第9話:脚本より強い
翌日の放課後、部室へ入ると、冬木静がいた。
来訪者証を制服の胸元につけ、最後列の椅子に座っている。膝の上には、付箋で膨らんだ黒いファイルがあった。前回の見学のあと、終幕が固まったらもう一度見たいと顧問へ伝えていたらしい。
静は俺を見た。声はかけない。俺も何も言わず、照明卓のそばへ向かった。
「始める前に、一つ共有する」
部長が印刷された紙を持って、部員たちを集める。
「とおるさんから、終幕について補足が来た」
静の指が、黒いファイルの上で止まった。
部長が文章を読み上げる。
「『終幕の解釈は、橘日向さんと如月透さんが稽古の中で作ったものとして受け取っています』」
部員たちの何人かが、俺を見る。日向が俺の名前を出したときと同じ視線だった。
けれど今日は、匿名作者の言葉の中に俺の名前がある。
「作者も、二人で作った演技だと認めたってことですね」
部員の一人が言った。
部長は紙を見直す。
「認めた、というより、そういうものとして受け取った、だな」
日向は何も言わなかった。俺へも視線を向けない。
昨日、日向からもう礼は受け取っている。俺も説明しなかった。
「補足は稽古記録へ入れておく」
部長は紙をファイルへ綴じた。
「終幕の演出は昨日決めた形で進める。今日は第二幕の後半から通す」
部員たちが動き始める。静だけが最後列に残った。
「冬木さん。終わったあと、感想を聞いてもいい?」
「そのために来ました」
静は俺を見ずに答えた。
俺は記録表を取った。開演時刻。場面転換。照明の遅れ。小道具の不備。昨日までと同じ項目が並んでいる。
稽古が始まる。
第二幕の後半。アキの言葉から、少しずつ返事が失われていく場面だ。日向は、誰かに見つけてもらえると信じていた第一幕の声を残したまま、その声が届かなくなる時間を進んでいた。
静は台本を開いている。舞台とページを、交互に見ていた。
俺は記録表へ転換時刻を書き込む。
相手役が自分の台詞を言い終える。日向へ背を向ける。足音が舞台袖へ消える。
日向だけが残った。
「どうして私を見てくれないの」
声は相手を追わなかった。日向は顔を伏せない。
見られなかったことを、なかったことにしないために立っている。
次に誰かを見るために立っている。
二つの答えを、どちらか一方へ決めないまま。
一秒。二秒。三秒。
暗転。
「止めて」
部長の声が響く。照明が戻った。
「転換は問題なし。橘も今のでいい」
「はい」
日向が答える。
部長は最後列を見る。
「冬木さん。どうだった?」
静はすぐには答えなかった。台本の終幕を開いたまま、舞台中央の日向を見ている。
「脚本より、今の舞台の方が強いです」
部室の空気が少し変わった。
「それは、褒めてる?」
部員の一人が聞いた。
「評価しています」
静は黒いファイルを閉じなかった。
「脚本には、最後の台詞のあとが書かれていません。アキがどう立つのかも、何を見るのかも」
終幕のページを指で押さえる。それから、日向を見た。
「橘さんが、作者の書けなかった終幕を完成させたように見えました」
部員たちの視線が日向へ集まる。
「じゃあ、橘の演技が脚本を越えたってこと?」
「私はそう見ました」
日向はすぐには答えなかった。褒められたときの笑顔も見せない。台本の終幕へ目を落とし、それから静を見る。
「私は、作者を直したつもりはありません」
「でも、脚本にないものを作ったでしょう」
「作りました」
日向は否定しなかった。
「なら、あなたが終幕を完成させたのでは?」
「作者の続きを書いたんじゃありません」
日向は台本を閉じる。
「アキを演じただけです」
「同じことではないの?」
「違います」
日向の声は強くなかった。それでも、引かなかった。
「脚本を読んで、如月くんの答えを聞いて、私も考えました。でも、作者の代わりに続きを書いたわけじゃありません」
「舞台では、書かれていない続きを見せていた」
「アキならどうするかを選びました」
「それを完成と呼ばない理由は?」
日向は少し考えた。
「私一人で作ったものじゃないからです」
静の指が、終幕のページを一度なぞった。反論を探しているようには見えなかった。日向の答えを、自分の中のどこへ置くか決めかねている手つきだった。
やがて静が顔を上げた。
「如月くんは、どう思う?」
突然、視線がこちらへ向いた。部員たちも俺を見る。
記録表の上で、鉛筆が止まった。
「何を」
「橘さんが、脚本を完成させたと思う?」
答えは簡単だった。
「冬木の言う通りだと思う」
日向が俺を見る。
「台詞のあとを書かなかったのは、脚本の不足だ」
静が小さくうなずく。
「では、橘さんが補った」
「そうだ」
「違う」
日向が言った。今度は、静ではなく俺を見ている。
「何が」
「私は一人で作ってない」
「最後に選んだのはお前だ」
「うん。私が選んだ」
日向は認めた。
「でも、一人で作ったことにはならないよ」
「俺は、足りないところを言っただけだ」
「如月くんの言葉がなかったら、私は別の立ち方をしてた」
「それでも演技にしたのはお前だ」
「だから、それは私の仕事」
日向は一度、舞台の床を見る。自分が三秒間立っていた場所だった。
「でも、如月くんの答えを消したら、今のアキじゃなくなる」
返す言葉が止まった。
日向は、俺の失敗を否定しているわけではない。脚本に空白があったことも、自分が最後の立ち方を選んだことも、どちらも認めている。その上で、俺だけを共同者の位置から降ろすことを拒んでいる。
静が俺を見る。
「脚本には、書かれていない」
「書いてない」
「では、橘さんが作った」
「それだけじゃない」
口にすると、静の眉がわずかに動いた。
「脚本だけでも、橘一人でも、俺一人でも、今の終幕にはならなかった」
「共同制作だと言いたいの?」
「分けたら、別の終幕になる」
静は黙った。
俺は舞台を見る。
最後の台詞。書かなかった一行。俺が出した過去を向く答え。日向が出した未来を向く答え。日向が選んだ立ち方。
どれか一つだけを取り出せば、さっきの三秒にはならない。
「脚本の不足は消えない」
俺は言った。
「橘が演技にしたことも変わらない。でも、誰か一人の成果にしたら、あの終幕とは違うものになる」
日向は何も足さなかった。静もすぐには返さなかった。
部長が俺たち三人を見る。
「評価の話は、ひとまずここまでにしよう」
台本を閉じる。
「今の終幕を誰か一人の功績として記録する予定はない。演出はこのまま進める」
部員たちが次の確認へ動き始める。
静は最後列に座ったまま、終幕のページを見ていた。稽古が終わるまで、それ以上は何も言わなかった。
片づけが始まる。
俺は記録表を部長へ返し、照明卓の電源を落とした。日向は舞台上で、相手役と小道具の位置を確認している。
静が黒いファイルを鞄へ入れた。来訪者証を外し、出口へ向かう。
日向の横を通り過ぎる直前で、足を止めた。
「橘さん」
日向が振り返る。
「はい」
「今の終幕を見て、私は『とおる』に負けたとは思いませんでした」
俺の手が、照明卓の上で止まった。
静は俺を見なかった。
「あなたに負けたと思いました」
日向は少しだけ目を見開いた。部室の音が遠くなる。
「私は、脚本を書いていません」
「舞台では、脚本家だけが競争相手ではないのでしょう?」
静は、当然のことのように言った。
日向はすぐには答えなかった。勝ったとも言わない。謙遜もしない。
「次も、アキを演じます」
静の口元が、わずかに上がった。
「だから、嫌なのよ」
静は部室を出ていった。扉が閉じる。
日向はしばらく、その扉を見ていた。やがて舞台へ向き直り、途中だった小道具の確認へ戻る。
競争相手を測る静の視線が、初めて俺を通り過ぎた。
その先には、舞台の上にいる日向が立っていた。




