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第20話:明かりの外から

 開場五分前、照明卓の時計は午後三時五十五分を指していた。


 客席には、まだ誰もいない。舞台の上には、第一幕で使う机と椅子が置かれている。袖幕の奥から、衣装の布が擦れる音と、部員たちが声を抑えて確認し合う音が聞こえた。


「照明、最終確認」

 部長が客席の中央から言った。

「はい」

「一番から三番まで」

 操作盤のボタンを押す。

 舞台全体を照らす明かり。机の周囲だけを残した明かり。終幕で使う、舞台右側の薄い明かり。

 一つずつ点け、消していく。

「問題なし」

「音響」

「問題ありません」


「小道具」

「配置、確認済みです」

「衣装」

「全員着替え終わっています」

 舞台袖から返事が続く。

 俺の前には、昨日書き直した照明変更表がある。

 第二幕の十七番。昨日までは、

『相手役の退場前、二秒待って照度を落とす』

 と書いていた。

 今は違う。


『椅子から手が離れたら、照度を落とす』

 何を考えているかではなく、舞台上で起きたことを合図にした。

「開場します」


 部長の声が飛ぶ。

 客席後方の扉が開いた。話し声と足音が入ってくる。

 最初に入った客が、舞台上の机と椅子を見た。次の客がその横を通り、中央の席へ座る。少しずつ、空席が埋まっていく。


 俺を見上げる客はいなかった。照明卓は客席の後ろにある。舞台を見るために入ってきた人が、わざわざ振り返る場所ではない。


「如月くん」

 横から呼ばれた。静が客席の最後列に立っていた。手には自分の台本ではなく、今日の上演台本を持っている。

「そこから見るの?」

「ええ」

「席、空いてるけど」

「ここでいい」

 静は照明卓の変更表へ目を落とした。

「今日は、作者には聞けないわね」


「本番中は答えられない」

「照明だから?」

「照明だから」

 静は一度だけ舞台を見た。

「その方がいい」

 それ以上は言わず、最後列の端へ移った。

 開演一分前。客席の話し声がまだ残っている。

 部長が後方の扉を閉めた。

「全員、位置について」


 舞台袖の音が止まる。

 俺は客席の明かりを半分まで落とした。話し声が小さくなる。さらに落とす。客席が暗くなり、舞台上の机と椅子だけが薄く浮かんだ。


「始めます」

 部長の声が、照明卓まで届いた。

 音響係が最初の音を入れる。俺は一番の明かりを点けた。


 舞台袖から日向が出てくる。客席にいたときとは違う歩き方だった。舞台中央まで進み、机の前で止まる。最初の台詞を言う。

 相手役が反対側から入った。二人の会話が始まる。


 稽古で何度も聞いた台詞だった。けれど、客席があるだけで、言葉の間に別の時間が生まれていた。

 短い台詞のあとに、客席のどこかで息を吸う音がする。相手役が椅子へ近づくと、最前列の客が少しだけ身体を起こした。


 誰も、台詞の意図を確認しない。誰も、作者の答えを待たない。

 日向が言葉を置き、相手役が受け取る。その結果だけが舞台に残った。

 第一幕が終わる。音が切れた。日向が舞台袖へ入る。

 俺は、最後に残った明かりを落とした。

 暗転。

 客席から、小さく息が戻る音がした。


 転換が始まる。小道具係が暗い舞台へ入り、机の向きを変える。相手役が椅子を運ぶ。衣装係が舞台袖で日向の上着を外している。

 昨日まで、衣装替えには時間がかかっていた。今日は、留め具が一つ減らされている。

 音響係が短くした前奏を入れる。予定より早く、日向が舞台袖の位置についた。


「第二幕、準備完了」

 部長の声。俺は次の明かりを点けた。

 第二幕が始まる。削った五行は戻っていない。

 相手役は、最初の二行を言う。日向が返す。最後の一行まで、会話は止まらない。


 相手役が椅子から立ち上がった。

 俺は十七番のボタンへ指を置く。

 相手役が椅子の背に触れる。一度、机の中へ押し戻しかける。止める。

 昨日の稽古より、わずかに長かった。俺は押さない。

 相手役の指が、椅子の背から離れた。

 十七番を押す。舞台の明かりが少し落ちた。

 日向は、手が離れてから台詞を言った。客席の誰かが、短く息を吸った。


 相手役が舞台袖へ去る。途中の位置に残った椅子だけが、日向の隣にある。

 日向は椅子を見なかった。正面を向いたまま、次の台詞を言う。

 照明変更表には、日向が何を考えているかは書かれていない。見る必要もなかった。

 次の合図は、日向が机から手を離すことだった。

 日向の手が動く。机の端から離れる。

 俺は明かりを切り替えた。舞台の右側だけに光が残る。日向がその中を歩いた。


 第一幕よりも、客席が静かだった。

 静かだから成功しているとは限らない。退屈しているのかもしれない。言葉が届いていないのかもしれない。照明卓からは、客一人ずつの顔まで分からない。

 俺に分かるのは、舞台上で次の動きが起きたことだけだった。それで操作する。それ以上の意味は、今は決めない。


 第三幕。

 衣装係が袖から日向の襟を直す。小道具係が使い終わった封筒を受け取る。音響係が次の音を待つ。相手役が、暗い袖の中で自分の台詞を口の形だけで確認している。

 全員が、それぞれの場所にいた。舞台上に出る人間だけが、上演を作っているわけではなかった。


 終幕が近づく。

 相手役が、第二幕で途中までしか戻さなかった椅子の前へ立つ。椅子の背に手を置く。今度は、机の中まで押し戻す。

 客席からは、何も聞こえなかった。


 相手役が手を離す。日向が椅子を見る。すぐには動かない。

 昨日まで、終幕の間は十二秒だった。短縮を話し合ったときも、ここだけは削らなかった。

 十秒。十一秒。

 日向はまだ動かない。

 十二秒。

 稽古なら、次の動作へ進んでいる。

 部長が客席中央から舞台を見ている。音響係の手は、再生ボタンの上で止まっている。

 俺も待った。照明変更表には、

『日向が椅子へ手を置いたら、終幕の明かり』

 と書いてある。秒数ではない。


 日向が一歩進む。椅子の前で止まる。手を伸ばす。背に触れる。

 俺は終幕の明かりを入れた。淡い光が、日向と椅子を包む。

 日向が最後の台詞を言った。

 相手役は答えない。答えないまま、舞台の端に立っている。

 日向が椅子から手を離した。音響係が最後の音を入れる。

 俺は明かりをゆっくり落とした。日向の顔が見えなくなる。椅子の輪郭が消える。舞台全体が暗くなった。

 何も見えなくなってから、一秒だけ音が残った。音が切れる。

 暗転。


 部長がストップウォッチを止めた。

 すぐには何も起きなかった。客席も、舞台袖も動かなかった。

 そのあとで、拍手が始まった。最初は一か所だった。別の場所から重なる。客席全体へ広がっていく。

 俺はカーテンコールの明かりを点けた。

 日向と相手役が舞台へ出る。二人が並び、頭を下げる。ほかの出演者も出てくる。拍手が続く。


 日向が顔を上げた。客席を見たあと、その視線が後方へ移った。照明卓の方角だった。

 何を見たのかは分からない。俺を見るためだったのかも、部長の合図を確認しただけなのかもしれない。

 確かめる必要はなかった。俺には、次の操作がある。

 カーテンコールの明かりを落とす。客席の明かりを上げる。舞台から出演者が袖へ戻る。

 部長が照明卓の横まで来て、ストップウォッチの表示を俺に見せた。

 五十九分五十二秒。

「八秒」

 部長が言った。

「収まりました」

「終幕、長かった?」


「稽古より三秒」

「削らなくてよかった」

 部長は表示を消した。


 客席では、立ち上がった人たちが出口へ向かっている。舞台の感想を話す声が聞こえる。台詞の一部を口にする声もあった。

 照明について話している人はいなかった。


 静が最後列で台本を閉じた。こちらを見ることなく、舞台へ向かった。


 俺は操作盤の確認を続けた。一番から順に、使った明かりを消していく。

 舞台の上からは、照明卓の位置が見える。それでも、舞台を見に来た人のほとんどは、最後まで俺を見なかった。


 舞台を照らした明かりの外で、俺は最後の明かりを落とした。

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