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「冷酷」と噂の大公様は誰の顔も覚えられない。なのに私だけ、一度も間違えないのです  作者: フクベェ


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第27話 見る力

 王都まで、あと一日の道のり。

 その関所で、一行は、足止めを食らった。

 「通行の手形に、不備がございます」関所の役人が、慇懃無礼に告げた。「検分に、二日、いや三日はかかりましょう。それまでは、何人たりとも、この先へは通せませぬ」

 明らかな、妨害だった。手形に、不備などあるはずがない。臣従の礼まで、あと四日。ここで三日を空費すれば、間に合わない。ヴェルナー侯爵の手が、この関所まで、伸びている。

 「どういうことか、説明を」ギデオンが、役人に詰め寄る。だが、役人はのらりくらりと言を左右にするばかりだった。背後には、いかにも屈強な衛兵が、幾人も控えている。力ずくで押し通ろうものなら、それこそ「大公が王国の関を武力で破った」と、格好の口実を与えることになる。

 大公は、動かなかった。ここで剣を抜けば、侯爵の思う壺だ。分かっている。分かっていて、手を、縛られている。


 セラフィーナは、役人の様子を、じっと見ていた。

 人を、顔ではなく、細部で覚える目。姉の影で息をひそめて育つうちに、身についた癖。その目が、今、役人の一挙一動を、静かに読み取っていた。

 妙だ、と思った。この役人は、しきりに、街道の東――森の方角を、気にしている。言葉を交わしながらも、視線が、幾度も、そちらへ流れる。そして、その袖口には、乾いた泥が、刎ねている。関所に詰めているだけの役人の靴や袖が、あんなふうに汚れるだろうか。まるで、つい今しがた、森の中を、駆け回ってきたかのように。

 それだけではない。この役人は、手形を確かめると言いながら、一度も、その文面を、真剣に読んでいなかった。目は、紙の上を滑るだけ。初めから、不備の有無など、どうでもよいのだ。ただ、時間を、稼いでいる。何のために? そう考えたとき、セラフィーナの背に、冷たいものが走った。

 人の顔を覚えられぬ夫のために、彼女は、いつしか、人の仕草を、癖を、綻びを、読み取る目を、いっそう研ぎ澄ませていた。誰が嘘をつき、誰が何を隠しているか。その目が、今、この役人の芝居の、綻びを、確かに捉えていた。

 「大公様」彼女は、そっと囁いた。「あの役人、何かを、隠しています。東の森を、気にしている。……もしや、証人の護送路が、そちらなのでは」

 大公の目が、鋭くなった。ギデオンが、はっと息を呑む。

 「奥方様。証人コルヴィスの護送は、まさに、この関所の東を回る間道を――」

 罠だった。関所で一行の足を止め、その隙に、別動隊が、間道を行く証人を襲う。手形の不備など、時間稼ぎに過ぎない。本当の狙いは、証人の口を、永遠に封じることにあった。

 「セラフィーナ、でかした」大公が、低く言った。「気づかねば、証人を、みすみす殺されるところだった」


 だが、大公は、ここを動けない。動けば、関所の衛兵と衝突し、武力介入の口実を与える。

 「わたくしが、参ります」ギデオンが、即座に言った。だが、老いた身だ。間道を駆け、間に合うかどうか。

 そのとき、街道の脇の茂みから、幾つもの人影が、静かに現れた。粗末な身なりの、けれど屈強な男たち。その先頭に立つのは――侍女頭のマレーナと、見覚えのある、北境の村人たちだった。

 「奥方様」マレーナが、硬い表情のまま、頭を垂れた。「北境の者にございます。大公様が王都へ発たれたと聞き、後を追ってまいりました。……北の民は、大公様と奥方様に、この身を捧げると決めております」

 中央では、貌喰いと嘲られ、好奇の目に晒される大公。だが北境では、領民が膝をつき、心から慕う。その落差が、今、力の差となって、実を結んだ。

 なぜ、北の民は、これほどまでに大公を慕うのか。セラフィーナは、この城に来て、幾度もそれを目にしてきた。十年前、戦火から北境を守り抜いたのは、若き日のこの人だった。呪いを身に負ってまで、同士討ちの地獄を止めたのは、この人だった。民は、それを、忘れていない。中央の貴族が嘲る「顔も覚えられぬ大公」を、北の民は、「自分たちを守るために、人の顔さえ捨てた領主」として、敬い、慕っている。

 「東の間道へ」大公が命じた。「証人を、守り抜け。……頼む」

 村人たちが、頷き、森へと駆けていく。彼らは、この土地の者ではないが、山を駆けることにかけては、玄人だった。雪深い北境で、獣を追い、道なき道を行くことに、慣れきった足だ。関所の役人が、慌てて何かを叫んだが、もう遅い。人影は、瞬く間に、夏の緑の中へ、溶けて消えた。


 夜半、報せが届いた。

 証人コルヴィスは、間道の襲撃者から、北境の民の手で、守り抜かれた。今は、迂回路を通り、王都へと向かっている、と。

 関所の役人は、青ざめ、もう一行を止める気力も失っていた。襲撃が失敗に終わったと知り、後ろ盾の侯爵から見捨てられることを、恐れているのだろう。翌朝、手形の「不備」は、なぜか、あっさりと解消された。役人は、目を合わせようともしなかった。

 「見る力、か」王都へ向かう馬上で、大公が、ぽつりと言った。「私は、顔を見分けられぬ。だが、そなたは、私が見落とすものを、見る。……そなたがいなければ、私は、とうに詰んでいた」

 「わたしにできるのは、ただ、見ることだけです」セラフィーナは、首を振った。「剣も、魔法も、持ちません。でも」

 「それで、十分だ」大公は、静かに言った。その声に、確かな熱があった。「そなたの目が、私の目だ。二人で、一人前。……いや、二人でなければ、越えられぬ」

 その言葉が、セラフィーナの胸に、深く沁みた。ずっと、自分は「取り替えのきく駒」だと思って生きてきた。誰かの代わり。いてもいなくても同じ、二番目の娘。けれど、この人は言う。二人でなければ越えられぬ、と。この人にとって、自分は、決して欠くことのできぬ半分なのだ。

 顔を覚えられぬ人と、人の細部を見抜く娘。互いの欠けたところを、互いが埋める。それは、どんな政略よりも、確かな結びつきだった。

 王都の城壁が、地平の彼方に、灰色の影を現し始めていた。

 明後日、臣従の礼。処刑台か、逆転か。すべての駒が、いま、盤の上に、揃おうとしていた。あとは、その盤を、どう指すか。二人の、そしてこの十年を戦い抜いた者たちの、命運を懸けた一手が、目前に迫っていた。


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