第3話:二位の脚本家は、作者を試す
翌日の放課後、俺は演劇部の部室ではなく、市立図書館にいた。
学校から二駅。稽古が始まる時間には、もう改札を抜けていた。
日向は昨日、言った。
『明日も見てて』
返事はしていない。だから、約束を破ったことにはならない。
そう自分に説明しながら、俺は閲覧室のいちばん奥の席でノートを開いていた。
新しい脚本を書くつもりだった。まだ誰のためでもない物語。橘日向も、演劇部も、全国大会も関係のない、「とおる」の作品。
けれど、白いページの中央には、朝から同じ一行しか残っていない。
『沈黙は、言葉よりも正直だ』
書いては消した。語順を変えた。別の言葉に置き換えて、また元へ戻した。消しゴムのかすだけが、机の隅に溜まっていく。
日向が俺の名前を呼んだときの声が、頭から離れなかった。作者ではなく、如月透へ向けられた声だった。あれを聞く前と同じようには、もう書けない。
「ここ、座ってもいいかしら」
向かい側から声がした。
顔を上げる。見覚えのない制服を着た少女が、テーブルの反対側に立っていた。濃紺のブレザー。細い銀縁の眼鏡。片手には、付箋で厚みが倍になった黒いファイルを抱えている。
閲覧室には、空いている席がほかにいくつもあった。
「好きにすれば」
「ありがとう」
少女は向かいの椅子へ座り、黒いファイルをテーブルへ置いた。
俺はノートへ視線を戻す。
少女は何も言わなかった。ファイルを開き、印刷された脚本を一冊取り出す。
表紙に、見覚えがあった。
『空白の部屋で、朝を待つ』
二年前、俺が『Stage』へ投稿した短編脚本だった。書籍化もされていない。上演報告も、数件しか届いていない。
少女が中ほどのページを開く。付箋の貼られた一行へ指を置き、小さな声で読んだ。
「『沈黙は、言葉が尽きたあとに残る』」
「違う」
考える前に、口が動いていた。
少女の指が止まる。
「何が?」
「そこは、『言葉が尽きたあと』じゃない」
「では?」
「『沈黙は、言葉が負けたあとに残る』だ」
言い終えてから、気づいた。
少女の口元が、わずかに上がる。
「やっぱり、あなたなのね」
俺はノートを閉じた。
「何の話だ」
「脚本家の『とおる』」
空調の低い唸りが、急に大きく聞こえた。
「人違いだ」
「その一行を覚えている読者は、ほかにもいるでしょうね」
少女は、わざと変えた一語を指でなぞった。
「でも、一語の違いに、考えるより先に反応する人は少ないわ」
「好きな脚本だっただけだ」
「自分の作品を好きだと言えるのは、悪くないことよ」
少女は黒いファイルの表紙をこちらへ向けた。表面に、白い紙が一枚貼ってある。
『Stage 高校生脚本部門 年間順位』
一位――とおる。
二位――冬木静。
その名前には見覚えがあった。高校演劇の全国大会で、二年連続の最優秀脚本賞。投稿サイトでも、長く高校生部門の一位にいた書き手。
去年、俺が初めて抜いた相手だ。
「冬木静」
「知っているのね」
「名前だけは」
「私は、昨日あなたの名前まで確かめたわ」
静は『空白の部屋で、朝を待つ』をファイルへ戻した。
「どうやって」
「あなたの学校の演劇部が、『とおる』の脚本を全国大会へ出すと発表していた」
「それで?」
「昨日、顧問へ見学を申し込んだの。全国大会へ出る脚本を研究したいと言って」
閉じたノートの上で、俺の指が止まった。
「部室にいたのか」
「後方の見学席に」
「見なかった」
「あなたは橘日向しか見ていなかったから」
否定しかけて、やめた。事実だった。
「それで、如月透まで分かったのか」
「橘日向が、あなたを『如月くん』と呼んだでしょう」
「名字だけだ」
「見学が終わったあと、顧問に最後列の部員の名前を訊いたわ」
静は、何でもないことのように言った。
「顧問が教えたのか」
「在籍部員の名前を一人訊いただけよ。理由までは話していないわ」
静はファイルから一枚の紙を取り出した。印刷物ではない。細い字で、数行だけ書き写されている。
『アキは相手を責めていません。
返事がないことを、もう知っています。
最後の言葉で相手を追わず、声をその場へ置いてください』
改行の位置まで、昨日の演出指示とそっくり同じだった。
「部の資料を持ち出したのか」
「稽古中に、自分のノートへ写しただけよ」
「なぜ、これを」
「作者を探すため」
静は紙をテーブルへ置いた。
「作者から指示が届く前に、あの場面の失敗を理解していたのが、あなた一人だった」
「演技を見れば分かる」
「そうかもしれない」
静はあっさり認めた。
「だから、それだけでは決めなかった」
紙の横へ、人差し指を置く。
「橘日向が台詞を言っている間、あなたは右手で間を取っていた。最後の一音が相手を追ったときだけ、指が止まった」
「音楽をやっている人間なら、同じことをする」
「ええ。音に敏感な部員かもしれない」
静の指が、次の行へ移る。
「でも、橘日向に『作者と同じことを言う』と指摘されたとき、あなたは自分から否定した」
喉の奥が乾いた。
「『俺は作者じゃない』」
静が、昨日の俺の声をそのままなぞる。
「彼女は、あなたを作者だなんて言っていなかったのに」
「聞き間違いだ」
「だから今日、最後の確認をしたの」
静は『空白の部屋で、朝を待つ』の表紙を、指の背で軽く叩いた。
「一語だけ変えて読んだ」
反論できなかった。
静は最初から正体を知っていたわけではない。疑い、証拠を並べ、最後の一つだけを俺自身に答えさせた。順序が組まれていた。
「どうして、ここが分かった」
「学校を出るところから、ついてきたの」
静は、これも何でもないことのように言った。
「声をかければよかっただろ」
「部室へ行かず、何をするのか見届けたかったから」
俺は閉じたノートを手のひらで覆った。
「勝手に見るな」
「読める距離には近づいていないわ」
「尾行はいいのか」
「競争相手を調べるためなら」
「俺は競っていない」
「一位の人間は、よくそう言うわね」
静は椅子へ深く座り直した。
「安心して。誰かに知らせるつもりはない」
「何が目的だ」
「確かめたかったの」
「何を」
「私が、誰に負けたのか」
静は黒いファイルから、見学者用に渡された『透明な境界線』を取り出した。ほかの作品よりも、付箋が明らかに多い。青。赤。黄色。
最後の数ページだけ、何も貼られていなかった。
「この脚本は強いわ」
静は言った。褒めているようには聞こえなかった。
「アキが声を失っていく順序が、台詞の数ではなく、返事を待つ時間で作られている。私には、この書き方はできない」
「なら、確認は終わっただろ」
「まだよ」
静は終幕のページを開いた。
アキが、去っていく相手の背中へ最後の台詞を置く場面。相手は振り返らない。アキも追わない。一人だけが舞台に残る。
「ここまでは、二人とも選んでいる」
静が言った。
「去る側は、振り返らないことを選ぶ。アキは、返事がないと知っていて声を出す」
「それが何だ」
「そのあと、書いた人間の視線だけが舞台の外へ逃げている」
俺は静を見る。
「脚本に作者は出ない」
「出ろとは言っていないわ」
「なら、何が不満なんだ」
「終幕で、アキの選択を見届けていない」
静は最後のト書きを指で押さえた。
『暗転。』
「ここで急に暗くする必要がない」
「終わったからだ」
「アキは残っている」
「台詞は終わった」
「だから?」
静の指が、その二文字から動かない。
「台詞が終わったあと、その子が舞台でどう立っているのか。あなたは書かなかった」
「演出に任せた」
「昨日は、演出に任せられなくて指示を送ったでしょう」
言葉に詰まった。
「それとこれは別だ」
「そうかもしれない」
静はまた、簡単に認めた。認めた上で、引かない。
「だから、確かめたい」
鞄から白い原稿用紙を一枚取り出し、俺の前へ置く。何も印刷されていない。枠だけがある紙だった。
「一ページでいい」
「何を書く」
「今日、あなたが部室へ行くのか。行かないのか」
「そんなものは脚本じゃない」
「作品へ入れろとは言っていないわ」
静はペンを一本、原稿用紙の上へ横たえた。
「私に見せるための一ページでいい」
「なぜ、そんなものを」
「昨日、あれだけ稽古を見ていたあなたなら、今日も行くと思ったわ」
「行く理由がない」
「橘日向に、明日も見ていてと言われたのに?」
「返事はしていない」
「それで、二駅離れた図書館まで逃げてきた」
「逃げてない」
「なら、書けるでしょう?」
静は原稿用紙の一行目を指で叩いた。
「行かない理由を」
「必要ない」
「書けない?」
「必要がないと言った」
「同じではないわ」
静の声は、最初から一定だった。けれど、黒いファイルを押さえる指には、少しだけ力が入っている。付箋が一枚、押されて曲がった。
この人は、俺を助けに来たわけではない。弱点を教えたいわけでもない。負けた相手が次も自分を上回るのかどうか、それだけを確かめに来ている。まだ負けを飲み込んでいないのだ。
「私は、あなたに負けた理由を知りたい」
静が言った。
「人の痛みを書くことだけが、あなたの強さなのか。それとも、自分が選ぶ場面まで書けるのか」
「勝手な話だ」
「競争相手は、いつも勝手よ」
「俺は競っていない」
「なら、一位を返して」
「順位は俺が決めたものじゃない」
「そういうところが嫌い」
初めて、静の声に温度が混じった。それもすぐに引いていく。
「書かないなら、それでもいいわ」
俺は原稿用紙を静の方へ押し返した。
「断る」
「分かった」
静は紙を受け取らなかった。
「作者の事情で、作品を変えるつもりはない」
「作品を変えろとも言っていない」
「同じだ」
「違うわ」
「何とでも言え」
静は『透明な境界線』をファイルへ戻し、椅子から立ち上がった。
「では、あなたには聞かないことにする」
「それでいい」
「橘日向に聞くわ」
気づけば、俺も立ち上がっていた。椅子の脚が床を擦り、閲覧室の静けさを裂く。近くの利用者が、迷惑そうにこちらを見た。
静は声を落とした。
「何を聞くつもりだ」
「昨日の台詞を、誰に向けて言ったのか」
「アキが相手役に言った」
「脚本上はね」
静は鞄を肩へ掛ける。
「でも、演じ終えた橘日向は、相手役ではなくあなたを見た」
「偶然だ」
「本人に確かめる」
「必要ない」
「なぜ?」
「稽古の邪魔になる」
「あなたは行かないのでしょう?」
答えられなかった。
静が閲覧室の時計を見る。
「まだ間に合うわね」
出口へ向かって歩き出す。
俺はその背中を見ていた。
追えば、部室へ戻ることになる。日向が「明日も見てて」と言った、あの場所へ。
行かなければ、静は一人で日向に会う。俺が「とおる」だと明かすとは言っていない。ただ、昨日の台詞を誰へ向けたのか聞くだけだ。
それでも、日向が何と答えるのかを、静だけが聞く。
それは嫌だった。
理由を考えるより先に、俺は鞄を掴んでいた。
静に要求された一ページには、何も書かなかった。代わりに、彼女のあとを追った。
隠れ続けるために。
日向の前へ戻ることを、自分で選んだ。




