第12話:右手を返す
翌日の放課後、本公演の稽古は第一幕へ戻った。
「終幕は一度置いて、今日は第二場から細かく見る」
部長が舞台中央で台本を開く。
「アキが初めて問い詰められるところ。照明も最初から合わせて」
「分かりました」
俺は照明卓の電源を入れた。
昨日まで使っていた短編の台本はない。机の上にあるのは、匿名作者「とおる」が書いた本公演用の脚本だけだった。
照明用の台本を開き、第二場を探す。ページの中ほどで、指が止まった。
相手役の台詞。
「本当は、帰りたくなかったんじゃないの」
その下に、アキの動作が書かれている。
〔返事に困り、右手を一度だけ握る〕
見覚えがあった。脚本の中で何度も読んだ一文だからではない。三年前の観察記録に、ほとんど同じ文章を書いた。
『返事に困ると、右手を一度だけ握る』
『役に使える』
日向が一年生だった頃。廊下で誰かに呼び止められたとき。顧問に急な変更を告げられたとき。答えを探している間だけ、右手の指を内側へ折る。本人も意識していない、小さな動きだった。
俺はそれを見つけた。記録した。アキへ移した。
「如月くん、準備いい?」
舞台から日向の声が届いた。顔を上げる。日向は第二場の立ち位置に立っていた。
「いい」
答えて、台本へ視線を戻す。
〔返事に困り、右手を一度だけ握る〕
鉛筆で書かれた照明の印が、そのすぐ横にある。
「じゃあ、そこから」
部長の声で稽古が始まった。
相手役が日向を見る。
「本当は、帰りたくなかったんじゃないの」
日向の右手が動いた。指を一度だけ内側へ折り、軽く握る。そのまま相手役を見た。
「帰りたくなかったよ」
声は震えなかった。握った手だけが、言葉より先に迷っていた。
俺は照明を一段落とす。
「止めて」
部長が言った。日向が手を開く。
「今の、すごく自然だった」
部長が台本と日向を見比べる。
「台詞の前に迷いが見える。わざとらしくないし」
近くにいた部員も頷いた。
「橘って、普段も似たことしてない?」
「え?」
日向が自分の右手を見る。
「返事に困ったとき。こういうふうに握ってる気がする」
部員が自分の手で真似をする。日向も同じように、もう一度指を折った。
「私、普段もこうしてるかも」
少し考え、台本を見る。
「作者、よく見てるね」
部員が笑った。日向も小さく笑った。
俺だけが笑えなかった。
昨日、静は自分で書いた「笑う」を消した。あれは、役について考えて書かれた動作だった。去っていく相手を安心させるために、この少女は笑う。静はそう考えて書き、そして自分で線を引いた。
今、日向の台本にある右手は違う。役から生まれた動きではない。日向から持ち出した動きだった。
「もう一回やろう」
部長が言う。
「今度は台詞の前を少し長めに取ってみて」
日向が立ち位置へ戻る。
俺は照明卓の前で口を開きかけた。
「待って」
声にはならなかった。
如月透が、あのト書きの出所を知っている理由はない。作者と近いから。脚本をよく読んでいるから。そんな説明では足りない。
あれが日向本人の癖だと知っているのは、三年前から見ていた人間だけだ。
「いくよ」
二度目の稽古が始まった。
相手役が問いかける。
「本当は、帰りたくなかったんじゃないの」
日向は右手を握った。一度目より、少し遅かった。今度は、台本に書かれた動作を一つずつなぞるように、指が内側へ折れていく。
形は同じだった。それなのに、自然には見えなかった。無意識に出ていた動作が、台本に書かれた形として再現されている。
俺が書いたことで、日向は自分の癖を演じなければならなくなった。
「帰りたくなかったよ」
日向が台詞を言う。俺は予定どおり照明を落とした。
稽古は止まらなかった。部長も、相手役も、誰も間違いを指摘しない。
間違っているのは演技ではなかった。この一文が、ここにあることだった。
帰宅後、鞄も開かないまま端末を起動した。
匿名作者「とおる」のフォルダを開く。
『アキ 上演稿』
完成稿を表示する。第一幕第二場。検索するまでもなく、該当する一文は見つかった。
〔返事に困り、右手を一度だけ握る〕
文字列を選択する。削除キーを押す。空白が残った。保存する。
修正版を送るだけなら、それで終わる。演出上不要になったため削除しました。そう書けば、誰にも理由を知られずに済む。日向の右手が、自分の脚本から静かに消える。俺がそこへ置いたことまで、消えたように見せられる。
連絡画面を開く。修正箇所を入力する。
『第一幕第二場のト書き、
「返事に困り、右手を一度だけ握る」
を削除してください』
そこまで書き、手を止めた。
昨日、静は日向の前で「笑う」を消した。自分の判断が変わったことを、隠さなかった。理由を言い、抵抗し、実際の演技を見て、それから自分の手で線を引いた。
俺は、削除だけを送ろうとしている。何をしたのかを隠したまま。
画面の最後へカーソルを移す。一度書いた文を消す。もう一度、最初から入力した。
『以下の説明は、まず橘日向さん本人に確認してもらってください。
部内で共有する範囲は、橘さん本人の判断に委ねます』
『第一幕第二場のト書き、
「返事に困り、右手を一度だけ握る」
を削除してください』
『この動作は、橘日向さんを本人の許可なく観察した記録から書きました』
指が止まる。
匿名作者「とおる」が、日向を見ていた。それを日向の届く場所へ書く。
正体は明かしていない。どこで見たのかも、いつから見ていたのかも書いていない。それでも、三年間一度も外へ出さなかった事実だった。
続きを入力する。
『役から生まれた指示ではありません。
作者側の都合で、本人の動作を脚本へ持ち込んだものです』
『本人の許可なく観察し、使用したことを謝罪します。
この謝罪は、脚本の使用継続や許しを求めるためのものではありません』
『同様の箇所がないか、脚本全体を確認し、該当箇所はすべて申告します。
確認が終わるまでは、今回示したト書きを使用しないでください』
そこまで書いて、完成稿を見る。
この脚本は、もう稽古に使われている。日向が演じている。演劇部が公演のために時間を使っている。
俺が悪かったからといって、自分の判断だけで撤回すれば、その時間までこちらのものとして扱うことになる。
辞退届を破ったときは、脚本を止めないことを、自分で選んだ。
今度は、止めるかどうかを、自分だけでは選ばない。
最後に一文を加える。
『この脚本を今後も使用するかどうかは、演劇部と橘日向さんの判断に委ねます』
読み返す。
謝罪だけで、文面を閉じることはできなかった。必要なのは、何をしたかを明かし、決定権を返すことだった。
送信ボタンの上へ指を置く。押す。
送信済みの表示へ変わった。
翌日の放課後、稽古が始まる前に、部長は日向だけを顧問室へ呼んだ。
俺は照明卓の前で待っていた。ほかの部員たちは事情を知らないまま、小道具や衣装の準備をしている。
しばらくして、日向が部長と一緒に戻ってきた。右手には自分の台本を持っている。
日向は舞台の前まで来ると、部長へ言った。
「みんなにも読んでください」
部長が一度、日向を見る。
「全部?」
「はい」
日向が答える。
「同じ脚本で稽古してるから、知ってもらった方がいいと思います」
部長は頷いた。
「分かった。みんな、一度集まって」
部員たちが舞台の前へ集められる。日向も台本を持って立っていた。俺は照明卓の前にいる。
「作者から、脚本の修正と説明が来た」
部長は端末を見ながら言った。
「第一幕第二場のト書きを削除してほしいって」
日向が該当するページを開く。
「右手のところ?」
「うん」
部長が一度、全員を見る。
「理由も書いてある」
部室が静かになった。
部長が読み上げる。
「この動作は、橘日向さんを本人の許可なく観察した記録から書きました」
自分が書いた文章を、他人の声で聞く。昨夜、画面の上では一行の文字でしかなかったものが、部室の空気を通ると、はるかに重かった。
「役から生まれた指示ではありません。作者側の都合で、本人の動作を脚本へ持ち込んだものです」
部長は謝罪の一文も読み上げた。日向は何も言わなかった。
「同じような箇所がないか脚本全体を確認して、該当箇所は申告する。確認が終わるまでは、今回示したト書きを使用しないでほしい」
誰も口を挟まなかった。
「この脚本を今後も使用するかどうかは、演劇部と橘日向さんの判断に委ねます」
読み終える。
部員の一人が、日向の台本を見た。
「それって、昨日の動き?」
部長が答える。
「作者はそう言ってる」
日向は自分の右手を見る。ゆっくりと指を握った。昨日と同じ形だった。
すぐに開く。
「橘」
部長が呼ぶ。
「どうしたい?」
日向は答えなかった。台本の該当箇所を読む。
しばらくして、机からペンを取った。
〔返事に困り、右手を一度だけ握る〕
その一文へ、まっすぐ線を引く。
「この動きは使いません」
部長が頷く。
「脚本は?」
「今は、まだ決めません」
日向は台本を閉じなかった。
「私が知らないうちに、ほかにも私が入ってるかもしれないから」
ページを数枚めくる。
「一度、全部読み直したいです」
「分かった」
部長はそれ以上、答えを急がせなかった。
日向も作者を許すとは言わなかった。脚本を捨てるとも言わなかった。自分が知らないまま使われたものを、自分の目で確認してから決める。その順番を選んだ。
「今日は、ここで止める?」
部長が尋ねた。
日向は線を引いた箇所を見る。
「公演で使うかは、まだ決めません」
顔を上げる。
「でも、この場面だけ、ト書きを消した状態でもう一度読みたいです」
部長は少し考え、頷いた。
「分かった。検証だけにしよう」
日向が俺を見る。心臓が一度だけ強く鳴った。
「如月くん」
「何」
「ト書きがなくても、同じところから照明を入れられる?」
作者の意図は聞かなかった。俺がどう思うかも聞かなかった。照明担当として、できるかどうかだけを聞いている。
「できる」
「右手を合図にしなくても?」
「見て決める」
日向は短く頷いた。
「じゃあ、お願いします」
第二場の該当箇所だけを、もう一度読む。
日向は台本の、線を引いた箇所を一度だけ見た。立ち位置へ向かう。俺も照明卓へ戻った。
「そこからいこう」
部長が相手役へ合図する。
相手役が日向を見る。
「本当は、帰りたくなかったんじゃないの」
日向の右手が動きかけた。指が少しだけ内側へ曲がる。
けれど、握らなかった。
止めたのか。今日は出なかっただけなのか。俺には分からない。少なくとも、台本に書かれた合図として再現された動きではなかった。
日向は開いた右手を、台本の横へ置く。相手役を見る。間が生まれる。
「帰りたくなかったよ」
日向が言った。
昨日とは違う。右手は何も説明していない。それでも、アキが答えるまでに迷ったことは見えた。
俺は手ではなく、日向の顔を見る。台詞が終わる。相手役が息を止める。
二人の間に残った時間を見て、照明を一段落とした。
場面は続いた。
作者が持ち込んだ癖がなくても、アキはそこに立っていた。
検証が終わったあと、部長が作者への返信文を作った。
『該当するト書きは削除しました』
『脚本全体を確認したうえで、使用を継続するか判断します』
「橘、これでいい?」
日向は文面を読む。
「はい。それでお願いします」
謝罪を受け入れたとは書かなかった。公演を続けるとも書かなかった。
部長が送信する。
少し遅れて、俺の端末が鞄の中で震えた。取り出さない。その場では読まなかった。
帰宅してから、返信を開く。
『該当するト書きは削除しました』
『脚本全体を確認したうえで、使用を継続するか判断します』
自分の脚本が、自分の意思だけでは残らない状態になった。
弁明を書こうと思えば書けた。なぜ見ていたのか。悪意はなかったこと。日向の演技を壊すつもりはなかったこと。
どれも、今送る言葉ではなかった。
返信画面を閉じる。
三年前の観察記録を開いた。
『返事に困ると、右手を一度だけ握る』
その下。
『役に使える』
「役に使える」の上へ線を引く。
観察そのものは消さなかった。消せば、見なかったことにできるわけではない。
新しい行を作る。
『本人の許可なく使用した。脚本から削除』
保存する。記録を閉じた。
今日の稽古を思い出す。
日向の右手は、台本の横で開いたままだった。
そこに何をさせるかを、今度は俺が書かなかった。




