。俯いて生きてきた娘に、大公へ物を尋ねる資格などない。


 式次第は淡々と進んだ。誓約の書、家紋の交換、形ばかりの祝いの杯。大公はその間、ほとんど口をきかなかった。

 傍らに控えた白髪の老従者が、時折そっと主君の耳元へ何かを囁く。そのたびに大公はわずかに頷き、次の所作へ移った。まるで諳んじた道順をたどるように、正確に、隙間なく。セラフィーナの目は、その繰り返しを自然と拾っていた。人の癖を覚えるのは、俯いて生きた者の癖だ。

 「客誓期のことは、聞き及んでおいででしょうか、奥方様」

 人の波が引いた広間の隅で、老従者が静かに問うた。皺深い手が、燭台の火を映している。

 「……いいえ」

 「政略の婚姻は、初めの一年を白き婚と定めます。床も財も分かたぬまま一年を過ごし、その果てに王の御前で誓いを確かめて、初めて真の夫婦となる習いにございます。此度その期限は、和約十周年の建国祭の日」

 つまり一年後、この結婚はどちらからでも降りられる。老従者の言葉は、遠回しにそう告げていた。要らなくなれば、返せばいい。予備の娘にふさわしい、都合のよい猶予だ。

 「その建国祭では、臣従の礼がございます」老従者の声が、わずかに沈んだ。「貴族が王の御前に進み、互いの顔と名を確かめ合うて忠誠を誓い直す儀式。大公家は北境を離れられぬ習いで、十年の間これを免れてまいりました。ですが今年ばかりは、勅命での御出席が避けられませぬ」

 顔と名を、確かめ合う。

 その言葉が、なぜか胸の隅に小さく引っかかった。理由はまだ、わからない。

 顔を上げると、大公がこちらへ歩いてきていた。間近で見れば、噂よりずっと若い。酷薄に整った顔の奥で、青灰色の瞳だけが、妙に静かに彼女を捉えている。

 「アルデヴァルトだ」名乗りは短かった。「そなたの部屋は北の棟にある。……よく来た」

 よく来た。血の通わぬ人でなしが、そう言った。声には棘がなく、むしろひどく疲れた男の響きがあった。

 「大公様」勇気を振り絞って、セラフィーナは口を開いた。「先ほど、どうしてわたしを――」

 言いかけて、言葉が途切れた。大公の瞳が、ほんの一瞬、揺れたからだ。射抜くようだったその眼が、迷子のように所在をなくす。すぐに彼はそれを封じ込め、無表情の下へ沈めた。

 「北の夜は冷える。湯を使うといい」

 問いには答えず、それだけ言い残して、彼は背を向けた。老従者が深く一礼し、主君に続く。二人の足音が遠ざかり、松明の煤の匂いだけが、後を追うように広間へ流れた。

 答えなかった。答えられなかった、というほうが近い気がした。

 残されたセラフィーナの隣で、リゼットが扇の陰から低く囁いた。「……たまたまよ。あんな噂の男、どうせすぐにどちらがどちらか分からなくなる」

 姉の声は、いつもの棘を取り戻していた。けれどその指先が、扇の骨をきつく握りしめて白んでいるのを、セラフィーナは見逃さなかった。姉もまた、あの一瞬の確信に怯えている。

 なぜ、この人は名も知らぬ私を見分けたのか。

 冷たい石の広間に一人残り、セラフィーナは胸元で指を握りしめた。取り替えのきく駒だと言われ続けた娘を、この世でただ一人、迷わず選んだ人がいる。その理由も知らぬまま、今日から自分はこの城の妻になる。

 問いは、灯の消えぬ燠火のように、胸の底で小さく燃え始めていた。


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