第16話:右奥の時計
翌日の放課後、部長は修正版の台本を全員へ配った。
「作者から提出された修正版と、修正内容の説明を確認しました」
部員たちが新しい台本を開く。
右手を握るト書きはない。窓を見る指示もない。笑う前に息を止める一行も削除されている。
「橘への確認資料も渡っています。正式にこの脚本を使うかどうかは、まだ確認が残っています」
部長は全員を見渡した。
「ただ、別脚本への切り替えは一度止めます。今日は、この修正版で場当たりを再開します」
何人かが日向を見た。日向は台本を持ったまま頷いた。
「お願いします」
部長が配ったのは、作者欄をこれまでどおり「とおる」とした稽古用の修正版だった。
昨夜、部長と日向へ送った確認用の表紙には、二つの名前が並んでいる。
作 とおる(如月透)
その表紙は、ほかの部員には配られていなかった。部長は作者の正体には触れなかった。静も、何も言わなかった。
俺は照明用の記録を開いた。
「第二幕、相手役が入るところから確認します」
部長の声で、部員たちが位置につく。
日向は舞台中央に立った。右手は開いている。窓の代わりに、舞台の奥を見た。
それが修正の結果なのか、日向が自分で選んだ動きなのか、俺には分からなかった。照明の番号だけを記録する。
「始めます」
相手役が舞台へ入る。日向が振り返る。台詞を返す。
次の台詞へ移る直前、相手役の声が半拍だけ遅れた。日向の口が止まる。短い沈黙。
日向は客席の右奥へ顔を向けた。すぐに舞台へ視線を戻し、次の台詞へ入る。
場面は元の間へ戻り、そのまま続いた。
俺は記録用紙へ手を伸ばした。
見覚えのある動きだった。三年間の観察記録に、同じものが残っている。
『橘日向。台詞の流れが止まったあと、客席右奥を見る』
『誰かに助けを求める癖』
『役に使える』
ペンへ指をかける。
今日の日向も、同じ場所を見た。相手役の入りが遅れたあと。台詞へ戻る前に、一度だけ。
書きかけて、手を止めた。
開いているのは、照明用の記録だった。日向の動作を書く欄ではない。演技について、新しく記録していいとも聞いていない。
ペンを置く。照明が切り替わる位置だけを記した。
場面は最後まで続いた。
「一度止めます」
部長が舞台へ上がる。相手役と日向の立ち位置を確認し、二人の台詞の間を調整した。
日向は台本へ何かを書き込んでいる。こちらを見なかった。
俺も、右奥を見た理由を尋ねなかった。
その日の稽古は、第二幕の半分まで進んだ。本公演の台本を使うのは、数日ぶりだった。
衣装係が日向の袖を直し、小道具係が机の位置を測り直している。部員たちは、それぞれ止まっていた作業へ戻っていった。
俺は照明の記録を閉じる。
「如月くん」
顔を上げる。日向が照明卓の前に立っていた。片手に修正版の台本。もう片方の手に、印刷された紙を持っている。
「少しいい?」
「うん」
日向は紙を照明卓へ置いた。観察記録の写しだった。年月ごとに並んだ記録のうち、一枚だけが開かれている。
「まだ、全部は読んでない」
日向が言った。
「今日、ここまで読んだ」
一行に、細い線が引かれていた。
『橘日向。台詞の流れが止まったあと、客席右奥を見る』
その下にも印がある。
『誰かに助けを求める癖』
『役に使える』
日向が二行目を指した。
「これ、違うよ」
紙を見る。
「どこが?」
「助けを求めてたんじゃない」
日向は客席の右奥を指した。壁の上に、秒針のある丸い時計が掛かっている。
「時計を見てたの」
俺も秒針を見る。
「台詞が止まったあと?」
「うん」
「どうして?」
「次の台詞を入れるまでの間を、秒針で数えてた」
日向は舞台へ顔を向けた。
「どこで入れば、元の間へ戻せるか考えてたの」
さっきの稽古を思い出す。相手役の台詞が遅れた。日向は右奥を見た。そのあと、自分で次の台詞へ入った。
「今日も?」
「今日も」
「相手役の入りが遅れたあと」
「うん。まだ戻せると思ったから、そのまま続けた」
記録に書いた行動は、間違っていなかった。日向は右奥を見ていた。台詞が止まったあとに。
けれど、誰かを探していたわけではない。助けを求めてもいなかった。
「助けを求めていると思っていました」
日向が俺を見る。
「そう見えた?」
「見えました」
「でも、違った」
「はい」
日向は記録へ視線を戻した。
「右を見てたことは、合ってるんだね」
「はい」
「理由は違った」
「はい」
俺が見ていたのは、日向が顔を向けたという事実だけだった。その先の理由まで見えたつもりになっていた。
「この記録は、消しますか」
日向はすぐには答えなかった。
「まだ全部読んでないから、消すかどうかはあとで決める」
「分かりました」
「でも、間違ったまま私の記録にしておきたくない」
日向はペンを取り出した。二行目の横に、短い線を引く。その余白へ書き込む。
『元の間へ戻すため、止まってからの秒数を確認していた』
日向の文字だった。俺の記録の隣に、本人の理由が並んだ。
「俺の方の記録にも入れる?」
「入れてください」
「元の文は消す?」
日向は、俺が書いた二行を見た。
『誰かに助けを求める癖』
『役に使える』
「残して」
「どうして?」
「如月くんに、そう見えていたことまで、なかったことにしたくないから」
日向は紙から顔を上げた。
「違ってたことも、一緒に残して」
「分かりました」
端末を開く。観察記録のファイルを表示する。
日向の記録を開く前に、手を止めた。
「今の説明を、ここへ書いてもいい?」
日向の視線が、画面から俺へ移った。少しだけ間があった。
「うん」
日向は答えた。
「今言ったままなら」
「分かりました」
記録へ追記する。
『橘日向。台詞の流れが止まったあと、客席右奥を見る』
『透の判断:誰かに助けを求めていると判断した』
『日向の説明:元の間へ戻すため、止まってからの秒数を確認していた』
読み返す。
以前のように、最後へ『役に使える』とは書かなかった。
日向も画面を読む。
「これでいい?」
「うん」
「ほかにも違うところがあったら、教えてください」
「全部読んでからにする」
「分かりました」
日向は紙を台本へ挟んだ。
部長が舞台から声をかける。
「橘、もう一度さっきのところからできる?」
「はい」
日向が舞台へ戻る。相手役も位置についた。
俺は照明用の記録を開き直した。
「始めます」
相手役が入る。今度は、予定どおりの間で台詞を言った。
日向が振り返る。返す。右奥の時計は見なかった。そのまま次の台詞へ進む。
俺は照明の切り替えだけを書いた。
場面が終わる。
日向が舞台袖へ戻る途中、一度だけ照明卓を見た。
俺は、その理由を書かなかった。




