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第1話:透明な作者の、最初の台詞

 橘日向が、俺の台詞を間違えていた。


「『どうして私を見てくれないの!』」


 閉じた扉の向こうから届いたその声は、廊下の突き当たりまで一直線に伸びていった。上手い、と思う。腹の底から立ち上げて、途中で細らせず、最後の一音まで支えきる声だ。客席の最後列に座っていても、この子の言葉だけは聞き取れるだろう。

 だからこそ、違う。

 その台詞を口にする少女には、もう叫ぶ力は残っていない。三年かけて少しずつ声を失って、最後に一度だけ、遠ざかる背中へ落とす言葉だ。届かせるための声ではない。落とすための声だ。


 俺は扉に手をかけないまま、廊下の壁へ背中を預けた。冷えたコンクリートが、シャツ越しに背骨をなぞる。右手には、一枚の紙。


 演劇部脚本採用辞退届。


 脚本名の欄には『透明な境界線』、作者名の欄には「とおる」とだけ書いてある。空いているのは、いちばん下の署名欄だけだ。如月透、と三文字を書き込めば、それで終わる。


 全国大会用の脚本は、毎年、校内公募で決められる。審査のあいだ作者の実名は伏せられ、応募票を管理する顧問だけが本名を知っている。俺は匿名脚本投稿サイト『Stage』で使っている筆名のまま、この脚本を出した。採用された作者が当日の午後六時までに辞退届を出さなければ、応募時の上演許諾がそのまま確定する。

 廊下の時計は、五時五十分を指していた。


「……違うな」

 扉の向こうで、日向が呟いた。今度は台詞ではない。素の声だ。

「怒ってるだけじゃない気がする」

 紙をめくる音がした。それから、たっぷり呼吸ひとつ分の間。

「『どうして私を見てくれないの』」

 音量を落としただけだった。芯はまだ強い。見てくれなかった相手を責める声のまま、ただ小さくなっている。

「でも、じゃあ、どう言えばいいんだろ」


 誰に聞かせるでもなく、日向は言った。

 答えなら知っている。その台詞を書いたのは、この壁にもたれている人間だ。


 如月透は、演劇部の部員である。ただし、名簿の上でだけ。

 一年の春に入部届を出して、それきり稽古には一度も行っていない。部長は人数を数えるとき俺を飛ばすし、後輩の何人かは、俺が同じ部の人間だということすら知らないだろう。

 俺が部室に入るのは、いつも全員が帰ったあとだった。誰もいない部屋で古いグランドピアノの蓋を開け、音の長さに台詞を重ねていく。どこで息を吸うのか。どこで飲み込むのか。どれだけ沈黙を置けば、目に見えない感情が舞台の上に残るのか。それだけを確かめて、誰にも会わずに帰る。三年間、それで足りていた。楽だった、と言い換えてもいい。


「もう一回」

 床板が鳴る。日向が立ち位置に戻ったのだ。

「『どうして私を見てくれないの』」


 さっきより遅い。ほんの少しだけ、正しい方向へ動いた。それでも、まだ違う。この声は、言葉が相手へ届くと信じている。

 アキは、もう信じていない。


 俺は辞退届を握り直した。指の跡がついて、角が柔らかく折れる。

 この紙を顧問室の提出箱へ落とせば、『透明な境界線』は上演されない。顧問室までは歩いて二分。署名の時間を入れても、まだ十分に間に合う。もともと、そのためだけに学校へ戻ってきたのだ。

 採用通知を開いたとき、最初に浮かんだのは喜びではなかった。主演予定者の欄に、橘日向の名前があった。よりによって、彼女だった。


「この作者、何を見て書いたんだろ」

 扉の向こうで、日向が言った。

「アキのこと、すごく分かってるのに」

 また、紙をめくる音。

「最後の台詞だけ、分からない」


 それでいい、と自分に言い聞かせる。分からないままでいてくれるなら、こちらも安心して辞退できる。


 三年前の文化祭で、まだ中学生だった彼女の舞台を見た。演じていたのは、恋人に捨てられる女の役だった。台詞そのものはありふれていた。よくある別れ話の、よくある言葉。それなのに日向が口にした途端、その女が捨てられるまでに飲み込んできた言葉まで、客席に聞こえた気がした。

 見えないものにも、形はある。言葉にすれば、誰かへ渡せる。

 あの舞台を見た夜から、俺は脚本を書き始めた。


 以来、三年間、同じ学校にいた。同じクラスになった年もある。それでも、日向に名前を呼ばれたことは一度もなかった。

 彼女が俺を見なかったからではない。俺のほうが、見つからない場所を選び続けたからだ。教室のいちばん後ろの窓際。稽古の始まらない時間の部室。誰もいなくなった夜の校舎。

 見つからないように立ち回っておきながら、見つけてもらえなかったことだけは、ずっと覚えている。我ながら、身勝手な話だと思う。


「……この子」

 日向が息を吐いた。

「もう、相手を責めたいわけでもないのかな」

 辞退届の端を掴む指に、勝手に力が入った。

 近づいた。まだ正解ではない。それでも、初めてこちらへ一歩踏み込んできた。

「だったら、何のために言うんだろ」


 それを知る必要はない。俺のことを何ひとつ知らないまま、正しく演じてくれればいい。脚本家の正体も、台詞の出どころも、誰へ向けて書かれたのかも、舞台には要らないものだ。

 これは日向へ何かを伝えるためではない。採用された脚本を、書かれたとおりに上演させるためだ。作者として当然の仕事にすぎない。何度も自分へそう説明した。


 扉の向こうで、日向がまた最初の姿勢に戻る気配がした。

「もう一回だけ」


 残り、七分。

 俺は胸ポケットからペンを抜いた。辞退届を壁へ押し当て、署名欄の上でペン先を構える。あとは手首を動かすだけだった。


「『どうして私を見てくれないの』」

 声はさらに落ちていた。けれど、最後の一音だけが、相手を追いかけて伸びた。

 違う。そこは追わない。届かないと知っていて、それでもこぼれてしまう言葉だ。

 紙を閉じる音がした。

「駄目だ」

 悔しさの滲んだ声だった。

「近いと思うのに」

 ペン先が、紙から離れた。

 俺は辞退届を、真ん中から破った。乾いた音が、静かな廊下に短く響いた。

 扉の向こうで、気配が止まる。

「……誰かいる?」


 扉が開くより早く、俺は廊下の角へ退いた。

 日向が顔を出す。左右を見回す。俺の位置からは、横顔だけが見えた。手には『透明な境界線』の台本。ページの端が、繰り返しめくられて柔らかく波打っている。


「気のせいか」


 扉が閉まり、少ししてまた開いた。鞄を提げた日向が出てくる。今度は振り返らず、廊下の向こうへ歩いていく。

 その背中が階段の先へ消えるまで、俺は動かなかった。


 破った辞退届は、二枚のまま鞄へ押し込んだ。新しい用紙なら顧問室にある。走れば、まだ間に合う。

 俺は走らなかった。

 廊下の時計を見上げる。午後五時五十九分。秒針が、文字盤の頂点へ静かに近づいていく。

 あと十秒。九秒。八秒。

 足は動く。行こうと思えば、行ける。それでも俺は、時計の真下から一歩も動かなかった。

 三秒。二秒。一秒。

 午後六時。秒針が真上を越えた。


 これで、『透明な境界線』の上演許諾は確定した。橘日向が、俺の書いたアキを演じる。

 紙を破ったからではない。時間が足りなかったからでもない。止められる最後の一秒まで立ち会って、それでも止めなかった。

 俺が選んだのだ。彼女がまだ台詞を掴めていないと知りながら、それでも舞台へ立たせることを。


 誰もいなくなった部室の扉を、俺は開けた。

 中央には、さっきまで日向が立っていた場所だけが、床の色の違いのように残っている気がした。

 グランドピアノの前へ座り、鍵盤に指を置く。日向が何度も外した台詞を、音へ置き換えていく。最初の音は高すぎた。次は強すぎた。一音ずつ余分な力を削ぎ落としていくと、最後にはほとんど響かない単音だけが残った。

 これだ。


 ノートを開き、台詞を書き写す。

『どうして私を見てくれないの』

 その下へ、演出担当に伝えるための一行を足した。

『相手を責めない。返事がないことを、もう知っている声で』


 そこまで書いて、ペンを止めた。

 匿名の作者として送ればいい。日向に近づく必要はないし、俺自身が見つかる必要もない。間違った演技を、作者として直すだけだ。それ以上ではない。


 ノートを閉じる。

 明日、日向はまた俺の台詞を読む。そして、たぶんまた間違える。

 そのときは、俺が直す。

 姿を見せずに。

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