第28話 同じ冬
建国祭の、前夜。
王都の大公邸は、久しく、灯りに満ちていた。明日、王と全貴族の前で、臣従の礼が催される。貴族たちが一人ずつ進み出て、王に顔と名を確かめられ、忠誠を誓い直す儀式。誰の顔も覚えられぬ大公にとっては、逃げ場のない、処刑台だった。
書斎で、大公とセラフィーナ、そしてギデオンは、明日の段取りを、幾度も確かめていた。
「儀式では、私は、一人ずつ進み出る貴族の、顔と名を、確かめねばならぬ」大公が、低く言った。「だが、私には、それができぬ。何十人もの顔を、覚えられぬ。一人を覚えれば、前の一人が、消えていく」
「そこで、奥方様の出番にございます」ギデオンが継いだ。「奥方様が、大公様のすぐ後ろに控え、進み出る貴族の名を、先にそっと囁く。大公様は、それを受けて応じる。……これまで、幾度も運用してきた、二人の合図にございます」
だが、それだけでは、侯爵の告発は、覆せない。
「侯爵は、必ず、こう言うでしょう」セラフィーナは、静かに言った。「『大公は、妻の助けがなければ、人の顔も分からぬ』と。……その告発そのものを、逆手に取らねばなりません」
顔を確かめ合う儀式で、顔を覚えられぬことを暴かれる。ならば、その儀式の場で、「顔を覚えられずとも、ただ一人を間違えぬ」ことを、王と全貴族の前で、証明してみせる。それが、二人の描いた、たった一つの活路だった。
「そして、機を見て」ギデオンが、油紙の包みを、そっと卓に置いた。「この、売国の証を、王の御前に、差し出しまする。十年前、帝国へ禁呪を手引きしたのが、ほかならぬヴェルナー侯爵その人であった、という動かぬ証を。……告発者を、告発する。呪いを負わせた張本人が、その呪いを口実に大公様を裁こうとした、その非道を、白日の下に」
「だが、順序を、誤ってはならぬ」大公が、鋭く言った。「先に物証を出せば、往生際の悪い言い逃れを許す。まず、儀式を、通過する。私が、顔を覚えられずとも、妻を間違えぬことを、皆に見せる。然るのちに、売国の証を突きつける。……この二つが、揃って初めて、侯爵は、逃げ場を失う」
一手でも、狂えば。大公位の剥奪。呪持ちとしての、忌避と失脚。そして、セラフィーナの巻き添え。すべてが、この明日一日に、懸かっていた。
段取りを詰め終えたのは、夜も更けてからだった。
ギデオンが下がり、書斎には、二人だけが残された。窓の外、王都の夏の夜は、明日の祭りを控えて、どこか、そわそわと騒がしい。
「怖くは、ありませんか」セラフィーナは、そっと問うた。
「怖い」大公は、正直に答えた。「十年、隠し通してきたものを、明日、白日の下に晒す。……失敗すれば、大公位を失う。それだけではない。そなたまで、巻き添えにする」
「わたしは」セラフィーナは、首を振った。「わたしは、あなたと一緒なら、何も怖くありません」
大公が、彼女を見た。乏しい灯りの中で、その青灰色の瞳が、静かに揺れていた。
沈黙の中、ふと、彼が口を開いた。
「なあ、セラフィーナ。……以前、そなたが話してくれた、あの冬のことだ。北へ逃げた、幼い日の」
セラフィーナの、心臓が、跳ねた。
「負傷した男に、水を運んだと、言ったな」大公は、記憶を手繰るように、ゆっくりと続けた。「それは、いつのことだ。そなたが、幾つの頃だった」
「六つか、七つの頃です」彼女は答えた。「戦火が、ロズウェル領に迫って。家人に紛れて、北へ逃げる道の途中でした」
「北へ、逃げる道」大公の声が、掠れた。「……年は、王暦、三百二年か」
「はい。北境の戦が、終わった、あの年です」
書斎の空気が、張り詰めた。
「私は」大公が、絞り出すように言った。「十年前、王暦三百二年。戦の末期に、負傷して、隊列からはぐれた。呪いを身に負い、意識も朦朧として、ただ、北へ、北へと、彷徨っていた。……凍った川のほとりで、力尽きて、倒れた。もう、死ぬのだと思った」
セラフィーナは、息を、詰めた。
「そこへ、誰かが、水を、運んでくれた」大公の手が、震えていた。「小さな手だった。凍るように冷たい水を、両手で掬って、私の口元へ。……その温もりだけが、あの闇の中で、たった一つ、確かなものだった」
凍った小川。血の匂い。震える手。掠れた「ありがとう」。
――そして、幼い自分の頭を、そっと撫でた、あの温もり。
セラフィーナの脳裏に、あの日の情景が、鮮やかに、蘇っていた。誰もが見て見ぬふりで通り過ぎた、雪の藪陰。ただ一人、幼い自分だけが、足を止めた。雪の中に打ち捨てられた男の姿が、幼心にも、どうしても、放っておけなかったから。予備の娘。誰にも必要とされない子供。そんな自分の運んだ一杯の水に、あの人は、生まれて初めて、「ありがとう」と、まっすぐな感謝を、くれたのだ。
二人の記憶が、同じ一点を、指していた。十年の時を隔てて。
「まさか」セラフィーナの声が、震えた。「まさか、あの冬の、あの人が」
「そなただった、というのか」
言葉が、宙に浮いた。あと一言。あと一歩、口にすれば、十年越しの真実が、二人の間で、像を結ぶ。そんな予感に、部屋の空気が、痛いほど、張り詰めた。
けれど。
「……分からぬ」大公は、苦しげに、首を振った。「私は、その子の顔を、思い出せぬ。呪いが、喰ってしまった。名も、聞かなかった。だから、確かめようが、ないのだ。たとえ、そなたが、あの子だったとしても」
その言葉に、セラフィーナは、胸が締めつけられた。この人は、確かめられない。顔の記憶を、初めから奪われているのだから。真実は、もう、二人のすぐそばにあるのに。
「明日」セラフィーナは、彼の手を、そっと握った。「明日、すべてが、終わったら。……その先で、ゆっくり、確かめましょう。今は、明日を、越えることだけを」
大公が、頷いた。二人は、手を握り合ったまま、しばらく、動かなかった。手のひらの熱だけが、言葉よりも雄弁に、互いの想いを、伝え合っていた。十年前の、あの冬の一杯の水が、巡り巡って、今、二人を、こうして結んでいる。もし、本当にそうなのだとしたら――それは、どんな政略の糸よりも、深く、確かな縁だった。
窓の外、夏の夜が、白々と、明けようとしていた。
最も長い夜が、終わる。運命の、臣従の礼の朝が、来る。




