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第6話:夜の独白

 第一幕のアキは、二度目で立てた。

「これなら、遠くからでも見つけられるでしょう?」


 青いリボンを手首へ結び、日向が舞台の端を見る。

 昨日のように、俺だけを見てはいなかった。部長。相手役。照明係。最後列。客席の中にある一つの顔ではなく、誰かがいるかもしれない場所へ声を向けている。

 見つけてもらえる保証はない。それでも、見つけてもらえるように自分から目印をつける。昨日より明るい声ではなかった。ただ、まだ諦めていない声だった。


「止めて」

 部長が言った。日向の顔がわずかに強張る。

「今の方向でいい。もう一度、同じところから」

「はい」

 相手役が位置へ戻る。

 二度目は、声の高さも、視線を置く場所も少し違った。それでも、終幕の声にはならなかった。

「これなら、遠くからでも見つけられるでしょう?」

 日向は、誰かが見てくれる可能性を、まだ手放していなかった。

 場面が終わる。部長が台本へ印をつけた。


「第一幕は、これで進めよう」

 日向が息を吐く。

「ありがとうございます」

「ただし、特定の誰かが見ていないと成立しない演技にはしないこと。本番の客席に、橘が頼りたい相手がいるとは限らないから」

「はい」


 日向は答えた。その直後、こちらを見る。ほんの一瞬だった。

 部長は台本へ視線を落としていた。ほかの部員も、次の場面の準備を始めている。俺だけが、その視線に気づいた。

 昨日、日向は俺を見て第一幕の声を作った。今日は客席全体へ広げた。それでも、最初に借りた場所が完全に消えたわけではないらしい。


 稽古は終幕まで続いた。

 日向は最初のアキと、最後のアキを同じ一人の中へ置いた。まだ繋がりきってはいない。第一幕では、少し意識して明るさを残している。第二幕へ入ると、失っていく順序を追うことに集中しすぎる。終幕だけが、身体の奥まで沈んでいる。

 それでも、昨日の通し稽古とは違った。物語が、最初から最後へ向かって進んでいた。


 部長が終了を告げる。部員たちが椅子と小道具を片づけ始めた。

 俺はノートを閉じる。表紙の内側には、黄色い付箋が残っていた。

『台詞を言ったあと、アキはどう立っていると思う?』

 その下に、二つの答え。

『見られなかったことを、なかったことにしないために立っている』

『私は、次に誰かを見るために立っていると思う』

 同じ役について書かれた、違う筆跡だった。

 鞄へしまおうとしたところで、日向が来た。

「如月くん」


「何」

「今日の第一幕、昨日よりよかった?」

「部長がいいと言っただろ」

「如月くんは?」

「俺に毎回答えを求めるな」

「答えじゃなくて、意見」

「同じだ」

「同じじゃないよ」


 日向は、もう何度目か分からない返しをした。

「昨日より、役の最初と最後が繋がってた?」

「昨日よりは」

「まだ足りない?」

「急に完成する方がおかしい」

「それならよかった」

「何が」

「足りないって言われた方が、明日やることがあるから」


 日向は舞台の方を振り返る。片づけはほとんど終わっていた。

「如月くん、今日もこのあとピアノを弾く?」

 ノートを持つ手が止まった。

「なぜ知ってる」

「前に、少し音楽をやってるって言ってた」

「少しだ」

「部室のピアノも使ってるんでしょう?」

「誰から聞いた」


「誰からも」

 日向はグランドピアノを見る。

「三年間ほとんど稽古に来なかったのに、台詞の間を指で取る人が、部室のピアノを一度も触ってないとは思えないから」


 否定する言葉を探した。見つからなかった。日向は誰かから聞いたのではない。ここ数日、俺を見ていて、そこから組み立てたのだ。静と同じやり方だった。


「今日は弾かない」

「まだ聞いてないよ」

「何を」

「聞いてもいいかって」

「駄目だ」

「そう」


 日向はあっさり引いた。そのまま舞台監督に呼ばれ、残っていた小道具の確認へ向かう。


 俺は鞄を持って部室を出た。

 最終下校時刻まで、まだ一時間あった。廊下を歩く。昇降口へは向かわなかった。

 階段の踊り場で十分ほど時間を潰す。窓の外が暗くなっていく。部員たちの声が遠ざかる。一人、二人と昇降口を出ていくのを、上の階から見送った。

 最後に部長と舞台監督が昇降口へ向かう。日向の姿も、その中にあった。帰ったらしい。


 俺は部室へ戻った。

 扉を開ける。照明は落ちていた。窓から入る薄い光だけが、床と椅子の輪郭を残している。誰もいない。

 そう思って、グランドピアノへ向かった。

「来た」

 舞台の方から声がした。足が止まった。

 日向が、舞台の縁に座っていた。薄暗い中で、手元の青いリボンだけが淡く浮いている。

「帰ったんじゃなかったのか」

「昇降口まで行って、戻ってきた」

「部長は」

「先に帰ってもらった。顧問には、忘れ物を探すって言ってある」

「嘘だろ」


「青いリボンを置いていったから、半分は本当」

「半分は嘘だ」

「如月くんも、帰ったふりをして戻ってきたよね」

 返せなかった。

 日向が舞台から降りる。

「聞かないでって言われたから、黙って盗み聞きするつもりはなかった」

「なら帰れ」

「その前に、話したいことがある」


「明日でいい」

「明日の稽古を始める前に話したい」

 日向は、ピアノと俺の間に立たなかった。出口も塞がない。帰ろうと思えば帰れる位置に、わざと立っている。

「今日の第一幕」

 日向が言った。

「最初は、如月くんを使った」

「昨日の話か」

「今日も」


「今日は俺を見てなかっただろ」

「最初に声を作った場所には、まだ如月くんがいた」

 日向は青いリボンを指へ巻く。

「部長に言われた通り、特定の一人がいなくてもできるようにした。でも、最初に見てくれるって信じた相手は、如月くんだった」

「役を作るために必要だったなら、使えばいい」

「本当に?」

「役者は、自分が見たものを使うだろ」

「書く側も?」


 日向は何気なく尋ねた。特別な意味を込めた声ではなかった。

 それなのに、胸の奥で何かが固くなった。

「知らない」

「如月くんは、どう思う?」

「誰かを自分の表現に使うことを?」

「うん」


 ピアノの黒い表面に、窓の光が細く映っている。

 答えなら、知っていた。

 三年間、俺は日向を見てきた。声。表情。舞台での呼吸。教室で誰かへ向ける笑顔。見つからない場所から盗み見て、一冊の脚本へ変えた。日向は何も知らない。許可も取っていない。本人へ返したこともない。


「使うこと自体が悪いとは思わない」

 言葉を選ぶ。

「見たものや聞いたものを、全部自分の中から切り離すなんて無理だ」

「うん」

「でも、使われた方が何も知らないままなのは」

 そこで止まった。

「何?」

「……気分のいいことではないと思う」


「如月くんは、嫌だった?」

「何が」

「私が、如月くんを使って演技をしたこと」

「別に」

「本当に?」

「お前が勝手に決めたことだ」

「それは、嫌じゃないって意味?」

「好きに解釈しろ」


 日向は少し考える。

「私は、黙ったまま使うのが嫌だった」

「だから今、言ったのか」

「うん」

「言えばいいという話でもない」

「分かってる」

「なら」

「でも、言わないよりはいいと思った」


 日向は手首へ青いリボンを結んだ。

「昨日、私の答えを書いたときも、今日の第一幕も、如月くんから借りたものがある」

「借りたままにしないんじゃなかったのか」

「借りたままにはしない。でも、最初から借りていなかったことにもしない」

 黄色い付箋に書かれた、俺の答えが頭に浮かぶ。

 見られなかったことを、なかったことにしない。

 日向は、それと似たことを言っていた。似ているのに、向いている方向だけが違う。

「だから伝えたかった」

 日向が言う。

「今日の演技には、如月くんがいた」


 部室には二人しかいない。それなのに、その言葉を聞いた瞬間、隠れる場所がなくなった気がした。

「話はそれだけか」

「もう一つ」

「まだあるのか」

「如月くんの音にも、私がいる?」

 今度こそ、答えられなかった。

 日向がグランドピアノへ視線を移す。

「昨日、台詞を聞いていたとき、如月くんは声の高さや間を全部見てた。音として聞いてるんだと思った」


「誰でも分かる」

「私には分からなかった」

 日向が一歩だけピアノへ近づく。

「如月くんが、私の声をどう聞いてるのか知りたい」

「聞いてどうする」

「私が使われているなら、知っておきたい」

 悪意のない言葉だった。だからこそ、拒めなかった。


 椅子を引く。グランドピアノの前へ座る。

 日向は隣には来なかった。舞台の縁へ戻り、そこへ腰を下ろす。客席と舞台の間。俺の指は見えても、顔を覗き込めるほど近くはない距離だった。


「一度だけだ」

「うん」

「途中で話すな」

「分かった」


 鍵盤へ指を置く。

 昨日の第一幕を思い出す。青いリボン。客席の最後列。見つけてもらえる保証がなくても、目印を差し出した声。


 最初の音を鳴らす。高すぎた。指を離す。半音下げる。今度は、諦めた声に近すぎる。

 もう一度。右手で短い音を三つ置き、左手は一音だけ残す。

 見つけてほしい。けれど、自分から大きく叫ぶことはできない。小さな音が、同じ場所を何度も確かめる。その上へ、少しだけ高い音を重ねた。

 日向の第一幕の声だった。


 演奏を止める。部室の中に、最後の音だけが残る。

「それ」

 日向が言った。

「話すなと言った」

「もう終わったでしょう?」

「まだ途中だ」

「じゃあ、終わるまで待つ」

 日向は口を閉じた。


 続きを弾く。

 第一幕の音を少しずつ崩していく。高い音が減る。同じ場所へ戻る回数が増える。最後には、低い単音だけが残った。

 終幕。見られなかったことを、なかったことにしないために立つ音。

 そこで手を止めた。


 普段なら、ここで終わる。

 けれど、黄色い付箋にはもう一つの答えがある。

 私は、次に誰かを見るために立っていると思う。


 右手を鍵盤の上で動かす。音が見つからない。

 明るくすれば、救いに聞こえる。高くすれば、立ち直ったように聞こえる。日向の答えは、そんな単純なものではない。見られなかった事実を消さずに、それでも自分から別の誰かを見る。

 その二つを、同じ音の中へ置けなかった。


 指を下ろした。

「終わり?」

 日向が尋ねる。

「終わりだ」

「最後、弾かなかったね」

「何を」

「私が書いた方」

 やはり、分かっていた。


「音にならない」

「如月くんにも?」

「俺にも分からないことはある」

「そっか」


 日向は落胆しなかった。舞台から降り、ピアノの近くまで来る。鍵盤には触れない。俺の右手が止まっている場所を見る。


「最初の音は、私の声?」

「聞いた音を置いただけだ」

「それを、私の声を使ったっていうんじゃない?」

「お前がそう思うなら、そうなんだろ」

「嫌じゃないよ」

 日向が言った。顔を上げる。

「私の声が、如月くんの中でどう聞こえてるか分かったから」

「今ので分かったのか」


「全部は分からない」

「なら」

「全部分からなくても、ここにあったことは分かる」

 日向は、自分が書いた付箋の答えを口にする。

「次に誰かを見るために立っている」

 それから、俺の止まった右手を見た。

「この答えは、音にしなくていいのかもしれない」

「なぜ」


「次に見る相手は、そのときまで決まっていないから」

「答えになってない」

「うん。まだ決めないっていう答え」

 日向は舞台中央へ戻った。青いリボンを手首へ巻き直す。

「最初の場面、やってもいい?」

「稽古は終わった」

「台詞だけ」

「伴奏はない」


「さっきの最初だけ弾いて」

「勝手に決めるな」

「嫌なら弾かなくていい」


 日向は舞台の上で待った。俺が弾くと決めつけてはいない。出口を塞ぐことも、追い立てることもしていない。ただ、こちらを見ている。


 俺は鍵盤へ指を戻した。最初の短い音を三つ鳴らす。

 日向が手首の青いリボンを見る。

「これなら、遠くからでも見つけられるでしょう?」

 声は俺だけへ向けられてはいなかった。けれど、俺が聞いていることを知っている声だった。


 音を続ける。日向は台詞を言い終えても、目を逸らさなかった。俺も、演奏を止めなかった。短い旋律が一周し、同じ場所へ戻る。そこで終える。


 日向が息を吐いた。

「今のは?」

「昨日よりはいい」

「何が違った?」

「自分で分かるまでやれ」

「少しくらい教えて」

「俺の答えを借りたままにするな」

「捨てもしないよ」


 昨日、付箋へ答えを書いたときと同じ言葉だった。

 日向が笑う。舞台の上で作る笑顔とは違った。

「また聞かせて」

「嫌だ」

「今度は、私も先に言うから」

「何を」

「私の声を使っていいって」


 胸の奥がわずかに痛んだ。

 日向は何も知らない。自分の声だけではない。三年間の姿も、笑顔も、見つけられなかった俺の感情も、すでに脚本へ使われている。今さら一つの旋律について許可をもらっても、過去が変わるわけではない。


「許可があれば、何でも使っていいわけじゃない」

「うん」

「返せるとも限らない」

「うん」

「それでも言うのか」

「言うよ」

 日向は手首のリボンを外す。

「如月くんが聞いた私の声を、私も知りたいから」


 青いリボンを台本へ挟む。

「今日は、最初の客になれた?」

「客を呼んだつもりはない」

「でも、追い出さなかった」

「帰らなかっただけだ」

「それなら、今日はそれでいい」

 日向は鞄を持つ。出口へ向かい、扉の前で振り返った。

「如月くん」


「何」

「今夜の曲、まだ名前がないでしょう?」

「曲ですらない」

「名前をつけたら教えて」

「つけない」

「じゃあ、つけるまで待ってる」


 日向は部室を出ていった。廊下を歩く足音が遠ざかる。扉が閉じる。

 また、誰もいない部室になった。


 グランドピアノの前には、俺一人しかいない。それなのに、さっきまでの音が、以前とは違って聞こえた。

 三年間、ここで弾いてきた音は、誰にも聞かせるつもりのない独白だった。誰にも届かないから、何を鳴らしても安全だった。

 今夜、その独白を一人が聞いた。そして、勝手に意味を決めずに帰っていった。


 鍵盤へ指を置く。第一幕の三つの音を、もう一度鳴らす。

 今度は、その先に一音だけ足した。

 誰かを見るための音ではない。誰かが聞いていたことを、なかったことにしないための音だった。

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