第8話:返した名前
返信欄の上には、返信者として「とおる」と表示されていた。
問い合わせ本文には、二人の名前が並んでいる。
『如月透――見られなかったことを、なかったことにしないために立っている』
『橘日向――次に誰かを見るために立っている』
俺は返信欄へカーソルを移した。
『終幕の演出案を確認しました』
そこまで書いて、止まる。
演出を使っていいと答えるだけなら、難しくない。最後の台詞のあと、アキがどう立つのか。そこは脚本に書いていない。日向と俺が稽古の中で作った演技を、そのまま使えばいいだけの話だ。
問題は、その前に書かれている二人の名前だった。
『提示された演出について、変更を求める点はありません』
続けて打つ。
これで、部長が必要としている答えにはなる。上演は止まらない。日向の演技も、そのまま残る。誰も俺の正体へは近づかない。問い合わせの中にある如月透の名前へ、触れなければいい。
俺は二行を読み直した。
『終幕の演出案を確認しました』
『提示された演出について、変更を求める点はありません』
誰が作った演出なのかは書いていない。作者の想定と同じだとも書いていない。許可する、という言葉も使っていない。
必要なことだけを返した文章だった。過不足はない。逃げ場としては、よくできている。
俺は送信ボタンを押した。
翌日の放課後、部室へ入ると、部長が印刷された紙を持っていた。
「作者から返事が来た」
部員たちが集まる。俺は昨日と同じ照明卓のそばに立った。
部長が紙を読み上げる。
「『終幕の演出案を確認しました。提示された演出について、変更を求める点はありません』」
短い返信だった。それ以上に短く読み上げられて、余計に何も言っていない文章に聞こえた。
「じゃあ、今の終幕でいいってことですね」
部員の一人が言う。
「そうなるな」
部長は終幕のページを開いた。
「相手役が退場したあと、橘が前を向いたまま三秒。それから暗転。この形で固定する」
日向は返事をしなかった。部長の手にある紙を見ている。
「橘?」
「はい」
日向が顔を上げた。
「分かりました」
それだけ言って、自分の台本へ視線を戻す。
作者が認めた、とも言わない。正しい演技だった、とも言わない。喜びも落胆も見せない。あの紙から、彼女は何も受け取っていないようだった。
部長が別の部員へ指示を出し始める。日向はまだ、台本を開いたまま動かなかった。
俺は照明卓の上に置かれた記録表を取った。昨日と同じ項目が並んでいる。開演時刻。場面転換。照明の遅れ。小道具の不備。
「如月くん」
顔を上げる。日向が近くまで来ていた。
「何」
「昨日、名前を載せていいって言ってくれて、ありがとう」
「作者は名前に触れてなかった」
考える前に、口が答えていた。言ってから、なぜそれを言い返したのか自分でも分からなかった。
日向は少しだけ目を細める。
「作者の返事の話じゃないよ」
「なら、何の話だ」
「昨日、部長に聞かれたでしょう」
日向は自分の台本を閉じた。
「橘と如月が考えた解釈だと書いていいかって」
覚えている。
日向は先に、
『私は構いません』
と答えた。俺の分まで決めずに。
そのあと部長が俺を見た。
『如月は?』
俺は、
『……はい』
と答えた。
「如月くんが嫌だと言ったら、名前は送られなかった」
「お前が先に名前を出したんだろ」
「うん」
「なら、俺が断っても、考えたこと自体は変わらない」
「でも、作者へは届かなかった」
日向は言った。
「私が一緒に考えたと思っていても、如月くんがそう思っているとは限らないから」
返す言葉がなかった。
日向は、作者の返信を読んでいないわけではない。問い合わせに並んだ二人の名前へ作者が何ひとつ触れなかったことにも、当然気づいている。
それでも彼女が受け取っていたのは、作者の承認ではなかった。俺本人が、自分の名前を送ることへ同意したという、それだけの事実だった。
「だから、ありがとう」
日向はもう一度言った。
稽古開始を告げる声が部室に響く。
「橘、位置について」
「はい」
日向は舞台へ戻った。
俺は記録表へ目を落とす。開演時刻を書く欄へ、鉛筆の先を置いた。
稽古が始まった。
作者からの返信を受けても、日向の演技は変わらなかった。承認されたから強くなったわけでもない。拒まれなかったから安心しているわけでもない。日向は、自分で作ったアキを、昨日と同じ重さで舞台へ置いている。あの紙は、彼女の演技に何ひとつ足していなかった。
終幕。相手役が退場する。日向が最後の台詞を言う。
「どうして私を見てくれないの」
その場に立ったまま、顔を伏せない。
一秒。二秒。三秒。
暗転。
部長が次の指示を出す。
「終幕は今のでいい。転換だけもう一度確認する」
演技については、それ以上何も言わなかった。日向も何も尋ねなかった。
稽古が終わると、俺は記録表を部長へ返した。昨日と同じように、照明卓を片づける。
日向はほかの部員と小道具を運んでいる。こちらを見ない。俺も声をかけなかった。
帰宅後、机へ鞄を置く。
端末を開き、匿名作者「とおる」の送信済みフォルダを表示した。昨夜送った返信が、一番上にある。
『終幕の演出案を確認しました』
『提示された演出について、変更を求める点はありません』
その上にある元の問い合わせを開く。
橘日向。如月透。
二人の名前が、まだ並んでいる。
日向は、作者が名前を認めたかどうかなど求めていなかった。俺本人が、一緒に考えたことを否定しなかった。彼女が受け取ったのは、その一点だけだ。
それなのに匿名の俺は、二人の名前から逃げた。
上演を止めないため。演技を変えさせないため。そう並べれば、理由の形にはなる。
けれど、如月透の名前に触れなかった本当の理由は、それだけではなかった。あの名前を作者の言葉で書けば、二つが同じ場所に立ってしまう。それが怖かった。
俺は新しいメッセージを開いた。宛先は演劇部の連絡フォーム。件名に、
『終幕演出についての補足』
と入力する。本文へカーソルを移す。
『前回の返信に、一点補足します』
そこで手が止まった。
如月透の名前を書いても、それだけで正体へ届く証拠にはならない。問い合わせに書かれていた名前を、そのまま返しただけだと言える。
それでも、「とおる」の文面へ自分の実名が残る。二つの名前を、自分の手で同じ場所に置くことになる。
書かなければ、安全なままでいられる。日向はもう、作者の承認を求めていない。部長も、演出を固定した。送る必要はどこにもない。
俺は元の問い合わせへ戻った。
『この演技は、橘日向と如月透が、台詞のあとのアキについて異なる解釈を出し合ったところから作ったものです』
日向が、部員たちの前で出した俺の名前。部長に聞かれ、俺自身が送っていいと答えた名前。
その名前を、匿名の俺だけが受け取っていない。
新しいメッセージへ戻る。
『前回の返信に、一点補足します』
その下へ書く。
『終幕の解釈は、橘日向さんと如月透さんが稽古の中で作ったものとして受け取っています』
作者の想定とは書かない。正しいとも書かない。俺が作ったとも書かない。
二人が作ったものとして受け取った。書くのは、それだけだ。
送信ボタンの上へ指を置く。
押せば、「とおる」が如月透の名前を書いた記録が残る。押さなければ、何も変わらない。日向は困らない。演劇部も困らない。
困るのは、匿名のまま自分の名前を受け取れない俺だけだった。
送信ボタンを押す。
画面に、送信完了の表示が出る。
「とおる」の言葉で、初めて如月透の名前を書いた。




