第11話:「笑う」を消す
数日後の放課後、稽古が終わりかけた頃に、冬木静が部室へ来た。
扉の前で一度だけ中を見渡し、机のそばにいた日向へ向かう。手には、薄いクリアファイルを持っていた。
「橘さん」
呼ばれた日向が振り返る。
「冬木さん」
「書いたから、持ってきた」
静はクリアファイルから、数枚の紙を取り出した。表紙には題名だけが印刷されている。
『発車まで、あと三分』
作者名はなかった。
日向はすぐには受け取らず、静を見る。
「私が読む役?」
「ええ。ただし、読むだけでいい」
静は紙を差し出したまま言う。
「上演するかどうかは、そのあとで決めて」
「分かりました。読んでみます」
日向が両手で受け取る。
部長が舞台の上から二人を見ていた。
「せっかくだから、今ここで一回読んでみたら?」
静が部長へ顔を向ける。
「今ですか」
「五ページくらいでしょう。相手役なら私が読む。照明もいるし」
最後の一言で、部長が俺を見る。俺は照明卓の前にいた。
「簡単な明暗だけなら」
答えると、静がこちらを見た。
以前なら、その視線が何を探しているのか考えた。今日は、ただ照明が使えるかどうかを確認しているだけに見えた。
「お願いします」
静はそう言って、台本を一部こちらへ渡した。
五ページの短い二人芝居だった。場所は、夜の駅の待合室。一人は列車へ乗る。もう一人は残る。
残る少女は、最後まで相手を引き止めない。行ってほしくないとは言わない。寂しいとも言わない。
相手が、
「向こうでも、たぶん何とかなる」
と言ったあと、少女は最後に一言だけ返す。
「それなら、よかった」
その直後に、ト書きがあった。
〔笑う。暗転〕
俺は照明用の台本へ、鉛筆で印をつける。笑いの直後に暗転。合図としては、これ以上ないほど分かりやすい。
部長と日向が、舞台中央へ椅子を二脚並べた。静は客席の最前列へ座る。俺は照明卓へ戻り、舞台を薄く照らした。
「じゃあ、最初から」
部長の声で、読み合わせが始まった。
短い脚本だった。ほとんどの時間、二人は列車の時刻を気にしている。天気の話。向こうの町の話。残していく部屋の鍵の話。
何でもない会話だけが続く。何でもないまま、別れが近づいてくる。
最後のページへ入る。部長が台本から顔を上げた。
「向こうでも、たぶん何とかなる」
日向は部長を見る。
「それなら、よかった」
笑わなかった。一度だけ息を吐き、相手役の顔を見たまま動かない。
俺は暗転のスイッチへ指を置いていた。押せなかった。台本に書かれている合図が、まだ来ていない。
数秒が過ぎる。
「止めて」
静が言った。舞台の空気が切れる。
日向が台本へ視線を落とす。
「そこ、笑って」
静は自分の台本の最後を指した。
「ここ?」
「そう」
日向はト書きを見る。
「今の子は、笑えなかった」
「笑えないから笑うの」
静はすぐに返した。
「行く相手を安心させるために。自分が泣いたら、相手は残ろうとするかもしれない。だから笑って帰す」
理由は通っていた。
静は表情だけを指定しているのではない。この少女が最後に何を選ぶのかを、台本の中で決めている。
日向は少し考え、頷いた。
「分かりました。もう一度やります」
部長が椅子へ座り直す。俺も照明の位置を最初へ戻した。
「最後のところからでいい?」
「お願いします」
静の合図で、二度目が始まる。
部長が言う。
「向こうでも、たぶん何とかなる」
日向が返す。
「それなら、よかった」
今度は笑った。口元を柔らかく緩める。目に残っていたものを隠し、相手へ渡さないようにする笑い方だった。
俺はすぐに暗転した。舞台が暗くなる。
台本どおりだった。タイミングも遅れていない。誰も台詞を間違えていない。
それでも、静はすぐに次の言葉を出さなかった。
「明かり、戻して」
静に言われ、舞台を照らす。日向はまだ椅子に座っていた。
静が舞台を見上げる。
「今のは、橘さんだった」
日向は否定しなかった。
「うん」
「私が書いた子の笑い方じゃない」
「私も、そう思う」
静が台本を閉じかけ、また開く。
「笑ってと言われたら、私には今の笑い方しか出せなかった」
日向は自分の台本を見た。
「誰かを安心させるときに、私が使ってる笑い方だから」
静の指が、最後のページで止まる。
「あなたの声で書いた。でも、あなたを書いたわけじゃない」
「だから、私も私の笑い方を置きたくない」
日向の声は静かだった。拒むために強く言っているわけではない。静の書いた少女を、橘日向へ戻さないために言っている。
静は舞台を見たまま答えた。
「でも、この子は笑う。そこは変えたくない」
「笑わないって決めたわけじゃない」
「じゃあ、どうしたいの」
「まだ、この子の笑い方が分からない」
日向は俺を見なかった。静の台本を持ち、静だけを見て話している。
「冬木さんが決めた『笑う』をそのまま置くんじゃなくて、読んで見つけたい」
静の眉がわずかに動く。
「書いた私より、あなたの方が分かるって言うの?」
「分かるとは言ってない」
日向は首を振った。
「分からないから、探したいって言ってる」
「私には理由がある」
「うん。相手を安心させたいから笑う」
「なら、その理由で演じればいいでしょう」
「理由は借りられる。でも、『笑う』まで先に決められたら、この子を探す前に、私の笑い方を置いてしまう」
静は黙った。日向も続けなかった。客席と舞台の間に、何も言わない時間が落ちる。
静が欲しかったのは、自分の脚本を正しく再現する役者だったのか。それとも、自分の書いた少女を、自分の知らない場所まで連れていく役者だったのか。
静は台本へ目を落とした。
「ペン、貸して」
近くにいた部員が、黒いボールペンを渡す。
静は最後のページを開く。
〔笑う。暗転〕
そのうちの二文字へ、一本の線を引いた。
笑う。
消された文字のあとに、〔暗転〕だけが残る。
日向が舞台の上から尋ねる。
「笑わなくていいの?」
「笑わないと決めたわけじゃない」
静は顔を上げる。
「今は、私が先に決めない」
日向が、消された文字を見る。
「分かりました」
部長が二人を交互に見た。
「もう一回やる?」
「お願いします」
静が答える。日向も椅子へ座り直した。
俺は照明用の台本を見る。
笑いの直後に暗転。
自分で書いた指示が、たった今、使えなくなっていた。
部長がこちらを振り返る。
「暗転、どこにする?」
俺にも分からなかった。
笑いは来るかもしれない。来ないかもしれない。台詞の直後かもしれない。もっとあとかもしれない。
静が照明卓の方を見る。
「如月くん、橘さんを見て」
答えを求める言い方ではなかった。台本の代わりに、舞台を見ろと言っている。
「分かった」
俺は台本を照明卓へ置いた。舞台を見る。
三度目の読み合わせが始まった。
部長と日向が、同じ会話を繰り返す。天気。向こうの町。部屋の鍵。
同じ台詞なのに、終わりが近づいていることだけが、前よりはっきり見えた。
最後のページ。部長が言う。
「向こうでも、たぶん何とかなる」
日向は答える。
「それなら、よかった」
笑わなかった。すぐに俯きもしない。相手の顔を見たまま、立っている。
部長が椅子から離れる。数歩進み、舞台袖へ向かう。日向は追わなかった。
握っていた台本の端から、指が離れる。
その瞬間、俺は暗転した。
舞台が消える。暗闇の中で、日向が息を吐いた音だけが聞こえた。
誰もすぐには話さなかった。
俺は照明を戻す。日向は舞台中央に立っていた。
静は、最後のページを見ている。
「どう?」
日向が尋ねる。
静はすぐには答えなかった。〔暗転〕の横へペンを置く。何かを書こうとする。
秒数か。動作か。合図か。
けれど、ペン先は紙へ触れないまま止まった。
「もう一度、書き直して持ってくる」
静が台本を閉じる。
「今の役も、もう一度読みたい」
日向が言った。
静は一度だけ頷く。
「ええ」
それ以上、どちらも勝ったとは言わなかった。
静は自分の書いた少女を手放してはいない。日向も静の意図を壊していない。
ただ、最後に何が起きるかだけが、まだ誰にも決められていなかった。
静が帰ったあと、机の上には読み合わせに使った台本が残っていた。
俺は照明記録を開く。最初に書いた一文を見る。
笑いの直後に暗転。
その上へ線を引いた。下へ書く。
指が離れたあと。
書き終えてから、ペンを止める。
次も、日向が同じ動きをするとは限らない。今日の指を合図にすれば、次の稽古でも日向にそれを求めることになる。
今度は、その一文にも線を引いた。
少し考え、最後に書く。
橘の演技を見て暗転。
静の台本へ目を移す。最後のページには、黒い線が一本残っている。
静は、自分で書いた「笑う」を消した。
俺は三年間、その一本を引かないまま書き続けていた。




