第25話 あなたは、わたしにはなれない
翌朝、セラフィーナは、父の書斎へ呼ばれた。
ロズウェル伯爵は、机の向こうで、娘を見もせずに書類を繰っていた。灰色の髪に、痩せた頬。その顔には、娘への情など、ひとかけらも浮かんでいない。
「お前が戻ってきたのは、家のためだ」父は、抑揚のない声で言った。「予備には、予備の務めがある。大公家との縁は、もう用済みだ。次は、侯爵家に恩を売る。お前は、そのために働け」
かつてのセラフィーナなら、俯いて、頷いていただろう。「はい、お父様」と。それが、この家で息をする、唯一の方法だった。
けれど、彼女は、顔を上げた。
「いいえ、お父様」
父の手が、止まった。ゆっくりと、娘へ視線が向けられる。この娘が、口答えをするなど、初めてのことだった。
「わたしは、予備ではありません」セラフィーナの声は、静かで、けれど、揺るがなかった。「わたしは、あの人がこの世でただ一人、間違えない妻です。誰にも、代われない。姉様にも、誰にも」
「……何を言っている」
言いながら、セラフィーナは、自分の声が、思いのほか落ち着いていることに気づいた。この父の前で、顔を上げて話すことすら、かつては叶わなかった。俯いて、小さくなって、叱責の嵐が過ぎるのを待つ。それが、幼い頃から染みついた、身の処し方だった。
けれど今、彼女を支えているのは、あの北の城で得たものだった。「予備」ではなく「妻」として、迷いなく選ばれた記憶。誰の顔も覚えられぬ人が、彼女だけを、一度も間違えなかったという事実。それが、この娘に、生まれて初めて、抗う背骨を与えていた。
「お父様こそ、お分かりのはずです」彼女は、まっすぐに父を見据えた。「この家は、傾いています。壁の絵は売られ、使用人は減り、商人が帳面を繰っている。だから、侯爵の企みに乗った。娘を売って、家を保つために。……けれど、その侯爵が、もし失脚すれば? お父様は、沈む船に、家運のすべてを賭けているのですよ」
父の目が、細くなった。図星を突かれた者の、苦い沈黙だった。
そこへ、扉が開いて、リゼットが入ってきた。
「何を、生意気な」姉の声は、鋭かった。だが、その裏に、隠しきれない焦りがあった。「セラフィーナ。最後の機会をあげるわ。建国祭の日、あなたの代わりに、わたくしが大公妃として立つ。あなたは、黙ってここにいればいい。そうすれば、悪いようにはしない」
「姉様」セラフィーナは、姉に向き直った。「もう、おやめください。何度、試したのですか。仮面舞踏会でも、宴でも。あの人は、一度たりとも、姉様をわたしと間違えませんでした」
「あれは、たまたま――」
「いいえ」
セラフィーナの声が、姉の言葉を、静かに断ち切った。
「顔が同じでも、あの人には分かるのです。声を真似ても、同じドレスを着ても、無駄です。……姉様。あなたは、決して、わたしにはなれません。あの人にとって、わたしは、この世でたった一人。取り替えの、きかない人間なのです」
その一言が、リゼットの、最後の拠り所を打ち砕いた。
「取り替えのきく娘」――それは、この家が、セラフィーナに押してきた烙印だった。姉の予備。いつでも代われる、二番目の娘。けれど今、その娘が、誰にも代われぬ存在として、姉の前に立っている。姉の「入れ替わればいい」という論理そのものが、根底から、崩れ去っていた。
リゼットの顔から、優雅な仮面が剥がれ落ちた。青ざめ、唇を震わせ、姉は、後ずさった。
「あなたなんて……あなたなんて、ただの予備のくせに……!」
それは、もはや棘のある嫌味ではなく、追い詰められた者の、悲鳴だった。替え玉は失敗を重ね、侯爵からも見放されつつある。妹は、もう手の中にない。姉が握っていたはずの優位は、すべて、指の間から零れ落ちていた。
父は、そんな長女を、冷たく一瞥した。その目に浮かんでいたのは、失敗を重ねた駒への、静かな見切りだった。この家では、誰もが、誰かの駒でしかない。姉さえも。その醜さを、セラフィーナは、痛みとともに、しかしもう囚われることなく、見つめていた。
哀れだ、と思った。姉を、憎む気持ちは、もう湧いてこなかった。人形も菓子も青い上着も、「似合うのはわたくしのほう」と取り上げてきた姉。けれど、その姉もまた、「本命の娘」という役割に縛られ、家の道具として育てられた、囚われの身だったのだ。優位を保つことでしか、自分の価値を確かめられない。そういう生き方しか、与えられてこなかった。
わたしは、そこから、出る。セラフィーナは、静かに心を決めた。この家の論理からも、「予備」という烙印からも。誰かの代わりとしてではなく、わたし自身として、生きるために。
その夜。
セラフィーナは、狭い部屋の窓辺で、格子に手をかけていた。
軟禁とはいえ、この家の警備は、傾いた家運のとおり、緩んでいた。かつてこの家に仕え、幼い彼女に一度だけ優しくしてくれた老庭師が、今も裏庭にいることも、彼女は覚えていた。人を細部で覚える、その目が、逃げ道を、静かに探り当てていた。
――帰ろう。あの人のもとへ。
誰かに連れ出されるのを待つのではない。自分の足で。生まれて初めて、セラフィーナは、自らの意志で、家の門を出ようとしていた。予備の娘ではなく、一人の人間として。
格子の隙間から、夜風が流れ込む。北の匂いがした。あの城の匂いに、どこか似ていた。
もう、待たない。誰かが助けに来てくれるのを、格子の内で祈るだけの娘では、いたくなかった。この足で、六日の距離を、越えてみせる。たとえ、どれほど無謀でも。あの人が、たった一人で処刑台の壇上に立つより前に、必ず、隣に戻る。
彼女は、そっと、部屋の扉へ足を向けた。用意しておいた粗末な外套を、肩に羽織る。裏庭の老庭師に、頼るつもりだった。幼い日、泣いていた彼女に、一輪の花をくれた、あの老人に。
その、まさに時。
窓の外、闇の向こうから、馬蹄の音が、近づいてきた。土を蹴る、急いた響き。大勢ではない。数騎ほどが、夜の静寂を破って、こちらへ、まっすぐに駆けてくる。
セラフィーナは、窓辺へ駆け戻った。格子越しに、闇を透かし見る。小さな松明の灯りが、揺れながら、生家の門へ迫ってくる。その先頭を駆ける、黒い外套の騎影に――彼女の胸の奥が、確かに、灯った。
まさか。この距離を。兵も連れず、あらゆる制約を、押して。




