第2話:幽霊は、女優の声を直す
翌日の放課後も、橘日向は俺の台詞を間違えていた。
「『どうして私を見てくれないの!』」
声が部室の壁を打ち、天井の梁で跳ね返ってくる。昨日より強い。腹の底から押し出された怒りが、最後の一音まで相手の背中を追いかけていた。
「止めて」
演出を担当する部長が、客席代わりのパイプ椅子から立ち上がった。
「橘、今のだとまだ弱い。もう少し溜めてから、一気に出そう」
日向は舞台中央で肩を上下させていた。額に張りついた前髪を払い、手の中の台本へ目を落とす。
「でも、この子、爆発したいんでしょうか」
「したいから、こんな台詞を言うんでしょ」
「昨日から読んでるんですけど、叫べば叫ぶほど、アキから離れていく気がします」
「気がする、では演出にならないよ」
部長の声に、わずかな苛立ちが混じった。
「全国大会まで時間がない。作者から細かい指定も来ていないんだから、こっちで再現できる形にしないといけない」
日向は口を閉じた。反論を諦めた顔ではなかった。伏せた視線が、台本の同じ一行を何度も往復している。
俺は部室の一番後ろに座っていた。全国大会用の稽古は、在籍部員なら見学できる。開始してから静かに扉を開け、最後列の空いた椅子へ腰を下ろした。三年間ほとんど顔を出さなかった幽霊部員に、何人かが振り返る。それも一瞬だった。部長が何も言わなかったので、視線はすぐ舞台へ戻っていく。それだけだった。誰も、俺がここにいる理由を訊かない。
膝の上にはスマートフォンがある。画面には、採用作者用の匿名連絡フォームが開かれていた。昨夜、ノートの一行を送信用に整えた文章が、送信されないまま残っている。
『第二幕十七頁。
アキは相手を責めていません。
返事がないことを、もう知っています。
最後の言葉で相手を追わず、声をその場へ置いてください』
送信ボタンには、まだ触れていない。
昨日、脚本の上演を選んだ。だからといって、俺自身が稽古へ介入すると決めたわけではない。脚本は渡した。あとは演出担当と役者の仕事だ。そう線を引いてしまえば、ここで黙っていられる。
「もう一度、やらせてください」
日向が言った。
部長が腕を組む。
「さっきと同じなら、先に次の場面へ進むよ」
「同じにはしません」
「どう変えるの?」
日向はすぐには答えなかった。舞台の中央で、足の位置を半歩だけ変える。相手役の立つ場所を見ない。顔を伏せたまま、息を吸った。
「怒らないで、やってみます」
「感情を消すのとは違うからね」
「分かっています」
日向は台本を閉じた。閉じたまま、左手に持つ。台詞はもう覚えているらしい。
「お願いします」
相手役の部員が、日向に背中を向ける。場面が始まった。
日向は、すぐには話さなかった。昨日より長い沈黙。その間に、部長がわずかに身じろぎする。
日向の唇が動いた。
「どうして私を見てくれないの」
声は小さかった。昨日までの怒鳴り声とは、まるで違う。
けれど、最後の「の」だけが相手の背中へ伸びた。まだ追っている。まだ、返事を待っている。
「止めて」
部長が言った。
「声を落とす方向は悪くない。でも、それだと単に元気がなくなっただけに見える」
日向の指が、閉じた台本を強く掴んだ。
「もう一回――」
「次へ進もう。ここだけに時間を使えない」
「でも」
「本番で一度しか出せない演技は、演出として使えない。全体を通してから戻る」
日向は舞台の上で動かなかった。次の場面へ移る部員たちが、彼女の脇を通り抜けていく。小道具が運ばれ、椅子が置き直される。稽古の時間は前へ流れていくのに、日向だけが第二幕十七頁に取り残されていた。
俺はスマートフォンを見た。
今、送ればいい。作者の指示としてなら、部長も無視できない。稽古も先へ進む。
ただし、昨日まで何ひとつ送ってこなかった作者が、稽古の止まった直後に、止まったその一行についてだけ指示を出す。誰かが気づくかもしれない。作者は、いま稽古を見ているのではないか。この部屋の中か、少なくとも近くにいるのではないか。そう疑われる。
それでも、送れば日向の声を直せる。俺が書いた通りに。
これは日向を助けるためではない。作者として、間違った演技を直すだけだ。
自分にそう言い聞かせて、俺は送信ボタンを押した。指は勝手に動いてくれなかった。押せば何が起きるかを全部数えた上で、それでも押した。
部室前方の机で、共有端末が短く鳴った。
部長が振り返る。
「何?」
舞台監督の部員が画面を確認した。
「作者用フォームから連絡です」
「誰から?」
「脚本家の、とおるさん」
部室の空気が変わった。移動していた部員たちの足が止まる。小道具を抱えたまま、誰もが端末のほうを見た。
日向が舞台から降りた。
「見せてください」
「待って。先に印刷するから」
部長が共有端末の前へ移動する。
俺はスマートフォンの画面を消し、膝の下へ伏せた。手のひらが汗ばんでいた。
プリンターが低く唸り、紙が一枚、ゆっくり吐き出される。
部長は最初に自分で読み、それから日向へ渡した。
日向は両手で受け取った。紙の上へ視線を落とす。
「アキは、相手を責めていません」
声に出して読む。
「返事がないことを、もう知っています」
そこで、日向の目が止まった。
昨日、彼女が何度も手を伸ばして届かなかった場所だった。
「最後の言葉で相手を追わず、声をその場へ置いてください」
読み終えても、日向はすぐには顔を上げなかった。
部長が紙を横から覗く。
「なるほどね。感情を内側に溜めて、最後まで抑える形なら――」
「違います」
日向が言った。
部長が眉を上げる。
「何が?」
「溜めて、最後に出すんじゃないと思います」
「作者は、声を置けと言っている」
「だから、相手へ渡さないんです」
日向は紙を胸の前に持ったまま、舞台へ戻った。
「もう一度、この指示だけでやらせてください」
「私の演出は?」
「一度だけ、今の演出を外してやらせてください」
部室が静かになった。
部長の顔から、苛立ちが消える。代わりに、演出家の目で日向を見た。
「作者の指示を選ぶってこと?」
「はい」
「失敗したら、次へ進むよ」
「分かりました」
日向は舞台中央へ立った。台本も、印刷された紙も持たない。
相手役が背中を向ける。日向はその背中を見た。すぐに目を伏せる。
息を吸う。さっきより浅い。声を出すためではなく、口を開くためだけの息だった。
「どうして私を見てくれないの」
言葉が、相手へ飛ばなかった。
日向の足元へ落ちた。
返事を求めない。追いすがらない。責めてもいない。ただ、誰にも渡せなかった事実だけが、舞台の上へ置き去りにされた。
誰も動かなかった。窓の外で運動部の掛け声が上がり、遠くで笛が鳴る。校舎の外は普段どおりに回っているのに、部室の中だけが、その台詞のあとから抜け出せずにいた。
俺は膝の上で、右手の人差し指を止めていた。日向が声を置いたのと、同じ場所で。
「……今の」
部長がゆっくり息を吐く。
「もう一度できる?」
日向は答えなかった。相手役の背中を見ている。
やがて、首を横に振った。
「今のは、私が分かってやった演技じゃありません」
「でも、作者の意図には合っていた」
「同じことをもう一度やれと言われても、できません」
日向は舞台の床へ視線を落とした。
「作者の言葉を借りただけだから」
部長は腕を組み直した。
「本番で再現できなければ使えない。それは分かってるね」
「はい」
「なら、今の方向を固定して練習する」
「固定は、まだしないでください」
「橘」
「もう一度、自分で辿り着きたいです」
日向は部長をまっすぐ見た。
「次は、借りたままにしません」
部長はすぐには返事をしなかった。手元の印刷された指示へ目を落とし、それからもう一度、日向を見る。
「分かった。この場面は今日はここまで。明日、ここから始めよう」
「はい」
稽古は次の場面へ進んだ。舞台上の配置が変わり、照明の位置が直される。
日向は舞台袖へ下がりながら、部室の中をゆっくり見回した。
部長。舞台監督。相手役。小道具係。一人ずつ確かめるように、視線が動いていく。
俺のところまで来る前に、俺はノートへ目を落とした。何も書かれていない白いページを見つめる。視線が通り過ぎるのを待った。
けれど、通り過ぎなかった。
「如月くん」
橘日向が、俺の名前を呼んだ。
ペン先が、白い紙の上で止まった。
三年間、一度も呼ばれなかった名前だった。返事が遅れた。
「……何?」
顔を上げる。昨日まで一方的に見ているだけだった相手が、まっすぐこちらを見ていた。
「今の、どうだった?」
「どうして俺に聞くの」
「ずっと見てたから」
心臓が一度、強く鳴った。
「部室にいたから、見てただけだ」
「そうじゃなくて」
日向は自分の右手を持ち上げた。人差し指を、小さく曲げてみせる。
「私が台詞を言ってる間、如月くん、指で間を取ってた」
俺は膝の上の右手を握った。
「癖だよ」
「音楽、やってるの?」
「少しだけ」
「何を?」
「今は関係ないだろ」
日向の目が細くなる。疑っている。けれど、正体へ届いた顔ではない。昨日まで背景だったものの中に、説明のつかない動きを一つ見つけた。そういう顔だった。
「今の台詞」
日向が言う。
「最後、追いかけてなかった?」
「追ってなかったと思う」
「作者と同じことを言うんだね」
「見れば分かる」
「部長とは違うことを言うんだね」
「俺は作者じゃない」
言ってから、早すぎたと思った。
日向が、一度まばたきをした。
「作者だなんて言ってないよ」
部室の音が、少し遠くなった。
「……そう」
「うん」
日向は俺の顔を見たまま、わずかに首を傾けた。何かを言いかけて、やめたようにも見えた。それ以上は追及しない。
舞台のほうから名前を呼ばれ、日向が振り返る。数歩進んでから、足を止めた。
「如月くん」
もう一度、名前を呼ぶ。
「明日も見てて」
返事を待たず、日向は舞台へ戻っていった。
俺は白いノートへ目を落とした。
匿名の作者として、日向の声を直した。「とおる」が誰かは、ひとことも明かしていない。昨日決めた通りにやり遂げたはずだった。
それなのに日向は、作者ではなく、如月透へ明日の稽古を見てほしいと言った。
透明なまま、彼女の声だけを動かす。そのつもりだった。
けれど、最初に動いたのは彼女の視線のほうだった。




