第4話:台詞の重さ
学校の最寄り駅から校門へ向かう道で、冬木静は一度も振り返らなかった。
俺は数歩後ろを歩いていた。静の背中を追っているのか、日向のいる部室へ向かっているのか。区別をつけようとして、途中でやめた。
「日向には、何も言うな」
静の足が止まった。振り返らないまま、指先で眼鏡の位置を直す。
「何を?」
「俺が『とおる』だということ」
「それから?」
「昨日の台詞が、誰に向けられたかなんて聞く必要もない」
「それを決めるのは、あなたではないわ」
静がまた歩き始める。
「言わないと約束しろ」
「聞かれていないことには答えない」
「聞かれたら?」
「嘘はつかない」
それきり、静は口を閉じた。話は終わったらしい。
俺は追うのをやめなかった。
校門で、静は来訪者証を受け取った。図書館を出る前に、演劇部の顧問へ連絡を入れていたらしい。手続きの手際が良すぎる。この人は、俺が追ってくるかどうかに関係なく、ここへ来るつもりだったのだ。
昇降口を抜け、部室棟へ近づくにつれて、台詞を合わせる声が廊下に膨らんでいく。何人もの声が重なる中で、日向の声だけが、昨日よりわずかに低いところから立ち上がっていた。喉ではなく、もっと下から出ている。昨日までは、そんな響きはなかった。
俺たちが部室の扉へ着くより先に、扉が内側から開いた。
日向が立っていた。稽古着の上に薄いカーディガンを羽織り、片手に『透明な境界線』を持っている。
最初に俺を見た。
「如月くん」
名前を呼ぶ。昨日と同じ呼び方なのに、今度は返事が遅れなかった。
「何」
「来たんだ」
「在籍部員は見学できる」
「うん。知ってる」
日向は少しだけ笑った。それから、俺の後ろにいる静を見る。
表情が変わった。
「冬木静さん?」
「知っているのね」
「全国大会の脚本賞、二年連続。知らない演劇部員はいないと思います」
「今年はまだ取っていないわ」
「取るつもりなんですね」
「そのために来たの」
静は俺の横を通り、部室へ入った。日向が半歩下がって道を空ける。
「昨日も見学してたんですか」
「ええ」
「気づきませんでした」
「あなたは、舞台と最後列しか見ていなかったから」
日向の視線が、一瞬だけ俺へ動いた。ほんの短い時間だった。
静はその動きを見逃さなかった。
「橘日向」
「はい」
「昨日の最後の台詞。誰に向けて言ったの?」
約束を破ったわけではない。俺の正体には触れていない。それでも、口を挟みたくなった。
日向はすぐには答えなかった。手に持っていた台本を開き、第二幕十七頁へ目を落とす。
「誰にも向けていません」
静が目を細めた。
「相手役は舞台にいたでしょう」
「いました。でも昨日の私は、作者の指示を借りて、その場に声を置いただけです」
「では、あなたの台詞ではなかった?」
「まだ」
日向は台本を閉じた。
「だから今日は、自分で決めます」
部室の奥から、部長が日向を呼んだ。
「橘、始めるよ」
「はい」
日向は舞台へ向かう。二歩進んでから、こちらを振り返った。
「如月くん」
「何」
「今日も、見てて」
昨日より短い言葉だった。昨日は返事をせずに済ませた。けれど今日は、日向がこちらを見たまま待っていた。
「……見てる」
日向は一度だけ頷き、舞台へ上がった。
俺は昨日と同じ最後列へ座った。静は隣ではなく、後ろの壁際に立った。座らない。ずっと立ったまま見るつもりらしかった。
稽古が始まる。第二幕十七頁。
相手役の部員が日向へ背を向ける。これまでは、その背中が舞台に残った状態で、最後の台詞を言う演出だった。
「待ってください」
日向が手を上げた。部長が台本から顔を上げる。
「どうしたの」
「最後の台詞の前に、相手役を舞台から出してもらえませんか」
「完全に?」
「はい」
「相手がいなければ、誰への台詞か観客に伝わりにくい」
「いなくなったから、言うんだと思います」
部長は少し考えた。
「作者の指示?」
「違います。私が、そうしたいです」
舞台の端で、相手役が日向を見る。判断を待つ顔だった。
部長は台本を閉じなかった。
「一度だけ試そう。使えるかどうかは、そのあと決める」
「ありがとうございます」
場面が始まった。
相手役が背中を向ける。日向は追わない。相手役が一歩進み、二歩進み、舞台袖へ消える。床板の鳴る音が、少しずつ遠ざかっていった。
日向だけが残った。
昨日よりも長い沈黙だった。相手がいない。返事もない。そのことを、まず日向自身が確かめているように見えた。
「どうして私を見てくれないの」
声は追わなかった。舞台の中央から動かず、そこへ落ちた。
けれど、言い終えた瞬間、日向は目を伏せた。肩から力が抜ける。自分で場面を閉じてしまった。
「止めて」
部長が言った。
「前よりいい。相手を退場させたことにも意味はある」
日向は顔を上げる。
「でも?」
「最後が決まっていない。台詞を言ったあと、橘が何をしているのか分からない」
壁際で、静の指が黒いファイルの端に触れた。
さっき、図書館で突きつけられたものと同じだった。台詞のあと、アキはどう立っているのか。
俺が書かなかった一行を、演出の側からも突かれた。
「もう一度やらせてください」
日向が言った。
部長は時計を見る。
「どう変える?」
日向は答えられなかった。舞台の中央で、両手を握る。すぐに開く。また台本へ目を落とす。
「……分かりません」
「分からないまま同じことをしても、変わらないよ」
「はい」
日向の視線が、客席を動いた。
部長。舞台監督。相手役。静。
最後に、俺で止まった。
「如月くん」
部室にいた全員が、こちらを見た。俺は背中を椅子へ押しつけた。
「何」
「今の、どうだった?」
「俺に聞くな」
「昨日、私が最後の一音を追っていなかったって分かったのは、如月くんだった」
「作者の指示を読めば分かる」
「でも、昨日は指示を読む前から分かってたよね」
静は何も言わない。壁際から、俺が何と答えるのかだけを見ている。
「今日の台詞」
日向が続ける。
「昨日より、私のものになってた?」
黙っていればいい。俺は見学者だ。匿名の作者として、あとから指示を送ることもできる。ここで答える必要はどこにもない。
けれど、日向は昨日、借りたままにはしないと言った。そして今日、本当に演出を変えた。作者の正解ではなく、自分の読みを舞台へ置いてきた。
それを見た人間として、何も言わないというのは、たぶん卑怯だった。
「……軽い」
口にしてから、部室の静けさに気づいた。
壁際で、静がわずかに顔を上げる。
部長が俺を見た。
「如月、どういう意味?」
逃げるなら、まだ間に合う。演劇のことは分からないと言えばいい。昨日と同じ嘘を、もう一度繰り返せばいい。
「相手がいなくなったことは伝わった」
俺は日向だけを見た。
「声も相手を追っていない。でも、言った直後に自分で終わらせた。目を伏せて、肩の力を抜いた」
日向が、自分の肩へ視線を落とす。
「それが駄目なの?」
「アキは台詞を言ったから消えるわけじゃない」
喉が乾いていた。それでも、途中で止めなかった。
「言ってしまったあとも、そこに残る。返事がない場所に、一人で立ち続ける。その重さが、今の演技にはない」
誰もすぐには話さなかった。
部長が舞台へ視線を戻し、それからもう一度こちらを見る。
「如月。演技経験は?」
「ない」
「なのに、そこまで分かる?」
「台本を読んだだけです」
完全な嘘ではなかった。読んだのではなく書いたのだが、読んでいることに変わりはない。
部長は納得した顔をしなかった。それでも、稽古を止めてまで追及はしなかった。時間がないのだ。
日向は、まだ俺を見ている。
「どう立てばいいと思う?」
「それを俺に聞くな」
「でも」
「自分で決めるって言っただろ」
日向が口を閉じた。
突き放したつもりだった。けれど、彼女は傷ついた顔をしなかった。むしろ、何かを確かめ終えたように台本を閉じる。
「分かった」
舞台中央へ戻った。
「もう一度、お願いします」
相手役が所定の位置へ立つ。場面が始まる。
背中が遠ざかる。袖へ消える。
日向は、いなくなった場所を見た。息を吸う。
「どうして私を見てくれないの」
声は、その場へ落ちた。
日向は目を伏せなかった。追いもしない。泣き崩れもしない。両手は身体の横へ下ろしたまま、何も掴もうとしなかった。
ただ立っていた。言葉を置いた場所に、自分だけが残ったことを、そのまま受け取るように。
一秒。二秒。三秒。
部室の誰も、終わりを告げなかった。日向も、自分から場面を閉じなかった。
やがて部長が息を吐く。
「止めて」
日向の肩が、ようやく動いた。
「今のは、もう一度できる?」
「やります」
迷わない返事だった。
相手役が位置へ戻る。二度目は、最初とまったく同じではなかった。声の高さも、沈黙の長さも違う。それでも、言葉を置いたあとに逃げなかった。アキは舞台へ残った。
「これで行こう」
部長が言った。
「相手役は台詞の前に退場。橘は、その場に残る。沈黙は三秒を基準にする。ただし、本番で自然に伸びても、暗転は急がない」
「はい」
日向は返事をした。それから俺を見て、小さく頭を下げる。
礼を言われるようなことではない。俺は答えなかった。
稽古が終わるまで、静は壁際から動かなかった。ほかの場面が進んでいる間も、一度もこちらを見ない。何か言われるより、そのほうが落ち着かなかった。
部長が終了を告げる。部員たちが椅子と小道具を片づけ始める。
俺はノートを閉じ、鞄へ入れようとした。
「如月くん」
日向が来た。稽古着の袖で額の汗を拭っている。
「今日は、ありがとう」
「俺は何もしてない」
「したよ」
「軽いと言っただけだ」
「それで、分かったから」
「俺の答えを借りただけだろ」
日向は首を横に振った。
「借りたのは、足りない場所だけ」
「同じだ」
「同じじゃないよ」
さっき、図書館で静が言ったのと同じ返しだった。この二人は、どうも同じところで俺の言い分を認めない。
日向は近くの机から、小さな黄色い付箋とペンを取った。台本の表紙を下敷きにして、何かを書きつける。
「ノート、出して」
「なぜ」
「いいから」
「嫌だ」
日向は少し考え、閉じたままのノートの表紙へ付箋を貼った。
「勝手に貼るな」
「剥がしてもいいよ」
そう言いながら、剥がされるとは思っていない顔だった。
付箋には、一行だけ書かれていた。
『台詞を言ったあと、アキはどう立っていると思う?』
図書館で静が終幕のト書きへ突きつけた問いと、ほとんど同じだった。片方は競争相手として、片方は演じる側として、別々の場所から俺の書かなかった一行を指している。
「答えなら、今日お前が出しただろ」
「今日のは、私の答え」
日向が言う。
「如月くんの答えも知りたい」
「俺は作者じゃない」
「作者じゃなくていいよ」
日向は、俺の手の中のノートを指さした。
「今日、私の台詞を軽いって言った人に聞いてるから」
返す言葉がなかった。
「今すぐじゃなくていい」
日向は舞台のほうから呼ばれ、そちらへ顔を向ける。
「書けたら、教えて」
「書くとは言ってない」
「うん」
日向は振り返った。
「でも、明日も来るでしょ?」
返事を待たず、片づけへ戻っていった。
俺は付箋へ目を落とした。剥がそうと思えば、いつでも剥がせる。薄い紙だし、糊も弱い。指を掛ければ、それで終わる。
静から渡された白い原稿用紙には、何も書かなかった。日向から渡されたのは、たった一行の問いだった。
それなのにノートを閉じると、来たときより重くなっていた。




