第26話 見つけた
門の閂が、外から叩かれた。
夜半の生家は、にわかに騒がしくなった。家令が慌てて灯りを掲げ、寝間着の父が階段を下りてくる。数騎の蹄が、前庭で止まった。セラフィーナは、粗末な外套を羽織ったまま、狭い部屋の扉に耳を当てていた。錠は下りている。けれど、その向こうから聞こえてきた声に、彼女の胸は、大きく鳴った。
「夜分に、失礼する」
低く、けれど、よく通る声。忘れるはずのない声だった。
「ノルディア大公である。妻を、迎えに参った」
父の、うろたえた声がした。家長権が、他家の家長の権利が、と繰り返している。けれど、その声は、明らかに震えていた。傾いた小領の伯爵に、北境を統べる大公を、正面から拒む力などない。
「案じるな」大公の声は、静かだった。「兵は連れておらぬ。力ずくで娘御を奪う気もない。……ただ、妻自身が、この家に留まりたいと望むのであれば、私は退こう。だが、もし、私のもとへ帰りたいと望むのなら――その意志を、確かめさせてもらいたい」
セラフィーナは、扉を、両手で押した。
「大公様!」
声の限りに、叫んでいた。「ここです! わたしは、ここにいます!」
錠が、外された。誰が開けたのかは、分からない。おそらく、あの老庭師が、鍵を持ち出したのだろう。扉が開いた、その先に。
黒い外套の男が、立っていた。
廊下の灯りは、乏しかった。互いの顔など、ろくに見えない。それでも、彼は迷わなかった。何人もの使用人が右往左往する、その薄闇の中を、まっすぐに、セラフィーナのほうへ、歩み寄ってきた。
「見つけた」
彼は、そう言って、彼女の前に立った。
セラフィーナは、言葉が出なかった。六日の距離を。あらゆる制約を。兵も連れず、たった数騎で。この人は、越えてきた。誰の顔も覚えられぬこの人が、それでも、迷いなく、彼女を見つけ出した。
「迎えに来るのが、遅くなった」大公は、掠れた声で言った。「もう、離さぬ」
その硬い手が、彼女の背へ回された。汗と、埃と、遠い馬の匂いがした。六日を駆け通した、その証だった。セラフィーナは、彼の胸に額を押し当て、こみ上げるものを、必死に堪えた。
――顔が分からなくても、あなたは、わたしを見つけてくれる。
それが、何よりの、答えだった。
この城で、初めて「妻はそちらだ」と言い当てられた、あの輿入れの日。あのときは、ただ戸惑うばかりだった。なぜ、この人はわたしを間違えないのか。その理由も分からぬまま、ただ、恐ろしかった。けれど今は違う。この、迷いのない「見つけた」の一言が、どれほど深いところから来ているのか、彼女はもう、知っている。誰の顔も覚えられぬ闇の中で、この人がただ一つ、灯りのように見出す存在。それが、自分なのだ。
「わたしも」彼女は、彼の胸で、ようやく声を絞り出した。「わたしも、あなたのもとへ、帰りたかった」
嘘偽りのない、心からの言葉だった。予備の娘として差し出されたこの結婚が、今では、この世で一番、帰りたい場所になっていた。
父は、もう、何も言わなかった。姉の姿も、いつの間にか、消えていた。傾いた家に、大公を押し留める術は、なかった。セラフィーナは、生家の門を、自らの足で、くぐり抜けた。今度は、追い出される予備の娘としてではなく、迎えられる妻として。
馬上の人となり、北へ――否、王都へと、道を取る。
その道中、街道を戻る馬車の中で、ギデオンが合流した。老従者の顔には、疲労の底に、確かな光があった。
「奥方様。大公様。……掴みましてございます」
彼が、油紙にくるんだ包みを、そっと開いた。中には、古びた書付の束と、一通の署名入りの証言状。そして。
「証人・コルヴィス、無事に確保いたしました。今は、信の置ける者が、王都へ護送しております」ギデオンの声が、震えた。「十年前、ヴェルナー侯爵が、帝国へ禁呪『貌喰い』を手引きした、その動かぬ証。……ようやく、この手に」
馬車の中に、重い沈黙が落ちた。十年。この老人が、ただ一人、追い続けてきた真実が、今、光の下に引きずり出されようとしていた。
セラフィーナは、証言状に、そっと目を落とした。かつて侯爵の密使を務め、良心に耐えかねて姿を消した男。その手が、震えながら綴ったであろう告白。この一枚を得るために、ギデオンは十年を費やし、そして北の果てまで、老いた身で駆けた。
「よく、ご無事で」彼女は、老従者の手を、そっと握った。「危ない橋を、渡らせてしまいました」
「なんの」ギデオンは、深い皺の刻まれた顔を、わずかに緩めた。「大公様が、人並みに笑うようになられた。奥方様が、この城に来てくださってから。……この老いぼれの十年が、報われるとすれば、それだけで十分にございます」
「間に合うか」大公が、低く問うた。
「臣従の礼まで、あと五日。証人の護送に、あと三日。……ぎりぎりにございます。されど、必ず、間に合わせまする」
だが、と老従者は声を落とした。相手も、黙ってはいまい。証人が確保されたと知れば、侯爵は、なりふり構わず、その口を封じにかかる。王都へ入るまでの道が、最後の関門になる、と。
王都への道は、北へ向かう街道と、しばらく重なっていた。
窓の外を過ぎていく景色に、セラフィーナは、ふと、既視感を覚えた。雪こそないが、痩せた木立。凍てついた川の面影を残す、細い流れ。――あの冬に、似ている。
六つか、七つの頃。戦火を逃れ、北へ逃げた、あの道。倒れた若い男に、水を運んだ、あの場所。記憶が、鮮やかに、蘇ってくる。震える手。掠れた「ありがとう」。頭を撫でた、あの温もり。
彼女は、隣で目を閉じている夫の、横顔を見た。
この人が、握りしめたという、温かい光。呪いに喰われる寸前、手放したくないと願った、たった一つのもの。もし、それが。
まさか、と、また思う。けれど、その「まさか」は、もう、否定しきれないほど、大きくなっていた。あの冬の男と、この人の面影が、記憶の中で、静かに、重なりかけていた。
あと、少し。
答えは、すぐそこまで、来ていた。手を伸ばせば、触れられそうなほどに。窓の外を、灰色の街道が、後ろへ流れていく。その先に、王都が。処刑台が、そして――すべての決着が、待っていた。




