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第5話:背景の言語

 黄色い付箋は、翌朝になってもノートの表紙に貼りついていた。

『台詞を言ったあと、アキはどう立っていると思う?』

 家を出る前に、一度だけ端へ指を掛けた。薄い紙だった。糊も弱い。爪を滑らせれば、それで済む。

 それでも、剥がさなかった。

 答えを書こうともした。けれどペン先は一文字も残さないまま、紙の上を何度か滑っただけだった。


 放課後、部室へ入ると、舞台の前に椅子が一列に並べられていた。部員たちは台本、小道具、照明表を抱えて動き回っている。昨日までのように、一つの場面だけを何度も繰り返す空気ではなかった。


「今日は、最初から最後まで通す」

 部長が全員へ告げた。

「昨日変えた終幕も含めて、一度も止めない。失敗しても続ける。どこで流れが切れるのか、まず全体を見るから」


 部員たちが返事をする。

 俺は最後列の椅子へ座った。

 壁際に、静の姿はない。来訪者証をつけた外部の見学者もいなかった。それなのに、あいつがどこかから見ているような気がした。昨日、あの位置から一度もこちらを見なかったせいかもしれない。


 ノートを膝へ置く。黄色い付箋は、閉じた表紙の内側に隠れていた。

「始めます」

 舞台監督の声で、部室の照明が落ちた。


 第一幕。物語の始まり。まだアキが、誰かの返事を待つことを諦めていなかった頃の場面だ。

 舞台中央に、小さな机が置かれている。日向は青いリボンを手に持っていた。相手役の部員が、そのリボンを見て笑う。


「そんなに目立つところへ結ぶの?」

 日向はリボンを手首へ巻く。

「目立たせるの」

 そこで顔を上げた。

「これなら、遠くからでも見つけられるでしょう?」


 声は小さかった。柔らかくはある。

 けれど、初めから返事を諦めている声だった。客席の最後列まで届く前に、足元へ落ちる。

 昨日の終幕と同じ声だ。まだ何も失っていないアキが、すでに全てを失ったあとの声で話している。


 部長は止めなかった。今日は通し稽古だ。相手役が次の台詞を言い、場面は進んでいく。

 それでも、日向のアキは最初から重かった。誰かを待つ場面でも、待っていない。返事を期待する場面でも、期待していない。笑っていても、その笑顔の裏側に終幕の沈黙が張りついている。

 日向は、アキがどこへ辿り着くのかを知ってしまった。知ったまま、知らなかった頃へ戻れなくなっている。


 第一幕が終わる。

 第二幕。時間が流れ、アキの声から少しずつ力が失われていく。本来なら、ここで初めて変化が見えるはずだった。けれど、最初から失っているため、何も減らない。

 日向の演技は正確だった。一つ一つの台詞も、立ち位置も、視線の運びも崩れていない。それでも、物語が進んでいなかった。


 終幕。相手役が舞台袖へ消える。日向は追わない。

「どうして私を見てくれないの」

 言葉をその場へ置く。目を伏せず、泣き崩れず、立ったまま残る。

 一秒。二秒。三秒。


 今度は、できていた。昨日、俺が如月透として指摘したのは、欠けているものだけだ。そこから日向が自分で作り上げた終幕だった。


 舞台監督が暗転させる。部室の照明が戻った。

 部長はすぐには話さなかった。台本の最初のページと、最後のページを交互に見ている。

「終幕は、今ので使える」

 日向の肩がわずかに下がった。

「でも、第一幕は全部やり直し」

 肩が再び固くなる。

「最初のアキが、もう最後のアキになってる」

 部長は舞台へ上がり、机の上に残された青いリボンを持ち上げた。

「この時点では、アキはまだ自分が見つけてもらえないなんて知らない。だから、このリボンを結ぶ。見つけてもらえると思ってるから」


「分かっています」

 日向が答えた。

「頭では分かってます。でも」

 自分の手首を見る。

「終幕を分かってから、最初の台詞が嘘に聞こえるんです」

「演じる側は結末を知ってる。役は知らない。それを分けるのも演技だよ」

「はい」

「今日はここまで。明日は第一幕から作り直す」


 部長は台本を閉じた。通し稽古が終わる。部員たちは、舞台上に残った小道具を回収し始めた。


 日向は青いリボンを持ったまま、動かなかった。

 終幕を掴んだことで、物語の始まりを失った。誰も責められない。昨日の演技が間違っていたわけでもない。深く理解したために、浅かった頃へ戻れなくなっただけだ。何かを手に入れた分、確実に何かが手から落ちている。


 俺はノートを鞄へ入れ、立ち上がった。

「如月くん」

 日向が舞台から降りてくる。

「何」

「帰る?」

「稽古は終わった」

「少しだけ残って」

「部長に聞け」


「部長じゃなくて、如月くんに聞きたい」

 日向は、俺のノートを見る。

「昨日の付箋、剥がした?」

「剥がしてない」

「答えは?」

「まだ書いてない」

「そう」

 責める声ではなかった。日向は青いリボンを指へ巻きつける。


「昨日の答えは、まだいい」

「なら、帰る」

「でも、今日、別の問いができた」

 俺は鞄から手を離した。

 日向が舞台を見る。

「終幕のアキは、少し分かった」

「少しだけか」

「全部分かったなんて言ったら、また借りたままになるから」

 リボンを一度ほどき、結び直す。


「でも、最初のアキが分からない」

「部長が言っただろ。まだ、見つけてもらえると思ってる」

「それは分かる」

「なら何が分からない」

「どうして、そう思えるの?」

 答えが出なかった。

 日向は台本を開く。第一幕のページを指で押さえた。

「終幕には、理由が全部書いてある。返事がなくなった順番も、アキが声を失っていく順番も」


 ページをめくる。

「でも最初のアキが、誰かは自分を見つけてくれるって信じている理由は、どこにも書いてない」

 日向の指が止まった。

「だから私、結末の声で読んじゃうんだと思う。失う理由は分かるのに、信じる理由が分からないから」


 脚本を読めば分かる。

 そう言おうとして、言えなかった。日向の言う通りだったからだ。

 アキが失ったものについては、いくらでも書いた。返事が一つずつ減る。名前を呼ぶ人がいなくなる。視線が自分を通り過ぎる。

 けれど、彼女が最初に何を根拠として誰かを信じていたのかは、一行も書いていない。信じていることを、初期設定として置いただけだ。


「如月くんなら、どう思う?」

「俺に、台本に書かれていないところまで決めさせるな」

「書かれていないところだと思うんだ」

 言ってから、早すぎたと気づいた。日向がこちらを見る。俺は視線を外した。

「読めば分かる」

「今、書いてないって言った」

「そうは言ってない」

「でも、空白だって言った」


「台本に書かれていないことくらい、読めば分かる」


 日向はしばらく俺を見ていた。追及はしなかった。踏み込めば俺が逃げると、もう分かっているような間の取り方だった。


「じゃあ、聞き方を変える」

 青いリボンを俺へ差し出す。

「如月くんは、どうして誰かを信じられると思う?」

「知らない」

 今度は、すぐに答えが出た。

 日向の手が止まる。

「知らない?」

「信じている人間の声なんて、分からない」

「脚本には書いたのに?」


「書くことと、知っていることは同じじゃない」

 部室の奥で、椅子を重ねる音がした。何人かの部員はまだ残っている。それでも、この周りだけ音が遠かった。

「如月くんは」

 日向が言いかける。

「誰かが気づいてくれるって、思ったことがないの?」

「演技の話に戻せ」

「戻してるよ」

「俺の話は要らない」


「アキを演じるために聞いてる」

「だったら、作者に聞け」

「作者に聞いたら、答えてくれると思う?」

 答えられなかった。

 昨日までなら、匿名フォームから返せたかもしれない。作者の言葉として。誰の経験でもないような顔をして。

「分からないなら、それでいい」

 日向は言った。諦めた声ではない。自分で次を決めた声だった。

「そこは私が作る」

「勝手に変えるな」


「脚本は変えないよ」

 日向は舞台へ戻る。青いリボンを手首へ結び直した。

「如月くん、最後列に座って」

「稽古は終わった」

「一回だけ」

「部長に怒られるぞ」

「怒られたら私が謝る」

「そういう問題じゃない」


「見てて」

 その一言だけで、足が止まった。

 俺は最後列の椅子へ座り直した。

 日向は舞台中央に立つ。机も、相手役もいない。青いリボンだけが、手首に結ばれている。

 日向はそれを一度見た。それから、客席の最後列へ顔を向ける。俺を見た。

「これなら、遠くからでも見つけられるでしょう?」


 さっきまでとは違う声だった。明るく作ってはいない。結末を忘れた声でもない。

 見つけてもらえる保証など、どこにもない。それでも今、この瞬間だけは、目の前にいる相手が見ていると信じて差し出した声だった。


「今のは?」

 日向が聞く。

「俺に決めさせるな」

「意見を聞いてるだけ」

 日向は舞台を降りない。返事を待っている。

「……最初のアキだった」

 日向の指が、青いリボンへ触れた。

「結末を知らない声に聞こえた?」


「違う」

「何が?」

「結末を知ってるお前が、今だけ信じた声だった」

 日向が少し驚いた顔をした。やがて、深く頷く。

「それなら、もう一度できる」

「本番で同じにはならない」

「同じじゃなくていい」

「信じる相手を、毎回ちゃんと見るから」


 日向の視線が、最後列から外れなかった。

「今日は如月くんだった」

 胸の奥が、一度だけ強く縮んだ。

「役の話だろ」

「うん。役の話」

 日向は舞台から降りてくる。俺の前で立ち止まった。

「ノート、出して」

「またか」


「昨日の問いに答えられる?」

「今の話と関係ない」

「あるよ」

「ない」

「ある」

 日向は引かなかった。

 俺はノートを鞄から取り出した。表紙を開く。黄色い付箋が、昨日と同じ場所に残っている。

『台詞を言ったあと、アキはどう立っていると思う?』

 ペンを持つ。今度は、ペン先が止まらなかった。問いの下に、一行だけ書く。


『見られなかったことを、なかったことにしないために立っている』

 日向が隣から読む。

「それが、如月くんの答え?」

「そう思っただけだ」

「作者の答えじゃなくて?」

「俺の答えだ」


 口にしてから気づく。

 これまで、作者の意図ではないと言い続けてきた。作者ではないと否定し続けてきた。それなのに今、初めて自分の答えだと認めた。

 日向は何も指摘しなかった。俺の手からペンを取る。


「勝手に書くな」

「私の付箋だから」

 俺の一行の下へ、もう一行を書いた。

『私は、次に誰かを見るために立っていると思う』

 筆跡が二つ、同じ付箋の上に並んだ。

「答えが違う」

「うん」

「どっちかが間違ってる」


「どうして?」

「一つの役だろ」

「一つの役でも、立つ理由は一つじゃないかもしれない」

 日向はペンを返す。

「明日、両方持って立ってみる」

「演技を曖昧にするだけだ」

「如月くんの答えを借りたままにはしない」

 日向が笑った。


「でも、捨てもしない」

 部長が奥から日向を呼ぶ。今度こそ帰る時間らしい。

 日向は青いリボンを外し、台本の間へ挟んだ。

「明日は、最初からやり直す」

「終幕まで全部か」

「全部」

 日向は舞台へ戻っていく。


 俺はノートを閉じなかった。黄色い付箋を見る。

 俺の答えは、見られなかった過去に立っている。日向の答えは、まだ見ていない誰かの方を向いている。同じ問いから、正反対の方向を向いた答えだった。


 これまで俺は、台詞の外に置く言葉を一人で書いてきた。誰にも読まれないト書き。声にならない呼吸。舞台の背景へ沈めるための言葉。

 その余白に、初めて別の筆跡が続いていた。

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