第24話 予備の部屋
馬車に揺られて、六日。
王都の喧騒も、北の澄んだ空気も、遠く後ろへ流れ去った。窓の外を過ぎていくのは、見覚えのある、痩せた麦畑と、灰色の空。ロズウェル領。生まれ育った、けれど、ただの一度も「帰りたい」と思ったことのない、故郷だった。
生家の門をくぐると、迎えの言葉はなかった。父は、書斎から出てもこなかった。ただ、古株の家令が、無表情に、セラフィーナを二階の一室へ案内した。
その部屋を見た瞬間、彼女は、足を止めた。
北向きの、日の差さない、小さな部屋。色褪せた寝台と、傷だらけの文机。窓は狭く、鉄の格子が嵌まっている。――かつて、彼女が使っていた部屋だった。姉の華やかな南向きの部屋の、ちょうど裏側。予備の娘に、与えられた場所。
「しばらく、こちらでお過ごしください」家令は、それだけ言うと、扉を閉めた。錠のかかる、硬い音がした。
軟禁だった。名ばかりの「呼び戻し」の、その正体。
部屋に通されるまでの、短い道すがら。セラフィーナの目は、生家の内側を、静かに読み取っていた。壁に飾られていたはずの祖父の代の絵が、いくつか、消えている。売り払ったのだろう。使用人の数も、記憶より減っていた。父の書斎の扉の隙間から、見慣れぬ商人らしき男が、渋い顔で帳面を繰っているのが見えた。
――家が、傾いている。
昔から人を細部で覚えてきた目が、そう告げていた。体面ばかりを気にするこの家が、内側では、じわじわと窮していく。だからこそ、父は侯爵の企みに乗ったのだ。娘を差し出す見返りに、傾いた家を、支えてもらうために。
窓辺に立つと、狭い格子の向こうに、遠い北の空が見えた。あの空の果てに、ノルディアの城がある。あの人がいる。六日の距離。今の自分には、越えようのない距離だった。
幼い頃、この部屋で、セラフィーナは何度、泣いただろう。姉が新しいドレスをもらった日。父が姉の名だけを呼んだ日。「お前は予備だ」と言われるたび、この北向きの部屋に戻り、格子の向こうの空を見上げて、自分は誰にも必要とされないのだと、思い知った。
けれど。
彼女は、格子を握る手に、力を込めた。あの頃とは違う。俯いて、諦めて、消えるように生きていた娘は、もう、ここにはいない。この部屋に閉じ込められても、心まで、あの頃に戻りはしない。
扉の外で、絹擦れの音がした。錠が開き、姉――リゼットが、入ってきた。
「久しぶりね、セラフィーナ」姉は、優雅に微笑んだ。「この部屋、覚えているでしょう? あなたに、よく似合うわ。昔から」
「姉様」
「安心なさい。すぐに終わるわ」リゼットは、勝ち誇ったように言った。「建国祭の日、大公様は、たったひとりで臣従の礼に臨むの。妻もなく、支えもなく。……人の顔も覚えられぬ男が、大勢の貴族の前で、誰が誰かも分からず立ち尽くす。侯爵様が、その醜態を、白日の下に晒してくださるのよ」
「その日が来れば」リゼットは、扇を弄びながら続けた。「あなたは、用済みよ。大公家は失墜し、あなたは離縁される。そして――大公妃の座には、わたくしが座るの。侯爵様が、そう取り計らってくださる。あなたは、また、ここへ戻ってくるのよ。この、予備の部屋に」
セラフィーナは、姉を、静かに見返した。反論は、しなかった。今は、まだ。ただ、その言葉の端々に、姉の焦りが滲んでいるのを、聞き逃さなかった。仮面舞踏会でも、盛夏の宴でも、リゼットの替え玉は、ことごとく大公に見抜かれた。姉は、もう後がない。侯爵にとっても、家にとっても、失敗を重ねた姉の価値は、確実に目減りしている。追い詰められた者ほど、声を張る。ことさら勝ち誇ってみせる姉の裏に、セラフィーナは、その足元の崩れを見て取っていた。
「……ゆっくり、お休みなさい」姉は、絹擦れの音を残して、去っていった。錠の下りる音が、また、響いた。
同じ頃、王都では。
軍務卿ヴェルナー侯爵が、宮廷の広間で、多くの貴族を前に、朗々と語っていた。
「北境を預かるノルディア大公家には、長年、看過しがたき疑いがございます」侯爵の声は、低く、よく通った。説教師じみた抑揚で、言葉が広間に染み渡っていく。「此度の建国祭、臣従の礼の場において、私は、その疑いの証を、皆様の前にお示しいたします。王国の秩序のため。……それが、軍務を預かる者の、務めにございますれば」
悪びれた様子は、微塵もなかった。侯爵は、あくまで「国のため」の顔で、告発を予告した。その仮面の下に、十年前、自らが大公へ呪いを手引きした罪を隠したまま。
伝え聞いた大公は、書斎で、ひとり、拳を握っていた。証人・コルヴィスを探しに、ギデオンは北へ発った。だが、間に合うかは分からない。妻は、六日彼方の生家に囚われている。臣従の礼まで、あと数日。顔を確かめ合う儀式の壇上で、彼を支える者は、誰もいない。
「セラフィーナ」彼は、誰もいない書斎で、その名を呼んだ。離れれば、彼女の顔さえ思い出せない。それでも、この胸の一点だけは、確かに、彼女を求めて灯り続けていた。
窓辺に立ち、彼は北の空を見上げた。妻を奪われた城は、以前にも増して、静まり返っている。かつては、この静寂こそが日常だった。人の顔のない世界。誰が誰とも知れぬ、灰色の孤独。それに、慣れきっていたはずだった。だが今は違う。彼女のいない静けさが、これほど堪えるとは。あの娘が来るまで、自分がどれほど凍えていたのか、失って初めて、思い知らされていた。
力ずくで、生家へ乗り込めば。一瞬、その考えが胸をよぎった。だが、できない。他家の家長権を侵せば、待っているのは、大公家の失墜。侯爵の思う壺だ。手は、縛られている。ただ、待つことしか、できない。妻が自ら帰るのを。証人が北から届くのを。細い、細い、二本の糸を頼りに。
北の空の下と、王都の広間。
六日の距離に隔てられた二人は、それぞれの夜を、独りで迎えていた。
格子の向こうの空を見上げるセラフィーナ。誰もいない書斎で拳を握る大公。迫る告発の日。閉ざされた扉。二人を隔てる、越えようのない距離。
すべてが、二人を引き裂こうとしていた。
――けれど、その夜。
狭い部屋の窓辺で、セラフィーナは、格子を握ったまま、静かに目を上げた。その瞳には、涙ではなく、明確な意志が宿っていた。諦めることに、慣れきっていたはずの娘の目に。




