第30話 見つけられる人
大公が、踏み出した。
迷いのない足取りで、人の海を、分けていく。似た背丈の、似た装いの女たちが、幾人も、その行く手に立っていた。けれど、彼は、そのどれにも、目を留めなかった。似た顔も、違う顔も、彼には、区別がつかぬ。だから、彼は、顔を、見ていなかった。
彼が見ていたのは、顔ではない。もっと、深いところにある、何か。この十年、呪いに喰われながら、たった一つ、喰い残した、あの温かい光。それが灯る場所へ、彼は、まっすぐに、歩いていった。
そして、人垣の中の、ひとりの前で、足を止めた。
「妻は」大公は、静かに、しかし広間じゅうに響く声で、言った。「ここに、いる」
彼の手が、そっと、その人の手を取った。
セラフィーナだった。
どよめきが、広間を、揺らした。大公は、幾百の人の海の、無数の似姿の中から、ただ一人、間違えず、妻を、見つけ出したのだ。顔を、見ずに。
「陛下」大公は、セラフィーナの手を取ったまま、玉座を振り返った。「私は、確かに、人の顔を覚えられませぬ。されど、この妻ただ一人だけは、この世の果てまで、群衆の底まで、決して、見失いませぬ。……忠誠を誓うべき相手を、違えることなど、断じてございませぬ」
静寂の後、広間の、どこからか、ため息とも感嘆ともつかぬ声が、漏れた。それは、さざ波のように広がり、やがて、抑えきれぬ、どよめきへと変わっていった。「顔も覚えられぬ大公」への嘲りは、いつしか、「幾百の中から妻を見出す大公」への、畏敬に、変わっていた。
顔を失った男が、ただ一人を、間違えぬ。
それは、もはや、欠陥ではなかった。この世で最も深い、愛の証だった。
「ば、馬鹿な」侯爵の声が、上ずった。「何か、からくりが。目印か、匂いか――」
「侯爵」王が、静かに、それを制した。「そなたは、見たであろう。皆も、見た。大公は、妻を、間違えなんだ。……これ以上、何を、疑うと申す」
侯爵の顔が、青ざめた。告発は、逆しまに、大公の絆を、王と全貴族の前で、証明する結果に終わった。
だが、決着は、まだ、これからだった。
「陛下。申し上げたき儀が、ございます」
進み出たのは、老従者、ギデオンだった。その手には、油紙の包み。
「軍務卿ヴェルナー侯爵は、大公が『人の顔を覚えられぬ』ことを、いかにして、知り得たのでしょうか」ギデオンの声は、静かで、しかし、鋭かった。「大公が、その秘密を、隠し通してきた、この十年。噂の出所を、たどれば――行き着くのは、侯爵、ただ一人にございます。なぜなら、侯爵こそが、その呪いを、大公に、負わせた張本人だからにございます」
広間が、どよめいた。
ギデオンは、油紙を開き、古びた書付と、署名入りの証言状を、王の御前に、掲げた。
「十年前、北境戦役。劣勢であった帝国が、突如、失われたはずの禁呪『貌喰い』を、戦場に投入いたしました。あれほど古い呪具を、帝国は、どこから得たのか。……手引きした者が、おったのです。帝国と通じ、呪具の在処を知り、大公を戦場で葬らんとした者が。ここに、その証がございます。当時、侯爵の密使を務めた男、コルヴィスの、証言。そして、侯爵自らが認めた、帝国との、密書」
証人コルヴィスが、衛兵に伴われ、広間へ、進み出た。
侯爵の顔から、血の気が、引いていった。
「呪いを負わせた張本人が」大公が、静かに、告げた。「その呪いを口実に、私を裁こうとした。……侯爵。あなたが、これほどまでに私の秘密を葬りたがったのは、それが、あなた自身の罪の、生きた証だったからだ」
言い逃れは、できなかった。物証は、揃っていた。証人は、生きて、ここにいる。侯爵は、がっくりと、膝をついた。北境の軍権を欲した、その野心も。国のためという、正論の仮面も。すべては、十年前の、売国の罪を覆い隠すための、まやかしだった。
王が、重々しく、宣した。
「ヴェルナー侯爵。そなたの罪、断じて許さぬ。……軍務卿の任を解き、追って、沙汰を下す」
衛兵が、崩れ落ちた侯爵を、引き立てていく。その後ろ盾を失った実家――ロズウェル伯爵家もまた、この日を境に、宮廷での立場を、静かに、失っていくことになる。娘を道具として差し出した家は、その道具が、誰よりも尊いものだったと知らぬまま、ゆるやかに、没落の道を、たどっていった。
嵐が、去った。
王宮の一室で、セラフィーナと大公は、ようやく、二人だけになった。窓の外は、建国祭の、賑わい。けれど、この部屋だけは、静かだった。
「終わった、のですね」セラフィーナは、ぽつりと言った。
「ああ」大公が、頷いた。「そなたのおかげだ。そなたが、いなければ」
「いいえ」彼女は、首を振り、そして、微笑んだ。「二人でなければ、越えられなかった。……そう、言ってくださったでしょう」
大公が、彼女を見た。それから、意を決したように、口を開いた。
「セラフィーナ。あの冬のことだが。……確かめる術は、ないと、言った。私は、あの子の顔を、思い出せぬ。だが」
彼は、彼女の手を、そっと取った。
「先ほど、あの人垣の中で。私は、そなたを見つけた瞬間、はっきりと、分かったのだ。あの冬、凍った川のほとりで、私が握りしめた、あの温かい光。呪いに喰われる寸前、これだけは手放したくないと願った、たった一つのもの。……あれは、そなたが、運んでくれた、一杯の水の、温もりだった」
セラフィーナの、息が、止まった。
「顔は、覚えておらぬ。名も、聞かなかった。だが、あの温もりだけは、呪いも、喰えなかった。十年、私の中に、残り続けた。そして、輿入れの日、そなたを見た瞬間、それが、応えたのだ。……ずっと、不思議だった。なぜ、そなただけを、間違えぬのか。今なら、分かる。私は、十年前から、ずっと、そなたを、探していたのだ」
涙が、セラフィーナの頬を、伝った。
「あの日」彼女は、震える声で言った。「あの日、水を運んだのは、わたしです。誰も、足を止めなかった。わたしだけが。……予備の娘で、誰にも必要とされなくて。でも、あの人に――あなたに、『ありがとう』と、頭を撫でてもらえて。生まれて初めて、誰かの役に立てた気が、したのです。あの一瞬だけが、わたしの、宝物でした」
十年前の、幼い二人。
取り替えのきくと蔑まれた娘だけが、供の誰もが見捨てた男を、見つけた。そして、顔を失ったその男が、この世でただ一人、その娘だけを、見つけ続けた。
「取り替えのきく娘」――そう呼ばれ続けた少女は、この世で最も、取り替えのきかない、たった一人だったのだ。
建国祭の、翌朝。
客誓期は、満了した。政略で結ばれた、白い一年が、明けた。二人は、王の御前で、改めて、夫婦の誓いを、立て直した。今度は、政略ではなく、心で。
朝の光が、大公邸の寝室に、差し込んでいた。
目を覚ました大公は、隣に眠る妻の顔を、しばらく、見つめていた。彼には、その顔が、誰の顔とも、区別がつかぬ。今日もまた、鏡の中に、他人を見つけるのだろう。人の名を、細部で手繰り寄せる、孤独な一日が、始まるのだろう。
それでも。
妻が、ゆっくりと、目を開けた。その姿が、彼の視界に、映った、その瞬間。
彼の胸の奥に、あの温かい光が、迷いなく、灯った。
「おはよう、セラフィーナ」
彼は、名を呼んだ。この世で、ただ一人、間違えることのない、その名を。
顔が、分からなくても。
彼は、いつだって、彼女を、見つけられる。
窓の外、北境の空は、どこまでも、青く、晴れ渡っていた。




