第21話:背景の君に、花束を
客席から最後の一人が出ていくと、部長が後方の扉を閉めた。
舞台には作業用の明かりが点いている。机は舞台袖へ運ばれ、椅子だけが中央に残っていた。第二幕で途中まで戻され、終幕で元の位置へ戻った椅子だった。
「今日は、反省会をしません」
部長が舞台の前に立った。出演者と部員たちが客席の前方へ集まっている。日向と相手役は衣装から制服へ着替えていた。
「感想も質問も、明日以降にします。今は片づけを優先してください」
相手役が手を挙げた。
「明日も質問していいんですよね」
「もちろん」
部長が答える。
相手役は照明卓を振り返った。
「聞きたいこと、まだあるから」
「分かった」
俺が答えると、相手役はそれ以上言わなかった。許したとも、納得したとも言わない。小道具係と一緒に舞台へ上がり、中央の椅子を持ち上げた。
「これ、倉庫でいい?」
「先に脚の確認をして」
「分かりました」
衣装係はハンガーを抱え、音響係はケーブルを巻いている。本番が終わっても、部員たちの仕事は終わっていなかった。
俺も照明変更表を開いた。使った照明の番号と、本番で変わった秒数を確認する。
終幕の間。稽古より三秒長かった。
変更表の余白へ数字だけを書く。日向がなぜ三秒待ったのかは、書かなかった。
「如月」
部長が照明卓の下から呼んだ。
「照明の終了確認が終わったら、鍵を返してください」
「はい」
「今日はそれで終わりです」
部長は舞台へ戻った。
俺は操作盤の主電源を切った。作業用の明かりだけが残る。一つずつ確認し、照明卓の引き出しを閉める。
昨日、質問を受けるために置かれていた椅子はない。それでも、聞かれることは残っている。今度は、椅子へ座らされなくても答えなければならない。
変更表と台本を鞄へ入れた。
階段を下りると、舞台の片づけはほとんど終わっていた。部員たちが道具を倉庫へ運んでいる。
客席の一列目には、花束が三つ置かれていた。受付へ届いていたものだった。
一つは演劇部全体へ。一つは出演者へ。もう一つには、日向の名前が書かれていた。
日向は自分宛ての花束を膝へ置き、包み紙の間から花を見ていた。
「橘、写真撮るよ」
衣装係が舞台から呼んだ。
「はい」
日向が花束を持って立ち上がる。舞台の前へ部員たちが集まった。出演者だけではない。部長、音響、小道具、衣装も並ぶ。
「如月も」
部長が言った。
「俺も?」
「部員です」
舞台へ向かいかけて、足を止める。全員がこちらを見ていた。
作者だから呼ばれたのか。照明だから呼ばれたのか。
その二つを分ける必要はなかった。
俺は舞台へ上がった。
中央には日向と相手役がいる。静は端に立っていた。俺がどこへ入るか迷っていると、小道具係が自分の隣を空けた。
「照明、ここ」
「ありがとう」
最後列の端に立つ。日向は前列にいる。
写真を撮る部員がカメラを構えた。
「もう少し詰めて」
肩が触れない程度に距離が縮まる。
「撮ります」
シャッターの音がした。一枚。
「もう一枚」
二枚目の直前、相手役が椅子を戻す動きをしてみせた。衣装係が笑い、小道具係がその肩を叩く。日向も笑った。
シャッターが切られる。その瞬間に何人が目を閉じていたのかは、まだ分からない。
「あとで送ります」
写真を撮った部員が言った。
全員が舞台から下りる。俺も客席へ戻ろうとした。
「如月くん」
静が舞台の端から呼んだ。手には、数枚の紙があった。
「何?」
「これ」
差し出された紙を受け取る。一枚目には題名がない。台詞が三つと、短い場面説明だけが書かれていた。
「脚本?」
「まだ違う」
静は紙の端を指で押さえた。
「今日の舞台を見て、書き始めた」
「今から?」
「終幕の途中から」
「舞台を見ながら書いてたの?」
「最初の三行だけ」
静は日向の方を見た。日向は衣装係と一緒に花束の包みを直している。
「今回は、先に聞いた」
「日向に?」
「書いてもいいか、とは聞いてない」
静が俺を見る。
「自分が見たことを書いてもいいかは、私が決める」
「じゃあ、何を聞いたの?」
「書いたものを読んでもらっていいか」
「日向は?」
「先に自分の答えを言うなら読むって」
日向らしい返事だった。
「如月くんにも、できたら読ませる」
「とおるとして?」
「如月透として」
静は紙から手を離した。
「感想は聞く。でも、答えは聞かない」
「分かった」
「まだ返して」
紙を取り返される。
「読ませるのは、書き終わってから」
静は鞄へ紙をしまった。
「今の三行は忘れて」
「もう読んだ」
「なら、書き直す」
静は舞台を下りた。出口へ向かう途中で日向に声をかける。二人の言葉までは聞こえなかった。
日向が何か答える。静は一度だけ頷き、先に稽古場を出た。
残った部員たちも帰り支度を始める。音響係がケーブルの箱を持ち、小道具係と相手役が倉庫の鍵を返しに行く。
部長は演劇部全体へ届いた花束を抱えていた。
「これは明日、部室に飾ります」
「枯れる前に写真撮りましょう」
衣装係が言う。
「今日撮ったでしょう」
「花だけの写真です」
二人の声が遠ざかる。
俺は照明卓の鍵を部長へ返した。
「お疲れさまでした」
「お疲れさまでした」
部長は鍵を受け取り、少しだけ間を置いた。
「質問に答えることと、全部を説明することは同じではありません」
「はい」
「分からないことは、分からないと言ってください」
「はい」
「明日からも部員として来てください」
「分かりました」
部長は花束を抱えたまま出口へ向かった。
稽古場に残っているのは、俺と日向だけになった。
舞台には作業用の明かりが点いている。客席の椅子は、すべて前を向いていた。
日向は自分宛ての花束を持ち、舞台の前に立っている。
「片づけ、終わった?」
「うん」
「照明も?」
「鍵を返した」
「じゃあ、今日はもう作者でも照明でもない?」
「部員ではある」
「そうだった」
日向が笑った。
花束には白い花と、薄い黄色の花が入っている。包み紙に、小さなカードが差してあった。
「誰から?」
「去年の卒業生の人たち」
「日向宛て?」
「アキを演じた人へ、って」
日向がカードを抜き、俺へ見せる。そこには役名と、短い感想が書かれていた。俺の名前はなかった。
「嬉しい?」
「うん」
日向はカードを花束へ戻した。
「でも、少し違うと思った」
「何が?」
「アキを演じたのは私だけど、私一人で舞台にいたわけじゃないから」
「出演者へ届いた花束もある」
「そうじゃなくて」
日向は花束を抱え直した。
「この脚本を書いた人も、照明をつけた人も、舞台からは見えなかった」
俺は答えなかった。
「第十七番、待ってくれたでしょう」
「手が離れるのが合図だったから」
「終幕も」
「椅子へ触れるのが合図だった」
「三秒長くても?」
「秒数では決めてなかった」
「うん」
日向は舞台を見た。
「私が止まっているあいだ、明かりが変わらなかった」
「触れてなかったから」
「それが嬉しかった」
理由を尋ねようとして、やめた。日向はもう、自分の答えを先に置いている。
「次に書くもの、決まってる?」
「まだ」
「私を見て書く?」
「分からない」
「見ないで書く?」
「それも分からない」
日向が俺を見る。
「じゃあ、決まってから聞いて」
「何を?」
「私から使いたいものがあったら」
「うん」
「でも、最初から私の答えに合わせて書かないで」
「どういうこと?」
「如月くんが先に書いて」
日向は言った。
「できたら、私が先に自分の答えを言う」
稽古のときに決めた順番だった。ただし、今度は今ある脚本の一場面ではない。まだ書かれていないものについての順番だった。
「演じてくれる?」
「それは、読んでから決める」
「そっか」
「選ばれたかったら、ちゃんと書いて」
「分かった」
日向が花束の包み紙へ指を入れた。一本だけ抜こうとして、止める。花束全体を見てから、俺へ差し出した。
「これ」
「日向に届いたものだろ」
「うん」
「受け取れない」
「全部あげるとは言ってない」
俺が花束を見る。
「持って」
「どうして?」
「一枚、撮りたいから」
日向がスマートフォンを取り出す。
「俺が花束を持って?」
「うん」
「日向が持って撮ればいい」
「私はさっき撮った」
「誰と?」
「みんなと」
「俺もいた」
「後ろに」
日向が言った。
「ずっと、そうだったから」
照明卓。客席の最後列。部室の窓際。
舞台にいる日向を、俺はいつも少し離れた場所から見ていた。
「真ん中に行けってこと?」
「違う」
日向は首を振った。
「そこにいて」
俺の後ろには、客席がある。舞台の明かりはもう消えている。作業用の白い明かりだけが、舞台と客席を同じ明るさにしていた。
「背景にいるままでいいの?」
「そこにいるって分かっていれば」
日向が花束をもう一度差し出す。
「だから、持って」
俺は花束を受け取った。包み紙が、小さく音を立てる。
日向は数歩下がり、スマートフォンを構えた。
「撮るよ」
「日向は入らないの?」
「あとで交代する」
「それだと別々になる」
日向が画面から顔を上げた。
「じゃあ、どうする?」
客席の前方に、部員たちが写真を撮るために使った台が残っていた。スマートフォンを置けば、二人とも写る。
俺がそれを指す。日向は頷いた。
スマートフォンを台へ置き、撮影時間を設定する。こちらへ戻ってくる。
「花束、真ん中にして」
「誰の?」
「私たちの間」
日向が花束の反対側を持った。
画面の数字が減っていく。
三。二。一。
シャッターの音がした。
写真を確認する。舞台は暗い。客席の前に、日向と俺が立っている。二人の間に花束がある。
俺は中央にはいなかった。日向も舞台にはいなかった。
「もう一枚撮る?」
日向が尋ねる。
「これでいい」
「目、閉じてない?」
「たぶん」
「確認しないの?」
「日向が見て」
日向は写真を拡大した。
「大丈夫」
「なら、いい」
日向が花束から手を離した。俺の腕に、重さが残る。
「それ、どうする?」
「日向へ返す」
「今は持っていて」
「いつまで?」
「外に出るまで」
日向は鞄を持ち、出口へ向かった。俺も花束を抱えて、そのあとを歩く。
稽古場を出る前に、作業用の明かりを消した。舞台も客席も暗くなる。
廊下へ出ると、日向が少し先で待っていた。
俺が追いつくと、日向は隣を歩き始めた。
腕の中で、花束が小さく揺れた。




