第18話:作者はここにいる
修正版を使った最初の全幕通しは、最後まで一度も止まらなかった。
日向が終幕の台詞を言い終える。相手役が振り返るまで、照明は変えない。最後の光が落ちたところで、部長がストップウォッチを止めた。
誰もすぐには動かなかった。
舞台袖では、音響係が再生機器へ手を置いたまま数字を待っている。衣装係は日向の上着の裾を直し、小道具係は終幕で使った椅子を持ち上げかけていた。
部長が表示を読む。
「六十一分二十四秒」
小道具係の手が止まった。
「一分二十四秒、超えてます」
「転換のずれも考えると、二分近く縮めたい」
部長はストップウォッチを机へ置いた。
本番の上演時間は六十分以内だった。今までの稽古では、場面ごとに止めながら確認していた。全幕を衣装、小道具、音響まで入れて通したのは今日が初めてだった。
「台詞を速くすれば入りますか」
相手役が尋ねる。
「終幕まで全部速くすることになる」
部長は台本を開いた。
「今残している間も削れる。橘が相手を待つところも」
日向は何も言わなかった。
最後の場面で、相手役が振り返るまで待つ時間。あそこを削れば、数秒は縮まる。けれど、間だけを削っても、二分近くには届かない。
「第二幕を削る必要があります」
部長が言った。部員たちが、それぞれの台本を開く。
「作者に、どこを切れるか聞きますか」
音響係が言った。
「台詞の意味がつながらなくなるところもあるし」
部長が俺を見る前に、俺は口を開いた。
「送らなくて大丈夫です」
何人かが顔を上げた。
「何が?」
小道具係が聞き返す。
「作者に連絡しなくて大丈夫です」
「でも、削るなら確認した方が」
「俺が書きました」
返事はなかった。言葉だけが、稽古場の中へ落ちた。
相手役が俺を見る。
「何を?」
「この脚本をです」
照明卓から立つ。机の上には、照明用の台本と記録が開いている。舞台には、俺が書いた台詞を演じていた部員たちがいる。
「『アキ』を書いた、とおるは、俺です」
衣装係が日向を見る。日向は俺から目を逸らさなかった。
静は驚かなかった。それで、静が以前から知っていたことに気づいた部員もいたらしい。何人かの視線が、俺と静の間を往復した。
「待って」
相手役が台本を持ち直した。
「如月が、作者?」
「はい」
「いつからここにいた?」
「最初からです」
「そうじゃなくて」
相手役は台本を指で叩いた。
「作者として、いつから稽古を見てたの」
「この脚本を提出してから、ずっとです」
「ずっと、俺たちの稽古を見てた?」
「はい」
相手役はすぐには次の言葉を出さなかった。
衣装係が尋ねる。
「じゃあ、照明のときに言ってたことも、作者の指示だったの?」
「照明として言ったことと、作者として考えていたことは、同じではありません」
「でも、どっちだったか、こっちには分からない」
「はい」
否定できなかった。
俺の中では分けていたつもりでも、部員たちはその区別があること自体を知らなかった。
相手役が台本を閉じる。
「今すぐ、どれがどっちだったのか整理できる気はしない」
「はい」
「作者として言ってたのか、同じ部員として言ってたのか」
「分かりました」
「分かったっていうか」
相手役は言葉を止めた。
部長は会話を遮らなかった。日向も、俺を弁護しなかった。
小道具係が日向を見る。
「橘は知ってたの?」
「数日前から知っています」
「数日前?」
「はい」
「知ってて、今日もこの脚本をやったの?」
「知ったうえで、この脚本で演じると決めました」
それ以上は言わなかった。俺を許したとも、問題が終わったとも言わない。自分が何を選んだかだけを伝えた。
部長が、机の上のストップウォッチを手に取った。
「この件は、今日ここで終わったことにはしません」
部員たちを見る。
「如月への質問も、確認したいことも、あとで時間を取ります」
そして表示を全員へ向けた。
「ただし、今決めなければならないことがあります」
六十一分二十四秒。
「このままでは、本番に出せません」
部員たちの視線が、ストップウォッチへ戻る。
「作者なら、どこを削る?」
相手役が俺に聞いた。
俺が台本を開きかける。その前に、日向が口を開いた。
「終幕の間は縮めたくありません」
全員が日向を見る。
「相手が振り返るまでのところ?」
部長が尋ねる。
「はい」
「理由は?」
「台詞を速くして六十分に入れると、アキが相手の答えを待てなくなるからです」
日向は台本を開く。
「削るなら、第二幕の最初の会話だと思います」
頁をめくり、一つの場面を示した。アキと相手役が、過去の出来事を確かめる会話。終幕で相手が戻る理由につながる場面だった。
日向が先に自分の答えを置いた。
俺は、そのあとで台本を見る。
「そこは八行あります。そのうち五行を削れます」
「どこを残す?」
部長が尋ねる。
「最初の二行と、最後の一行です」
該当部分を読む。最初の二行で、二人が以前同じ場所にいたことが分かる。最後の一行で、相手役がその場所へ戻る約束を破ったことが分かる。
「間の五行は?」
「出来事を台詞で説明しています。削れます」
相手役が頁を見た。
「でも、それだけだと、俺が戻ってきた理由が急に見えない?」
「可能性はあります」
「動きで出せるかもしれない」
相手役は舞台へ出た。第二幕で使う机の前へ立つ。
「この場面で、俺が椅子を戻すのはどうですか」
小道具係が顔を上げる。
「椅子?」
「前は、アキが使った椅子をそのままにして出ていく。でもここでは、一度戻してから出る」
相手役は椅子の背へ手を置いた。
「戻ってくるつもりが全然ないなら、こんなことはしないと思う」
日向が舞台を見る。
「最後に戻ってくる動きにもつながる」
「台詞で説明しなくても?」
部長が聞く。
「少なくとも、何もないよりは伝わると思います」
俺は該当する台詞を読み直した。
「それなら、五行削っても残ります」
小道具係が舞台へ上がった。
「その椅子、前の転換で出しておけます」
「今は?」
「第二幕が始まってから運んでます。最初から机の横に置けば、転換を一回減らせます」
部長が尋ねる。
「何秒?」
「今の通しだと、二十七秒です」
音響係も台本を開いた。
「第二幕の曲、前奏を十秒短くできます」
「台詞にはかからない?」
「一番目の合図を変えれば大丈夫です」
衣装係が日向の袖を見る。
「第二幕前の上着の交換も、袖で全部着替えなくていいかもしれない。上だけ替えるなら十五秒縮められます」
部長がメモを取る。
五行を削る。椅子を先に出す。前奏を短くする。衣装替えを簡略化する。終幕の間は残す。
脚本だけでは、必要な時間を縮められなかった。
「一度、該当箇所を確認します」
部長が言った。
「如月、削った形を今ここで読める?」
「はい」
台本へ線を引く。残す二行と、最後の一行。間の五行を飛ばす。
相手役へ見せる。
「これでお願いします」
「分かった」
小道具係が椅子を机の横へ置く。音響係が前奏の開始位置を変える。衣装係が日向の上着を調整する。短縮した箇所を一度ずつ確認した。
五分の休憩を挟み、最初から全幕を通し直す。
部長が再びストップウォッチを持った。
「始めます」
第一幕から、場面を止めずに進める。
第二幕。椅子はすでに机の横にある。相手役は短くなった台詞を言い、椅子を戻してから去る。
日向はその動きを見た。削った五行を補うように、相手役の手が椅子から離れるまで待った。
前奏が短く入り、次の場面へ移る。
そのまま終幕まで進む。
日向が言う。
「もう一度、最初から聞かせて」
相手役はすぐには振り返らない。日向は待つ。俺も照明を変えない。
相手役が振り返ったところで、光を上げる。
暗転。
部長がストップウォッチを止めた。
「五十九分三十八秒」
誰かが小さく息を吐いた。拍手は起きなかった。
部長は数字を台本へ書き込む。
相手役が俺を見る。
「質問は、あとでさせて」
「はい」
「今は、まだ整理できてない」
「分かりました」
受け入れられたわけではなかった。ただ、もう作者が稽古場の外にいるふりはできなかった。
部長が修正箇所を確認する。
「第二幕の五行を削除。椅子は最初から舞台上。音響の前奏を十秒短縮。衣装替えは上着だけ」
それぞれの担当が返事をする。
最後に、部長が俺を見る。
「如月、五行削った台本を今夜中に出して」
「はい」
「照明の変更表は明日でいい」
「分かりました」
部長は俺の台本に、二つの締切を書き込んだ。
脚本は今夜。照明は明日。
もう、作者へ送るとは誰も言わなかった。




