第7話:名前のある解釈
通し稽古に、初めて観客が入ることになった。
文化祭実行委員が二人。放送部員が一人。演劇部員が連れてきた生徒が数人。本番の客席には遠く及ばない。それでも、空席の中に散らばった人影は、舞台からなら一人ずつ見分けられそうだった。
「今日は途中で止めない」
部長が全員を集めて言った。
「台詞を間違えても、転換が遅れても最後まで続ける。終わったあと、観客にも感想を聞くから」
俺はいつもの最後列へ向かおうとした。
「如月。今日はこれを頼む」
部長に呼び止められた。
照明卓の横に置かれた記録表を渡される。開演時刻。場面転換。照明の遅れ。小道具の不備。書き込む欄は事務的なものばかりで、演技について書く場所はどこにもなかった。
舞台中央では、日向が最初の立ち位置を確かめている。日向は客席を見なかった。
俺も、観客の顔を一人ずつ確認するのをやめた。
開演を知らせる明かりが消えた。通し稽古が始まる。
俺は記録表へ時刻を書き込みながら、舞台上の声を聞いた。第一場の転換が七秒遅れた。第二場では、椅子の位置がわずかにずれた。
夜の部室で俺が鳴らした三つの音は、そのままの形では、日向の演技のどこにもなかった。それでも、相手役の言葉を待つ日向の呼吸には、あの音と似た間が残っていた。日向は俺の音を答えとしてなぞらず、アキの時間へ作り変えていた。
俺は記録表へ目を戻した。
昨夜まで、あの間は二人のあいだにしかなかった。今日はそれを、名前も知らない他人が見ている。客席の生徒が一人、日向の台詞に合わせるように顔を上げた。
終幕まで、稽古は一度も止まらなかった。
相手役が退場する。日向が最後の台詞を言う。その場に立ったまま、顔を伏せない。
三秒後、暗転。
少し遅れて、客席から拍手が起きた。
俺は記録表に暗転時刻を書いた。拍手については、何も書かなかった。
通し稽古が終わると、観客を残したまま簡単な反省会が始まった。
最初に出たのは、劇全体についての感想だった。第二幕の人物関係が少し分かりにくい。場面転換が長い。舞台の右側に人が集まりすぎている。部長が一つずつ記録していく。
やがて、放送部員の女子生徒が手を挙げた。
「最後の場面がよかったです」
日向が顔を上げた。
「アキが立ったまま終わるところです。誰かを待っているようには見えませんでした。でも、これで全部終わったようにも見えなくて。暗くなったあとも、まだ立っていられそうでした」
日向の指が、衣装の脇で小さく動いた。
「客席を見ていたわけではないんですよね?」
「はい。客席の誰かを探していたわけではありません」
「そう見えました」
「それなら、よかったです」
日向は、その一つだけを受け取った。褒め言葉を広げようとしなかった。
女子生徒が続ける。
「あそこまで脚本に書かれているんですか?」
「どういうこと?」
部長が聞き返した。
「最後に立っている意味です。最初から作者が決めていたのかなと思って」
別の部員がうなずいた。
「第一幕から終幕まで、とおるさんがそこまで考えて書いてたってこと?」
俺は記録表の上で鉛筆を止めた。
褒められている。日向の演技も、脚本も。
だが、観客が受け取ったあの終幕は、脚本のどこにも書かれていない。俺が書けなかった空白に、日向が立っただけだ。
部長が台本を開いた。
「終幕は……最後の台詞のあと、『暗転』だけだな」
顧問も台本をのぞき込んだ。
「台詞のあとの動きは、書かれていませんね」
部長が舞台上の日向を見る。
「あの立ち方は、橘が考えたの?」
日向はすぐには答えなかった。照明卓のそばにいる俺を見る。
助けを求める目ではなかった。
「如月くんと考えました」
部員たちの視線が、俺へ集まった。
「如月と?」
「はい」
「演技を教えてもらったの?」
「違います」
日向は、そこだけはすぐに否定した。
「教えてもらったんじゃありません。一緒に考えました」
俺は顔を上げた。
日向は、俺の名前を隠さなかった。匿名の作者ではない。演劇部員の如月透を、共同で考えた相手として口にした。
「如月、橘にどんな意見を出したんだ?」
部長に尋ねられる。
「台詞を言ったあと、アキがどう立っているかを話しました」
「答えを教えたんじゃなくて?」
「俺の答えと、橘が出した答えは違います」
「どんなふうに?」
俺は一度、日向を見た。日向は何も言わずに待っている。急かしもしないし、代わりに答えようともしない。
「俺は、見られなかったことを、なかったことにしないために立っていると思いました」
部長が日向へ視線を移す。
「橘は?」
「私は、次に誰かを見るために立っていると思いました」
「違う答えだな」
「はい」
「どちらかに決めなかったの?」
「決めていません」
「それで、今日の立ち方になった?」
「両方を残したまま、立ってみました」
部長が俺を見る。
「如月がまとめたのか?」
「演技にしたのは、橘です」
俺が答えると、日向は何も付け加えなかった。訂正も、謙遜もしない。そこは自分の仕事だと認めている顔だった。
客席にいた女子生徒が、部長の手元の台本を見る。
「じゃあ、あれは台本に書いてなかったんですね」
「そうなるな」
部長は台本を閉じた。
「演出としては、今のでいいと思う」
日向の肩から、わずかに力が抜けた。
「ただ、今日の感想だと、とおるさんが最初からそこまで決めていたように受け取られてる。次の連絡で、一度共有しておこう」
日向が少し眉を寄せる。
「作者の答えと違ったら、変えますか」
「すぐに変えるとは言ってない。今までは稽古の中で試していたけど、今日の反応を見る限り、本番の演出として残す価値がある」
部長は終幕のページを指で押さえた。
「相手役の退場後、橘が前を向いたまま三秒待って暗転する。この演出で進めていいか、正式に確認しておく」
部長が日向と俺を順に見る。
「橘と如月が考えた解釈だと書いていい?」
「私は構いません」
日向は俺を見ずに答えた。この返事は自分だけのものだと、線を引いているように聞こえた。
部長が俺を見る。
「如月は?」
「……はい」
部長は連絡用の端末を開き、その場で文章を打ち始めた。
送信される文章を、如月透として横から読むこともできた。数歩近づけばいい。
俺は見なかった。代わりに記録表を部長へ渡し、照明卓の片づけを始めた。
帰宅後、机へ鞄を置くより先に、俺は端末を開いた。
匿名作者「とおる」の受信箱に、新着メッセージが一件届いていた。
件名は、『終幕演出の確認』。
俺は椅子へ座り、本文を開く。
『本日の通し稽古では、校内の生徒数名を仮観客として招きました』
上演時間と、転換上の問題が簡潔にまとめられている。その下に、終幕についての報告が続いていた。
『仮観客から、アキが誰かを待っているようには見えず、これで全てが終わったようにも見えなかった。暗転後もまだ立っていられそうに感じた、という感想がありました』
『この演技は、橘日向と如月透が、台詞のあとのアキについて異なる解釈を出し合ったところから作ったものです』
続けて、二人の答えが並んでいる。
『如月透――見られなかったことを、なかったことにしないために立っている』
『橘日向――次に誰かを見るために立っている』
俺は、その二行を読み直した。
黄色い付箋の上に並んでいた二つの筆跡が、活字になっている。書いた日には、あの紙は二人しか見ていなかった。それが今、実名つきで匿名作者の受信箱に届いている。俺の名前を、俺自身へ報告する文面として。
メッセージの最後には、確認事項が記されていた。
『相手役の退場後、橘が前を向いたまま三秒待ち、暗転する演出を本番でも使用したいと考えています』
『とおるさんが想定していた終幕と異なる点があれば、ご指摘ください。この演出で上演を進めてもよいでしょうか』
返信欄の上には、返信者として「とおる」と表示されている。
俺は返信欄へカーソルを移した。
最初に書くべき主語が、決められなかった。




