第10話:借りる前に
翌日の放課後、顧問が白い封筒を持って部室へ入ってきた。
「橘。これ、冬木さんから」
名前を呼ばれた日向が、舞台袖から顔を出す。
「冬木さんからですか?」
「昨日、帰りに顧問室へ寄って置いていった。橘に直接渡してほしいって」
封筒の表には、橘日向様、と書かれていた。差出人の名前はない。それでも、角の揃った細い字には見覚えがあった。
日向は両手で封筒を受け取った。
「ありがとうございます」
その場では開けない。自分の台本と一緒に机の端へ置き、小道具の確認へ戻っていく。
部員たちも、少しだけ封筒を気にしたあと、それぞれの準備へ戻った。
俺は照明卓の電源を入れ、記録表を広げた。机の上の白い封筒だけが、昨日までになかった。
自分に関係のないものなら、見る必要はない。静が日向へ渡した手紙だ。昨日、静の視線は俺を通り過ぎた。その先にいた日向だけへ向けられたものなら、なおさら俺が気にする理由はない。
照明卓のつまみを確認する。顔を上げる。
封筒はまだ、台本の上に置かれていた。
休憩に入るまで、日向は封を切らなかった。
「十分休憩。次は第一幕から確認する」
部長の声で、部員たちが舞台を降りる。
日向は机へ向かった。ペットボトルの蓋を開ける前に、白い封筒を手に取る。端を傷つけないように指を入れ、ゆっくりと開いた。
中に入っていたのは、折り畳まれた便箋が一枚だけだった。脚本ではない。
日向が文面へ目を落とす。
少し離れた場所で、俺は記録表の時刻を整理していた。読むつもりはなかった。それでも、日向の視線が一度止まったのが見えた。
「冬木、何て?」
口にしてから、自分から聞いたことに気づいた。
日向が顔を上げる。
「私の声で、短い脚本を書きたいって」
「もう書いたのか」
「まだ」
日向は便箋をこちらへ向けた。隠すつもりはないらしい。
『昨日の終幕を見て、橘さんの声で短い脚本を書きたいと思いました』
『書いてもよければ、返事をください』
『断られた場合は書きません』
三行だけだった。
静の文章には、余計な理由がひとつも書かれていない。何を見て、何を望み、何を待つのか。それだけが並んでいる。
「断った方がいい」
考える前に言っていた。
日向は便箋を持ったまま、俺を見る。
「どうして?」
「冬木は、お前を勝負に使う」
「勝負?」
「昨日、言ってただろ。お前に負けたって」
「うん」
「自分の脚本で取り返したいだけかもしれない」
日向は否定しなかった。もう一度、手紙へ目を落とす。
「そうかもしれないね」
「なら――」
「でも、使う前に聞いてる」
言葉が止まった。
日向は便箋の最後の行を指で押さえる。
『断られた場合は書きません』
静は、まだ書いていない。日向の声を使う前に、本人へ聞いている。
「競争のためでも、冬木さんは私が嫌だと言ったら書かない」
「書かないと言ってるだけだ」
「信じないの?」
「そうじゃない」
「じゃあ、何が嫌なの?」
答えは出なかった。
静が日向の声を使うこと。静が日向を見て、何かを書きたくなったこと。自分以外の脚本家が、日向の中へ言葉を置くこと。
どれが嫌なのか、自分でも分けられなかった。
日向は返事を待っていた。急かさない。こちらが答えないからといって、代わりに理由を決めもしない。
「如月くんが嫌でも、私が決めるよ」
静かな声だった。突き放す言い方ではない。自分の声について、自分が決める。ただそれだけを言っている。
「分かってる」
俺は答えた。口にしたあとで、分かっていなかったことだけが残った。
日向の声は、日向のものだ。誰に使わせるかも、どう使わせるかも、俺が決めることではない。そんなことは、最初から分かっているはずだった。
日向は机の引き出しから、便箋を一枚取り出した。ペンの蓋を外す。すぐには書き始めない。冬木の手紙をもう一度読み、最初の一行へ視線を戻す。
『橘さんの声で短い脚本を書きたいと思いました』
日向は便箋へペンを置いた。
『私の声を思い浮かべて書くのは構いません。でも、私をそのまま役にするのは嫌です』
書かれた一文を、俺も見ていた。
許可と拒絶が、同じ一文に並んでいる。冬木静を拒む文章ではない。自分の声を思い浮かべられることと、自分自身を作品へ移されることを、日向は分けている。
日向は改行した。
『冬木さんが作った、私ではない役なら、読んでみたいです』
そこでペンを止める。文字を最初から読み返し、最後に自分の名前を書いた。
「声を使っていいって言うのか」
聞くと、日向がこちらを見る。
「思い浮かべるだけなら」
「それでも、お前のために書くんだろ」
「うん」
「なのに、お前じゃない役にしろって?」
「私をそのまま書かれるのは嫌」
日向は返事の便箋を持ち上げる。
「でも、冬木さんが作った人なら、会ってみたい」
「会う?」
「役を読むって、そういうことでしょう」
日向は少しだけ笑った。
「私と同じ人を渡されても、たぶん演じられない。でも、私じゃない人なら、どういう声なのか探してみたい」
作者が見た橘日向を、そのまま役として与えられることは拒む。けれど、自分の声を入口にして、作者が別の誰かを作ることまでは拒まない。
日向は、使われるか使われないかだけを選んでいるのではなかった。どう使われることなら受け取れるのかを、自分の手で線を引いている。
「冬木さん、これで書くかな」
「分からない」
「そうだね」
日向は手紙を折り畳んだ。元の封筒へ入れようとして、手を止める。
「これ、冬木さんの手紙も入ってるから、新しい封筒がいるね」
机の中を探し、新しい白い封筒を取り出す。宛名を書く。
冬木静様。
その下に、自分の名前を書く。
橘日向。
俺は、その二つの名前が並ぶのを見ていた。
「まだ反対?」
日向が封筒から顔を上げる。
「俺が決めることじゃない」
「うん」
日向はそれ以上聞かなかった。正しい答えを言えたことを、褒めもしない。最初からそうあるべきだったという顔で、封筒の口を閉じた。
「顧問の先生に渡してくる」
立ち上がる。俺は引き止めなかった。
日向が部室を出ていく。扉が閉じる。
机の上には、日向が外したペンの蓋だけが残っていた。
もっと反対することはできた。静の競争心を理由にして、警戒する言葉を重ねることもできた。
けれど、それ以上、日向の返事を自分の望む方へ動かそうとはしなかった。
日向の声を誰かが使うことへ反対しながら、俺は三年間、その声を使ってきた。一度も聞かずに。
稽古が再開する。
日向は戻ってくると、何もなかったように舞台へ立った。静の手紙について、もう俺に何も尋ねなかった。自分で決めたからだ。
帰宅後、机へ鞄を置いた。端末を開く。
匿名作者「とおる」のフォルダを表示する。演劇部へ送った補足。完成した脚本。書きかけの脚本。
古い順に並べ替える。一番下に、三年前の日付がついたフォルダがあった。
『観察』
開く。
中には、脚本を書く前に作った短いメモが並んでいた。当時は資料と呼んでいた。日向が一年生だった頃。まだ演劇部の主役ではなく、背景に近い役を何度も演じていた頃の記録だ。
ファイルを一つ開く。
『橘日向。笑う前に、一度だけ息を止める』
次の行。
『一人になると、廊下の窓へ顔を向ける』
その下。
『返事に困ると、右手を一度だけ握る』
覚えている。日向に気づかれない場所から、俺はそれを見ていた。
廊下。体育館の袖。視聴覚室の最後列。
声だけではない。息も、指も、一人でいるときの顔も、記録していた。
最後の行へ視線を落とす。
『役に使える』
カーソルを動かす。メモの全文を選択する。削除キーの上へ指を置いた。
押せば、画面からは消える。
この記録を作らなかったことにはならない。書いた脚本から、日向の息の止め方が消えるわけでもない。本人に聞かなかった三年間が、消えるわけでもない。
選択を解除する。文字が元の表示へ戻った。
静は、書く前に聞いた。日向は、使われ方を自分で選んだ。
俺だけが、何も聞かずに三年分を書いた。
三年前の俺は、日向の名前の下に「役に使える」と書いていた。
本人へ聞く欄だけが、どこにもなかった。




