第14話:同じところから
翌日の放課後、部長は稽古を始める前に、全員を舞台の前へ集めた。
「本公演の脚本は、今週中に決めます」
壁の予定表には、公演までの日数が書かれている。衣装の仕上げ、小道具の配置、立ち位置の確認。照明を通す日も、もう動かせるほど多くは残っていなかった。
「作者の確認を、いつまでも待つことはできません」
部長は日向だけを見なかった。衣装係、小道具係、相手役、それから照明卓の前にいる俺へ、順番に視線を向ける。
「続けるなら、この脚本で稽古を再開する。続けないなら、別の脚本へ切り替えます」
部員の一人が尋ねた。
「今から別のに変えて、間に合いますか」
「楽ではないと思う」
部長は答えた。
「でも、この脚本でなければ公演ができないわけじゃないから」
誰も口を挟まなかった。
匿名作者「とおる」の脚本が選ばれなくても、演劇部は止まらない。別の脚本を選び、別の役を立たせ、別の照明を作る。
止まるのは、この脚本だけだった。
「最後は部として決めます」
部長が続ける。
「ただ、橘が納得しないまま、この脚本を使うことはしません」
日向は台本を持ったまま、短く頷いた。
「はい」
その日の本公演稽古も再開しなかった。
部員たちは、候補にできそうな短編を分けて読み始めた。衣装係は、いま準備している衣装が別の脚本でも使えるかを確認している。
俺は照明用の記録を開いた。書き込むことはなかった。
今週が終われば、ここに書いた印を使う機会もなくなるかもしれない。
部活が終わり、ほかの部員が順に部室を出ていった。
俺は照明記録を閉じ、机の端を揃える。
「如月くん」
背後から日向に呼ばれた。振り返る。日向は本公演の台本を胸の前に持っていた。
「少しだけいい?」
「何」
日向は周囲を見た。部長は小道具係と話している。まだ数人の部員が残っていた。
「こっちで」
日向が客席の後ろへ歩く。俺も少し遅れてついていった。
舞台から離れると、部員たちの声は聞こえても、言葉までは分からなくなった。
日向が台本を開く。
右手のト書きには線が引かれている。窓を見るト書きにも線がある。その先のページに、線の引かれていない一行があった。
「作者から返事が来たこと、覚えてる?」
「うん」
「この台詞は、自分のことを書いたって言ってた」
日向が指を置く。
「誰にも見られなかったからって、なかったことにはならない」
昨夜、自分で送った文面を、日向の声で聞く。
日向は台本から顔を上げた。
「前に、如月くんも似たことを言ったよね」
何も答えられなかった。
「アキが、どうして終幕で立っているのか聞いたとき」
日向はゆっくりと言う。
「見られなかったことを、なかったことにしないために立ってるって」
言った。あの稽古で、俺が答えた。
日向は、その答えとは違う答えを自分で作った。それでも、俺の言葉を消さずに残した。
「同じではないよ」
やっと、それだけ言った。
「うん。同じ言葉じゃない」
日向は否定しなかった。
「でも、同じところから出てきた言葉みたいに聞こえた」
台本の一行と、俺の言葉。日向は二つを重ねている。それでも、俺を見て答えを決めようとはしなかった。
「如月くんが作者だって言ってるわけじゃないよ」
先にそう言った。
「似ているだけで決めたくないから」
似ているというだけでは、日向は今度も判断しない。終幕の立ち方を考えたときも、静の短編を読んだときも、同じだった。
日向は台本を閉じた。
「作者に会ってから、この脚本を使うか決めます」
「文面だけじゃ駄目なの」
口に出してから、自分が誰を守ろうとしたのか分かった。
作者ではない。日向でもない。会わずに済ませたい自分だった。
「名前を知りたいわけじゃないよ」
日向は答えた。
「部員みんなの前に出てほしいわけでもない」
閉じた台本を両手で持つ。
「でも、私を見て書いた人が、私の前で何を言うのかを聞きたい」
「文面にも、書いてあった」
「うん」
「無断で見たことも、使ったことも、謝ってた」
「読んだよ」
日向の声は変わらなかった。
「だから、今度は会って聞きたい」
日向は俺を責めるようには見なかった。作者を許すとも言わなかった。ただ、自分がこの脚本を演じるために必要な条件を、一つだけ決めていた。
「会えないなら、この脚本では演じません」
静かな声だった。脅しているのではない。作者を引きずり出すためでもない。
会ったこともない人間に、自分の身体をもう一度預けることはできない。日向はそう決めた。
俺は、その判断を動かす言葉を探さなかった。
「分かった」
日向が俺を見る。何を分かったのかは尋ねなかった。
「部長に伝えてくる」
日向は舞台の前へ戻った。俺は客席の後ろに残った。
日向が部長へ声をかける。二人で端末の画面を見ながら、文面を作り始めた。
しばらくして、部長が日向へ確認する。
「これで送る?」
「はい」
日向の声が聞こえた。
少し遅れて、鞄の中で端末が震えた。取り出さなかった。
帰宅してから、演劇部からの連絡を開いた。
『脚本を今後も使用するか決める前に、作者本人と話したいです』
『正体を部員全員へ公開してほしいわけではありません。部長と私だけで構いません』
『対面できない場合は、この脚本で公演することには同意できません』
日向が決めた条件だった。
返信画面を開く。
『対面での説明はできません』
入力する。
理由はいくらでも書けた。作者の匿名性を守りたい。学校生活へ影響を出したくない。文面の方が正確に説明できる。
どれも嘘ではなかった。そして、どれも、会いたくない理由の外側に並べた言葉だった。
全文を消す。
『必要な説明は、文面で行います』
入力する。それも消した。
文面なら、書く順番を選べる。書かないことも選べる。送信したあと、日向がどんな顔で読むのかを見なくて済む。匿名作者「とおる」と如月透を、別々の場所に置いたまま話せる。
日向が求めているのは、説明の量ではなかった。自分を見て書いた人間が、自分の前に立つことだった。
右手を使った。窓を見る姿を使った。ほかにも、日向から持ち出したものがある。その事実を文面へ書いた俺が、日向の前では何も知らないふりを続ける。
それでは、決定権を返したことにはならない。
返信欄へ、短く入力した。
『会います』
『日時と場所を指定してください』
読み返す。条件は加えなかった。
送信する。
その夜、部長から日時と場所が届いた。
対面は、翌日の放課後。場所は、いつもの部室だった。
翌日の放課後。
部員たちは、別脚本の候補を読むため、早めに別室へ移った。部室に残っているのは、部長と日向、それから俺だけだった。
日向は舞台の前に座り、本公演の台本を膝へ置いている。
右手のト書きには線がある。窓を見るト書きにも線がある。自分ではない一行には、線が引かれていない。
俺は照明卓の前で、記録用紙を整理していた。
約束の時間まで、あと五分。紙の端を揃える。照明の印を確認する。もう使わないかもしれない記録だった。
部長が時計を見る。
「如月」
「はい」
「今日はここまででいいよ」
部長が言った。
「これから作者と話すから、悪いけど先に帰って」
記録用紙を閉じる。
「分かりました」
鞄を持つ。照明卓を離れ、出口へ向かう。日向はまだ台本を見ていた。
扉の前まで歩く。取っ手へ手を伸ばす。
ここを出れば、日向と部長は、来ない作者を待つことになる。
あとで文面を送ることもできる。体調が悪くなった。場所へ行けなくなった。もう一度だけ待ってほしい。書けば、まだ匿名のままでいられる。
取っ手に触れる前に、手を下ろした。
「待たなくていいです」
部長が時計から顔を上げる。
「え?」
「作者は、もう来ています」
部長が俺を見る。日向も台本から顔を上げた。何も言わない。
俺は扉の前に立ったまま、二人の方へ身体を向けた。
匿名の名前を、画面へ入力することはできた。脚本の表紙へ置くこともできた。
日向の前で、自分の声にしたことだけがなかった。
「『アキ』を書いた、とおるです」
日向の手の中で、台本の紙が一度だけ鳴った。




