第13話:私ではない一行
翌日の放課後、照明卓の電源は入らなかった。
「今日は通しをやめます」
舞台の前に部員を集め、部長が言った。
「作者の確認が終わるまでは、全体を通さない。できるところだけ、別に進めます」
衣装を抱えていた部員が、壁の予定表を見る。
「確認って、いつ終わるんですか」
「まだ分からない」
部長は答えた。
「でも、分からないまま続ける方が駄目だから」
誰も反対しなかった。
衣装係は採寸表を開き、小道具係は舞台袖へ移動する。相手役の二人は台詞の確認を始めた。
稽古が止まったわけではない。けれど、本公演の脚本を最初から最後まで通すことはできない。
俺は照明卓の前に座っていた。操作する場面はない。
昨日送った文章は、日向だけではなく、演劇部全体の時間を止めていた。
「橘、先にこれを確認して」
部長が日向を呼んだ。端末の画面を見せる。
匿名作者「とおる」から、二つ目の連絡が届いていた。
日向が読む。右手に持っていた台本を開き、第一幕第四場を探した。
「これも、みんなに伝えていい?」
部長が尋ねた。
日向は画面をもう一度見た。
「はい。削除する場所と理由は、共有してください」
「分かった」
部長が部員たちへ告げる。
「もう一か所、ト書きを削除します」
日向のページをのぞき込んだ部員が尋ねた。
「今度はどこ?」
「ここ」
日向が台本を見せる。
〔一人になると、窓の外へ顔を向ける〕
昨日まで、何度も読んでいた一文だった。
アキが一人で舞台に残る場面。ほかの人物が去ったあと、アキは窓の外を見る。その向こうに何があるかは書かれていない。
俺は、日向が廊下の窓へ顔を向ける姿から書いた。誰かと話し終えたあと。稽古場から一人で出てきたあと。日向はすぐには歩き出さず、窓の外を見ることがあった。
三年前の記録にも残っている。
『一人になると、廊下の窓へ顔を向ける』
右手の次は、窓だった。
日向がペンを取る。ト書きへ線を引いた。
「作者は、ほかにもあるって?」
部員の一人が聞いた。
「確認中だって」
部長が答える。
「見つかったところは、全部連絡するって」
「じゃあ、まだ増えるかもしれないんだ」
誰も責めるような言い方はしなかった。それでも、その言葉は部室に残った。
まだ増えるかもしれない。
日向は台本を閉じなかった。右手のト書きへ引いた線。窓のト書きへ引いた線。二本を見比べる。
それから、台本の間に挟んでいた細い紙を取り出した。一枚ではなかった。何枚かある。
「橘、それは?」
部長が尋ねる。
「昨日、最初から読み直しました」
日向は紙を重ねたまま答えた。
「私に似てると思ったところです」
近くにいた部員が少し身を乗り出す。
「そんなにあった?」
「似てるだけかもしれない」
日向は紙を揃えた。
「私を見て書いたのか、役を考えて書いたら似ただけなのか、まだ分からないから」
右手は、本人の癖だった。窓も、本人の動作だった。
だからといって、日向に似ているものがすべて、日向から持ち出されたとは限らない。
日向は紙の中から一枚だけ抜いた。
「部長」
「何?」
「作者に、これを聞いてもらえますか」
紙を渡す。部長が目を落とした。
第一幕後半の台詞が書き写されている。
『誰にも見られなかったからって、なかったことにはならない』
その下に、日向の字で質問があった。
『この台詞も、私を見て書きましたか』
部長が顔を上げる。
「これだけでいいの?」
「今は、これを知りたいです」
日向は残りの紙を台本へ戻した。
「私に似ているところを、全部消してほしいわけじゃありません」
線を引いた二か所を見る。
「私から取ったのか、作者が自分で書いたのか、分からないまま演じたくないんです」
「分かった」
部長は紙を端末の横へ置いた。
「そのまま送るね」
「お願いします」
部長が質問を入力する。送信する。
少し遅れて、鞄の中で端末が震えた。俺は取り出さなかった。
日向の手元には、まだ何枚も紙が残っていた。そのすべてに、俺は答えなければならない。
けれど、日向は一度に全部を差し出さなかった。まず一行だけを選んだ。
帰宅後、端末を開く。演劇部からの新しい連絡が届いている。
『橘日向さんから、以下の質問がありました』
『誰にも見られなかったからって、なかったことにはならない』
『この台詞も、私を見て書きましたか』
何度も読んだ。
自分で書いた台詞だった。けれど、どこから書いたのかを考えたことはなかった。
三年前の観察記録を開く。検索欄へ入力する。
『見られなかった』
該当なし。
『なかったこと』
該当なし。
『誰にも』
いくつかの記録が表示された。日向が誰もいない舞台で発声していた。誰にも見られていないと思って、廊下で台詞を繰り返していた。
けれど、あの一行につながる記録はなかった。
右手でもない。窓でもない。日向の声でも、表情でもなかった。
『誰にも見られなかったからって、なかったことにはならない』
アキを書き始めたとき、最初に置いた台詞だった。物語の順番も決まっていなかった。アキがどこに立ち、誰に向けて言うのかも決めていなかった。台詞だけが先にあった。
名前を出さずに書き続けた時間。誰かに読まれても、自分だけは舞台の外にいた三年間。
日向を見て書いた一行ではない。俺の中にあったものだった。
返信画面を開く。
『違います』
入力する。読み返す。
それだけでは、日向の質問へ十分に答えていなかった。消す。
『この台詞は、橘日向さんを観察して書いたものではありません』
まだ足りない。
日向は、自分から取ったかどうかだけを知りたいのではない。作者がどこから書いたものなのかを分けようとしている。
右手は日向から持ち出した。窓も日向から持ち出した。この一行まで曖昧にすれば、自分で書いたものまで、日向の中へ隠すことになる。
続きを入力した。
『この台詞は、橘日向さんを観察して書いたものではありません』
『私自身のことを書きました』
その一文を見たまま、指が止まった。
匿名作者「とおる」が、自分自身について書いた。
何についてなのかは明かしていない。誰なのかも明かしていない。
それでも、これまでの俺は、自分のことを書いたと認めたことがなかった。
日向の声を使った。日向の表情を写し取った。日向の動作を役へ移した。その後ろに、自分を隠した。
もう一文だけ加える。
『この台詞に、橘さんの動作や言葉は使用していません』
読み返す。
説明を足そうと思えば、いくらでも足せた。いつ書いたのか。なぜ書いたのか。何を見られなかったのか。
けれど、日向が聞いたのはそこではない。
送信する。
翌日の放課後。部長は、ほかの部員を集めなかった。
「橘、作者から返事が来た」
舞台袖で日向だけに端末を渡す。俺は離れた照明卓の前にいた。
日向が画面を読む。どこで指が止まったのかは、遠くて分からなかった。ただ、一度だけ、同じ箇所を読み直した。
部長が待つ。日向は最後まで読んでから、端末を返した。
「これは、みんなに読まなくていいです」
「分かった」
部長は画面を閉じる。
「台詞はどうする?」
日向が台本を開く。
右手のト書きには線が引かれている。窓を見るト書きにも線がある。その先のページをめくる。
「誰にも見られなかったからって、なかったことにはならない」
声には出さなかった。指で一行をたどる。
「これは残してください」
「作者が、自分のことを書いたから?」
日向はすぐには答えなかった。
右手の線を見る。窓の線を見る。それから、線のない一行へ戻る。
「私ではないからです」
部長が日向を見る。
「私ではないところまで消したら、アキまで私にしてしまうから」
日向はペンを持っていた。けれど、その一行には触れなかった。
「分かった。これは残す」
部長が答える。
「ほかは、作者の確認を待とう」
「はい」
「今日はどうする?」
「別のところを読みます」
「本公演じゃないところ?」
「はい」
日向は台本を閉じた。
本公演の稽古は再開しなかった。小道具係が舞台上の椅子を移動させる。相手役たちは別の短い場面を確認する。日向も、台本を持って舞台袖へ下がった。
帰宅後、上演稿を開く。
第一幕第二場。右手のト書きが消えている。
第一幕第四場。
〔一人になると、窓の外へ顔を向ける〕
文字列を選択し、削除する。保存する。
そのまま第一幕後半まで進む。
「誰にも見られなかったからって、なかったことにはならない」
残っている。日向が残すと決めた一行だった。
俺を許したわけではない。この脚本を使うと決めたわけでもない。日向は、その一行が自分ではないと判断しただけだった。
右手と窓には、線が引かれた。
俺の中から書いたその一行は、アキの中に残った。




