第15話:同じ欄に
「『アキ』を書いた、とおるです」
日向の手の中で、台本の紙が一度だけ鳴った。
部長が俺を見る。
「本当に?」
「はい」
それ以上は続けなかった。何から説明するかを、俺が決めてはいけない気がした。
日向は台本を膝に置いたまま、俺を見ている。
如月透として、何度も話した。照明について聞かれた。アキがどう立つのかを一緒に考えた。
匿名作者「とおる」としても、何度も返事を送った。
その二人が、今は同じ場所に立っている。
「いつから?」
日向が尋ねた。
「一年の春から」
自分の声が、思っていたより近くで聞こえた。
「私が一年生だったとき?」
「はい」
「三年間?」
「はい」
日向は視線を落とした。
右手のト書きへ引かれた線。窓を見るト書きへ引かれた線。その二本を、指で順番にたどる。
「右手と、窓だけ?」
「違う」
答えると、日向の指が止まった。
「もう一か所あります」
「どこ?」
「第二幕の、アキが笑う前に息を止めるところ」
日向がページをめくる。俺は場所を覚えていた。
相手役が冗談を言い、アキが笑う場面。台詞の前に、短いト書きを置いた。
〔一度だけ息を止め、それから笑う〕
「これ?」
「はい」
日向が読む。
「これも、私?」
「橘さんが笑う前に、一度だけ息を止めるのを見て書きました」
言葉にすると、記録の一行よりも長かった。
「修正版では削除しました」
「いつ見つけたの?」
「全体を確認しているときです」
「昨日?」
「はい」
日向はそのト書きにも線を引いた。三本目だった。
部長が俺へ尋ねる。
「確認は、これで全部終わった?」
「本人の動作を、そのままト書きへ移したのは、この三か所です」
「ほかにはない?」
「同じ形で移したものはありません」
一度、言葉を切る。
「でも、橘さんの声や表情から書いた部分は、ほかにもあります」
日向が顔を上げた。
「どこ?」
「どの台詞や、役の作り方のどこまでがそうなのか、完全には切り分けられません」
「分からないの?」
「はい」
右手なら、同じ言葉が記録とト書きに残っている。窓も、笑う前の息も、記録から脚本へ移した場所を示せる。
けれど、何度も聞いた声から台詞の調子を作ったことや、見続けた表情からアキの反応を書いたことは、一行ずつ分けられなかった。
「直接移した三か所については、検索した語句と、対応する観察記録をまとめました」
部長が頷く。
「あとで見せて」
「はい」
日向は台本を閉じなかった。
「脚本へ直接移していない記録もある?」
「あります」
「どれくらい?」
答える前に、一度息を吸った。
「三年間分です」
日向が顔を上げる。
「右手とか、窓とかだけじゃなくて?」
「声と、表情と、動作。稽古の前後にしていたこともあります」
「全部、書いてあるの?」
「全部ではありません。俺が気づいたものだけです」
それでも、十分に多かった。
端末を鞄から取り出す。机の上へ置く。
「ここにあります」
日向は端末を見た。手は伸ばさなかった。
部長が尋ねる。
「橘に見せられる?」
「はい」
端末のロックを解除する。観察記録のフォルダを表示する。
日向の名前。その下に、年月ごとに分かれたファイルが並んでいる。
「消してないんだ」
「はい」
「どうして?」
「消しても、見なかったことにはできないと思ったからです」
日向は画面を見たまま、何も言わなかった。
「消すかどうかも、橘さんが読んでから決めてください」
言うと、日向が俺を見た。
「今、ここで?」
「必要なら」
「今日は全部読みたくない」
「分かりました」
「コピーをください」
日向は端末へ触れずに言った。
「私が持って、あとで読みます」
「はい」
「ここで全部見て、すぐ決めたくないから」
「分かりました」
俺は記録を複製する準備をした。部長が学校の共有領域へ置く方法を確認する。日向だけが閲覧できる場所へ保存し、部長も受領だけを確認することになった。
操作を終えても、日向は台本を閉じなかった。まだ質問がある。
俺は椅子へ戻らず、机の前に立ったまま待った。
「どうして、聞かなかったの?」
日向が尋ねた。
用意していた答えはなかった。
聞けなかった。怖かった。話したことがなかった。どれも事実ではあった。けれど、最初の理由ではなかった。
「断られると思ったから、聞きませんでした」
部長が俺を見る。日向の表情は変わらなかった。
「断られたら、どうなると思ったの?」
「使えなくなると思いました」
「私のことを?」
「はい」
喉が乾いた。
「書けないときに、橘さんの演技を見るようになりました」
「いつから?」
「最初の脚本を書いていた頃からです」
「見たら、書けた?」
「書けました」
日向が持っている台本を見る。
「橘さんの声を思い出すと、台詞が出てきた。表情や動きを見ると、役の反応や動作を書けた」
「それで記録したの?」
「はい」
「書けるたびに?」
「はい」
日向はしばらく黙った。
「聞いて、私が嫌だって言ったら?」
「使えなくなる」
「だから聞かなかった」
「はい」
日向の指が、台本の端を押さえた。
「断られるかもしれないから、私に決めさせなかったんだね」
「はい」
謝罪を続ける言葉が浮かんだ。けれど、それを今置けば、日向がたどり着いた事実へ蓋をする気がした。
俺は否定しなかった。理由を足さなかった。
日向が台本を一枚めくる。
「私が如月くんに聞いた答えも、作者として用意してたの?」
「違う」
今度は、すぐに答えた。
「終幕で、アキがどうして立っているのか聞いたとき」
日向が俺を見る。
「あの答えも、脚本を書くときから決めてた?」
「決めていません」
「でも、作者だった」
「はい」
「作者の正解を、如月くんの答えみたいに言ったんじゃないの?」
「違います」
日向は待った。否定だけでは足りない。
「あのとき答えたのは、如月透として考えた俺の答えです」
自分の名前を口にする。
「脚本を書いたとき、アキが何のために立っているのか、最後までは決められていませんでした」
「作者なのに?」
「はい」
「私に聞かれたときに考えた?」
「考えました」
あの場で。日向が台本を持ち、俺を見ていた。匿名の文面ではなく、返事を待っていた。
「見られなかったことを、なかったことにしないために立っている」
口に出す。
「あれは、俺の答えでした」
「とおるの答えじゃなくて?」
「分けられません」
言ってから、息を止めた。これまでなら、分けようとした。
「書いたのは、とおるです。でも、あの場で考えて答えたのは、如月透でした」
「二人とも、如月くんなんだね」
「はい」
初めて、短く答えられた。
日向は自分の台詞を探す。
「私は、次に誰かを見るために立っていると思う」
紙の上を指でたどる。
「これは?」
「俺は考えていませんでした」
「脚本にもなかった?」
「ありません」
「私が言って、初めて知った?」
「はい」
日向の答えを聞いたとき、アキが別の方向を向いた。俺が書かなかった未来へ立った。
「橘さんの答えを聞いて、初めて、別の立ち方があると知りました」
「じゃあ、あの終幕は?」
「脚本だけで作ったものじゃありません」
「私一人でも?」
「違います」
「如月くん一人でも?」
「違います」
日向は、一度だけ頷いた。
正体を隠していたことが明らかになっても、あの稽古で二人が作ったものまで、なかったことにはならない。
日向は、線の引かれていない一行を開いた。
「誰にも見られなかったからって、なかったことにはならない」
しばらく読んでから、俺を見る。
「これは、本当に如月くんのこと?」
「はい」
「何を見られなかったの?」
すぐには答えられなかった。
悲しい過去があるわけではない。誰かに書くなと言われたわけでもない。
「脚本は読まれていました」
「うん」
「とおるの名前も、知られていました」
「うん」
「でも、如月透として見られたことはありませんでした」
「どうして?」
「名前を出さなかったからです」
日向が待つ。
「自分で隠していました」
誰にも見つけられなかったのではない。見つからない場所へ、自分で立っていた。
「それなのに、誰にも見られなかったみたいに書きました」
日向は慰めなかった。今は見えているとも言わなかった。
線のない一行へ、もう一度目を落とす。ペンは持たなかった。
部長が、日向へ尋ねる。
「橘。脚本はどうする?」
日向はすぐに答えなかった。三本の線を見る。
右手。窓。笑う前の息。
「声や表情から書いたところは、この三つみたいには分けられないんだよね」
「はい」
「全部を消すこともできない?」
「どこまでが橘さんを見て出たものなのか、正確には分けられません」
日向は線の引かれていない台詞を読む。それから、台本全体を両手で持ち直した。
「この脚本で演じたいです」
胸の奥で、息が止まりかけた。
日向は俺を見なかった。
「消した三つがなくても、アキは残ってるから」
台本を閉じる。
「声や表情から書いたところが混ざっていても、私から取ったものだけでできた役じゃないって、分かったから」
「橘」
部長が確認する。
「続けたいってことでいい?」
「はい」
日向が答える。
「でも、使ったことを、なかったことにはしません」
「分かってます」
声が少し遅れた。
「許したわけでもありません」
「はい」
「今すぐ、許すかどうかを決めるつもりもありません」
「はい」
日向は俺へ向き直った。
「続けるための条件があります」
「聞きます」
「三つです」
一本ずつ、指を立てる。
「観察記録は、全部私にも渡してください」
「はい」
「読んだあと、消すか残すか決めます」
「分かりました」
二本目。
「これから私について書くときは、書く前に聞いてください」
「はい」
「書いてから、消すかどうかを私に決めさせるんじゃなくて」
「はい」
三本目。
「次の修正版は、如月くんの名前でも送ってください」
答えが遅れた。
「とおるの名前を消すの?」
「消さなくていい」
日向は言った。
「公開する名前を変えてほしいわけでもないよ」
「じゃあ、どう書くの?」
「同じところに書いて」
台本の表紙を開く。作者名の欄を指す。
作 とおる
「もう、別々の人みたいに返事を受け取りたくない」
その一行を見た。
とおるの名前。如月透の名前。これまで、同じ文面へ置くことさえ怖かった二つだった。
「分かりました」
部長が口を開く。
「部としては、すぐ再開とは言えない」
日向も俺も、部長を見る。
「作者の確認結果と修正版を、こちらでも確認します。橘が観察記録を受け取れること。今後の連絡先と責任者が分かること。それが確認できてから、正式にこの脚本を使うか決めます」
「はい」
「ただ、橘が続けたいなら、別脚本への切り替えは一度止めます」
日向が頷く。
「お願いします」
部長は俺を見る。
「如月。修正版はいつ出せる?」
「今夜中に送ります」
「無理に急いで見落とさないで」
「本人の動作を直接移した三か所の照合は終わっています。削除した箇所と、対応する記録も一覧にします」
「声や表情の方は?」
「個別の台詞へ完全には切り分けられないことも、一覧に記載します」
「分かった」
対面は終わった。
日向は、すぐには立たなかった。俺も、出口へ向かわなかった。
名乗る前と同じ三人が、同じ部室にいる。ただ、もう誰も、作者が来るのを待ってはいなかった。
帰宅後、端末を開く。
『アキ 上演稿』
修正版の表紙を表示する。
右手のト書きはない。窓を見るト書きもない。笑う前に息を止める指示も削除されている。
作者名の欄には、一つだけ名前があった。
作 とおる
カーソルを置く。文字を選択する。一度、すべて消した。
作 如月透
入力する。
違う。とおるの名前を消しても、三年間がなくなるわけではない。日向も、消せとは言わなかった。
もう一度書き直す。
作 とおる(如月透)
二つの名前が、同じ行に並んだ。
観察記録の写しを添付する。本人の動作を直接移した三か所と、削除したページを一覧にする。一覧の末尾に、声や表情から受けた影響は、個別の台詞や動作へ完全には切り分けられないと記した。
部長と日向への連絡画面を開く。
『確認用修正版と、観察記録の写しを送ります』
『本人の動作を直接移した三か所は削除しました。声や表情から受けた影響は、個別の箇所へ完全には切り分けられていません』
『今後の修正には、如月透として回答します』
送信する。
修正版の表紙には、二つの名前が同じ行に並んでいた。
作 とおる(如月透)。




