第29話 顔を確かめよ
建国祭の朝が、来た。
王宮の大広間は、国じゅうから集まった貴族で、埋め尽くされていた。金糸の礼服。宝玉の輝き。天井から吊るされた無数の燭台が、その壮麗な人の海を、煌々と照らしている。玉座には、王が座し、その前で、臣従の礼が、粛々と進んでいた。
貴族が、一人ずつ、玉座の前へ進み出る。王に顔を示し、名を名乗り、忠誠を誓い直す。単純な、けれど厳かな儀式。顔と名を確かめ合うことで、貴族たちは、王への忠誠と、互いの絆を、新たにする。
その列の中に、ノルディア大公が、いた。
黒い礼服に身を包み、背筋を伸ばして立つその姿には、微塵の乱れもない。すぐ後ろには、セラフィーナが、大公妃として、静かに控えていた。手にした扇。囁くための、二人の合図。準備は、整っていた。あとは、大公の番が来るのを、待つばかり。
だが、その順番が回ってくる、まさにその時。
ひとりの貴族が、列を乱して、進み出た。
軍務卿、ヴェルナー侯爵だった。
「畏れながら、陛下」侯爵の声が、広間に、朗々と響いた。説教師じみた、あの抑揚で。「臣従の礼は、貴き儀式にございます。貴族が、互いの顔を確かめ、名を確かめ、忠誠を誓い合う。……されど、この場に、その儀を果たせぬ者が、おりまする」
広間が、ざわめいた。侯爵の指が、まっすぐに、大公を指した。
「ノルディア大公。貴殿は――人の、顔を、見分けられぬのではないか」
どよめきが、広間を、駆け抜けた。
「そのような噂は、かねてより、ございました。大公が、人を顔で判じられぬ。妻の助けがなければ、誰が誰かも分からぬ、と。……もし、それが真実であれば、貴殿は、忠誠を誓う相手すら、確かめられぬということ。臣従の礼を、果たす資格が、ないということにございます」
侯爵の声は、あくまで冷静だった。悪意を、正論の仮面で、覆い隠して。
「陛下。ここで、確かめようではありませんか。大公が、真に、人の顔を見分けられるのかどうか。……妻の助けを、借りずに」
王が、静かに、侯爵を見た。そして、大公へ、視線を移した。
「ノルディア大公。答えよ。この者の申し立ては、真か」
処刑台の刃が、公然と、振り下ろされた。
セラフィーナの、心臓が、激しく打っていた。
来た。侯爵は、二人を、引き離しにかかっている。妻の助けを借りずに、と。合図も、囁きも、封じられる。大公は、たった一人で、この試練に、立ち向かわねばならない。
大公は、しばらく、沈黙していた。
やがて、ゆっくりと、口を開いた。
「侯爵の申し立ては――真である」
広間が、凍りついた。認めた。大公が、自ら、貌喰いを。ざわめきが、津波のように、広間を呑み込んでいく。
「私は、人の顔を、覚えられぬ」大公の声は、しかし、揺るがなかった。「十年前、北境の戦で、この身に負うたものだ。母の顔も、戦友の顔も、鏡の中の、己の顔さえ。……私は、失った」
侯爵の口元が、かすかに、吊り上がった。勝利を、確信した者の、笑み。
「ならば、大公。貴殿は、臣従の礼を――」
「だが」
大公の声が、侯爵の言葉を、断ち切った。
「私は、この十年、たった一つだけ、喰い残したものが、ある」
彼は、玉座へ向き直り、王を、まっすぐに見据えた。
「顔を、覚えられずとも。ただ一人だけは、決して、間違えぬ。……陛下。証明して、御覧に入れましょう。この、顔の見えぬ私が、この広間の、幾百の人の中から、いかにして、妻ただ一人を、見つけ出すかを」
侯爵の顔から、笑みが、消えた。
「陛下!」侯爵が、慌てて、声を張った。「詭弁にございます。何か、仕掛けが――」
「仕掛けなど、ない」大公は、静かに言った。「私を、この場の中央へ。そして、妻を、私から遠ざけ、大勢の中に、紛れさせよ。似た背格好の、似た装いの者を、いくら並べても構わぬ。……私は、それでも、間違えぬ」
王が、しばし考え、そして、頷いた。
「よかろう。……皆の者、大公妃を、囲め。同じ背丈の女人を、幾人か、共に。大公には、目隠しはせぬ。だが、誰も、名を告げてはならぬ」
衛兵が、動いた。セラフィーナは、大公から引き離され、広間の中央、大勢の貴婦人の中へと、連れて行かれた。よく似た背丈の女たちが、彼女を、幾重にも、取り囲んでいく。同じような夜会服。同じような扇。人垣の中で、セラフィーナの姿は、たちまち、埋もれていった。
人の壁の隙間から、セラフィーナは、遠く、夫の姿を、見つめていた。
――信じています。
声には出さず、心の中で、囁いた。仮面舞踏会でも、盛夏の宴でも、この人は、一度も、わたしを間違えなかった。理由も分からぬまま、それでも、必ず、見つけてくれた。ならば、今も、きっと。この、幾百の人の海の中でも。
けれど、恐ろしさが、ないと言えば、嘘になる。もし、この大観衆と、この重圧の中で、万に一つ、この人が、間違えたら。すべてが、終わる。大公位も、二人の未来も。セラフィーナは、扇を握る手に、ぎゅっと、力を込めた。願うことしか、できない。ただ、信じて、待つことしか。
大公が、広間の中央に、ひとり、立たされた。
幾百の視線が、彼に、注がれる。顔の見えぬ大公が、この人の海の中から、ただ一人を、見つけ出せるのか。侯爵の告発が正しいのか、大公の言葉が正しいのか。すべてが、この一瞬に、懸かっていた。
大公が、ゆっくりと、顔を上げた。
その青灰色の瞳が、人の海を、見渡す。何百もの顔。彼にとっては、区別のつかぬ、のっぺりとした、灰色の群れ。名を知る者も、知らぬ者も、すべてが、同じ。輪郭のぼやけた、他人の顔。この十年、彼が生きてきた、孤独な世界の、そのままの姿だった。
広間は、静まり返っていた。誰もが、息を殺して、見守っている。王も。侯爵も。幾百の貴族も。顔の見えぬ大公が、この試練に、どう答えるのか。時間が、凍りついたように、流れなかった。
――けれど。
灰色の群れの中で。
彼の瞳が、ふと、一点で、止まった。まるで、暗闇の中に、ただ一つ、灯りを見つけたかのように。ほかのすべてが霞む中で、そこだけが、確かに、彼の目に、映っていた。
彼の唇が、静かに、動いた。誰にも聞こえぬほど、小さく。けれど、確かに、その名を。
そして、彼は、人垣の一点へ向かって、迷いなく、一歩を、踏み出した。




