橋を怖がる顔
橋を怖がる顔、というものが本当にあるのか、景には分からなかった。
けれど館の者たちは、あるものとして動いた。
庭では古い戸板が運ばれ、折れた槍の柄が束ねられ、濡れた薪に火がつけられている。煙はまっすぐ上がらず、低く流れて目にしみた。わざと濡らしたのだと聞いて、景はまた嫌な顔をした。橋のたもとへ人を多く見せるため、荷を担ぐ者は同じ道を何度も往復していた。
「これ、見せかけなんだよな」
「そうだ」
紗那は短く答えた。
「でも皆、本気で疲れてるぞ」
「見せかけを本当に見せるには、本当に動かねばならぬ」
「言葉の罠みたいなことを言うな」
景の横を、若い足軽が息を切らして走り抜ける。肩に担いだ板は橋を直すものではなく、橋を直しているように見せるものだった。板の先が石にぶつかり、乾いた音を立てる。そのたび、橋の向こうの林がかすかに揺れる気がした。
見られている。
そう思うだけで背中が固くなる。
KM-07は胸元で沈黙していた。沈黙している時ほど、景には妙に不安だった。何か計算しているのか、ただ電池を節約しているのかも分からない。
「おい、景殿」
年嵩の武士が呼んだ。名前を呼ばれるのに、まだ慣れない。しかも殿まで付く。
「川下の古渡へ、伏せの者を回した。北の浅瀬にも百姓の案内で二十。橋には百ほどを見せる」
「百って、多くないですか」
「多く見せるための百だ」
景は橋のたもとに集まる人影を見た。実際に戦える者は、その半分もいないらしい。怪我人、荷運び、小者、年のいった者まで混じっている。槍を持つ者より、何かを担いでいる者のほうが多い。
遠目には、確かに大人数に見える。
近くで見ると、ただの必死な準備だった。
「向こうが橋へ来たら?」
「橋で受ける」
「古渡へ来たら?」
「そこで挟む」
「北へ来たら?」
「遅れる」
年嵩の武士は隠さなかった。
「北は遠い。知らせが戻るころには、半ば渡られておるやもしれぬ」
景は口を閉じた。
そうだ。ここでは、見えない場所は本当に見えない。連絡は人が走るしかない。誰かが川岸で敵を見つけ、泥道を走り、息を切らして戻る。その間にも敵は進む。
スマホの通知ひとつで全員が同じ画面を見る世界ではない。
だから、間違えたら遅い。
「北、薄すぎないか」
景が言うと、紗那が横目で見た。
「おぬしは北が気になるか」
「気になるっていうか、嫌なんだよ。遠いのに、人が少ないの」
「遠いゆえ、多くは置けぬ」
「それも嫌だ」
紗那は一瞬だけ黙った。それから橋の煙へ目を戻す。
「嫌なところほど、目を置くべきか」
「いや、俺はただ怖いだけで」
「怖いところを言え。言ったあとは、こちらで使う」
使うな、と思ったが、言わないともっと悪くなる気がした。
景は川筋を思い出す。座敷の紙。古渡。北の浅瀬。橋。どれも線でしかなかった。けれど今は、その線の先に泥があり、草があり、走らされる人間がいる。
KM-07がようやく震えた。
《敵主力が分散渡河を選択する確率、上昇。推奨。敵の観測資源を橋に拘束し、非観測渡河点において退路遮断を準備》
「観測資源を橋に拘束……」
「何だ」
「いや、見てるやつを橋に釘付けにしろってことだと思う」
紗那の眉が少し動く。
「釘か」
「いや、本当に釘を打つわけじゃなくて」
そこへ、小者が板切れと木槌を抱えて通りかかった。
「釘ならございます!」
「ない。今のは違う」
景が慌てて止める前に、年嵩の武士が小者へ目を向けた。
「橋の欄干へ打て。急ぎで直しているように見せよ。音は大きいほどよい」
「はっ」
「違うって言ったのに」
紗那は感心したように頷いた。
「音で目を縛るか。考えたな」
「考えてない」
「考えず出るなら、なお悪い」
「俺にとってな」
木槌の音が増えた。こんこん、こんこん、と乾いた響きが橋の向こうへ飛んでいく。板が鳴り、兵が怒鳴り、煙が濃くなる。まるで本当に橋が一番大事な場所であるかのようだった。
その騒ぎの裏で、古渡へ向かう者たちは声を殺していた。
景は一度だけ、その列を見た。腰を低くし、竹藪の影を抜け、泥を踏んでも音を立てないように歩く。紗那もそこへ行くのだと思っていたが、彼女は景のそばを離れなかった。
「行かなくていいのか」
「主より、おぬしの側を離れるなと言われておる」
「俺、ここで何の役に立つんだよ」
「敵が思う軍師がここに立つ」
景は橋の煙を見た。
「看板か」
「囮だ」
「もっと悪い」
日が落ちるにつれて、川の色が鈍くなっていく。空の赤が水面に裂け、橋脚の影が伸びた。昼間は浅く見えた流れも、夕暮れには底が分からない。向こう岸の林は黒い塊になり、その奥で何かが動いても見分けがつかなかった。
最初の知らせが来たのは、そのころだった。
北からではない。橋からでもない。
古渡へ伏せた者のさらに手前、畑の縁に置いた百姓の子が、息も絶え絶えに駆け戻ってきた。
「川下、黒い影が寄っております! 馬は少のうございます、徒歩が多く!」
橋の騒ぎが一瞬だけ揺らいだ。
年嵩の武士がすぐに声を飛ばす。
「橋は騒げ! 顔を変えるな!」
顔を変えるな、という命令で人がまた動き出すのを見て、景は変な気分になった。怖いのに怖がっていないふりをするのではない。怖いふりを続けるために、怖がる暇もない。
紗那が景の袖を引いた。
「来るぞ」
「どこに」
「古渡だ」
「じゃあ勝ち?」
「渡らせ方を誤れば、負ける」
簡単に言わないでほしかった。
次の知らせは遅かった。
遅すぎる、と景が思ったころ、泥にまみれた男が転ぶように橋のそばへ入ってきた。膝をついたまま、顔も上げずに叫ぶ。
「古渡、先手が入りました! 半ばまで渡っております!」
「半ば?」
景は声を漏らした。
半ば渡らせる。そういう作戦だったはずだ。だが、半ばという言葉があまりに怖い。水の中に敵がいて、こちら側へ足をかけ始めている。それを待つというのは、頭で聞くよりずっと気持ち悪かった。
年嵩の武士が紗那を見る。
「頃合いか」
紗那は景を見た。
「どう見る」
「俺に聞くなよ」
「聞かれておる」
景の胸元でKM-07が震えた。
《推奨。敵第一梯団の渡河完了直後に後続との連絡線を遮断。局地的孤立を形成し、心理的崩壊を誘発》
「第一……ていだん?」
「何だ」
「分からん。たぶん、最初の集団」
「続けろ」
「渡り終わった直後に、後ろと切り離せって」
「川中の後ろを断つか」
「いや、連絡線って言ってるから……」
景は頭の中で現代の言葉を探した。連絡線。通信。補給。逃げ道。道。線。
線を切る。
そのまま言うと、また面倒なことになる。そう思ったのに、焦りが先に出た。
「線を切るんだ。後ろとつながってるやつ」
紗那の目が鋭くなった。
「綱か」
「え」
「古渡には、深みを探るための綱を張っておる。案内役が渡す時、それを頼る」
「いや、そういう意味じゃ」
「いや、使える」
紗那はもう走り出していた。
「古渡へ伝えよ! 敵の先手を岸へ上げ、二つ目が水へ入ったところで綱を切れ! 松明を投げろ! 水中で止める!」
伝令が飛ぶ。
景は口を開けたまま固まった。
「違う。たぶん違う」
KM-07が即座に震える。
《補足。通信および移動経路の遮断を意図》
「ほら違った!」
しかし伝令はもう戻らない。人間の足で出た命令は、取り消すにも人間の足が要る。景は初めて、その不便さを恨む余裕すらなかった。
古渡のほうで、松明がいくつも上がった。
遠く、川下の闇に赤い点が揺れる。ひとつ、ふたつ、三つ。次の瞬間、怒声が夜に裂けた。水音が続き、馬のいななきが混じる。橋のたもとにいた者たちが一斉にそちらを向きかけ、年嵩の武士が怒鳴った。
「橋を見ろ! 橋を怖がれ!」
意味の分からない命令なのに、皆が従った。木槌がまた鳴る。煙が足される。橋の上で誰かがわざと転び、怒鳴られ、起こされる。見せかけの混乱が、本物の混乱を隠していく。
川下の赤い点が増えた。
やがて、叫びの質が変わる。
押せ、ではなく、戻れ。
進め、ではなく、足がつかぬ。
景の耳にも、そんな断片が届いた気がした。水の中で頼りにしていた綱を切られ、後ろの者は川中で止まった。前に渡った者は岸に上がったところで伏せ兵に押さえられる。真ん中で詰まった人影へ松明が投げ込まれ、誰がどこにいるかだけがこちらに見えた。
AIの言ったこととは、たぶん違う。
だが、起きていることはひどく効いていた。
紗那が戻ってきた時、頬に泥が跳ねていた。息は荒いが、目は冷えている。
「先手を割った」
「本当に?」
「水に入った二つ目が崩れた。三つ目は岸へ降りられぬ。後ろは何が起きたか分からず止まっておる」
「綱を切ったから?」
「それと松明だ。暗がりで渡れると思っていた者が、急に照らされた。水の中では盾も槍も邪魔になる」
景は膝から力が抜けそうになった。
「よかった……」
「まだだ」
紗那は橋の向こうを見た。
「向こうの目が、橋から離れる」
その言葉の直後だった。
橋の向こう岸、林の黒い塊の中で、鳥が飛び立つような気配がした。見張りが動いたのだろう。橋の騒ぎが囮だったと、ようやく気づいたのかもしれない。
KM-07が震える。
《敵観測点の移動を検知した場合、撤退方向を限定してください。推奨。橋梁周辺の視覚的脅威を維持しつつ、川下方面への情報流出を阻害》
「情報流出を阻害……」
「何だ」
「見に行かせるな、ってことだと思う」
「どうやって」
景は橋の向こうの林を見た。相手はこちらを見ている。こちらも見られている。川下を見たいなら、林の中を移動するしかない。
怖がる顔。
釘付け。
音。
全部が頭の中で変につながった。
「橋を、今から渡るふりをする」
言ってから、自分でも血の気が引いた。
紗那の表情が一瞬止まる。
「こちらからか」
「ふりだよ。ふりだけ。橋にいるやつらが、押し出すみたいに動けば、向こうの見張りは離れにくい。今、目をそらしたら橋から来られるかもしれないって思うだろ」
「実際には渡らぬ」
「渡ったら死ぬ」
「よし」
「よしじゃない」
紗那はもう命じていた。
「盾を前へ! 槍を橋口へ寄せよ! 足音をそろえろ、渡るぞと見せる!」
橋のたもとが動いた。疲れた者たちが、最後の力で声を上げる。板を鳴らし、槍の石突きで橋板を叩き、盾を押し出す。渡るつもりのない突撃が、夜の橋へ形だけ流れ込んだ。
向こう岸で、林が揺れた。
逃げない。
目が橋に残る。
川下では、また叫びが上がった。今度は短く、鋭く、そして途切れた。伏せていた者たちが前へ出たのだろう。水の音、木の折れる音、誰かの怒鳴り声。景には詳細など分からない。ただ、遠い場所で命令が間に合い、別の場所で間に合わなかったのだとだけ分かった。
戦は画面の中の駒ではなかった。
一人が走り、一人が遅れ、一人が叫ぶ。その積み重ねで勝ち負けが傾く。
やがて、川下から三度目の伝令が戻った。
今度の男は、笑っていた。泥だらけで、肩で息をし、額から血を流しているのに、歯だけが白く見えた。
「古渡、押し返しました! 先手は多く討ち取り、残りは川向こうへ逃げております! 北の浅瀬、動きなし!」
橋のたもとに、音のない波が広がった。
誰かが膝をつき、誰かが槍を掲げかけ、すぐに下ろした。まだ見られている。喜ぶ顔を見せるなという命令が飛び、皆が慌てて疲れたふりへ戻る。疲れたふりと言っても、本当に疲れているのだから、そこだけは簡単だった。
景はその場に座り込みそうになり、紗那に肘をつかまれた。
「立っておれ」
「もう終わったんだろ」
「終わった顔をするな」
「顔って大変だな」
「戦は顔にも出る」
紗那はそう言いながら、景の肩についた灰を払った。その手つきが一瞬だけ柔らかくて、景は余計に落ち着かなくなる。
館の主が橋のほうへ来たのは、さらにしばらく後だった。
灯りを背にして歩く姿は、昼の座敷で見た時より小さく見えた。だが周りの者たちは自然に道を開ける。勝った知らせを受けても、主の顔は崩れていない。
「古渡は」
年嵩の武士が膝をつく。
「敵先手を崩し、渡河を断ちました。捕らえた者もおります。北は動かず。橋の目は、最後までこちらに残りました」
「そうか」
館の主は頷き、景を見た。
景は嫌な予感がした。勝ったあとに向けられる視線は、負ける前の視線より逃げ場がない。
「景」
「はい」
「よう橋を怖がった」
「褒め方が変です」
近くの兵が何人か笑いを噛み殺した。館の主の口元も、わずかに動いた。
「敵は橋を見た。古渡で溺れた。北は使わなんだ。おぬしの嫌がるところへ目を置き、おぬしの言う線を断ったゆえだ」
「線は、俺の言った意味と違って」
「違って勝つなら、なおよい」
よくない。
景はそう思ったが、声にはならなかった。
紗那が一歩前へ出る。
「景殿は、敵の目が何に縛られるかを見ておられました。橋を怖がる顔を作り、音で目を留め、古渡では綱を断って心を折った。最後に橋から出る気配を見せたことで、敵の目を川下へ走らせなかった」
「まとめるな。俺がやったみたいになる」
「やったのだ」
「違う」
「ならば、誰がやった」
景は答えられなかった。
AIが言った。景が誤解した。紗那が訳した。兵が走った。百姓が見た。誰かが綱を切り、誰かが松明を投げ、誰かが橋で怖がる顔をした。
その全部の結果が、今ここにある。
けれど周囲の視線は、なぜか景へ集まっている。
胸元でKM-07が震えた。
《戦術結果。敵渡河作戦の阻止に成功。味方損耗は予測範囲内。あなたの介入は有効でした》
「予測範囲内って言うな」
小さく呟いたつもりだったが、紗那には聞こえたらしい。
「また八つ当たりか」
「今のは抗議」
「誰に」
「分からないやつに」
館の主はそのやり取りを聞いていたのかいないのか、静かに言った。
「明日には、敵の名も少しは分かろう。捕らえた者の口も軽くなる。だが今夜のことは、先に広がる」
「広がる?」
「橋を守ると見せ、古渡で討った。しかも軍師殿は橋に立って敵の目を縛った、とな」
「ならないようにしてください」
「もう遅い」
年嵩の武士が真顔で言った。
「橋の者は皆、見ておりますゆえ」
景は頭を抱えたかった。
だが、その手は途中で止まった。橋の向こうの闇を見たからだ。敵は退いた。けれど消えたわけではない。川下で押し返された者たちは、川向こうへ戻っている。そこには、命令を出した誰かがいる。
今日の勝ちが、明日の安全をくれるわけではない。
むしろ、こちらに厄介な軍師がいると相手に思わせただけかもしれない。
紗那も同じ方角を見ていた。
「怖い顔をしておる」
「今度は本物だよ」
「なら、覚えておく」
「何を」
「おぬしが本当に怖がる時の顔だ。次は、それも使える」
「使うな」
紗那は少しだけ笑った。男装の若武者の顔に戻る前の、ほんの短い笑みだった。
橋の上では、まだ木槌が鳴っている。もう見せるためではなく、本当に傷んだ板を直していた。煙は薄れ、川の匂いが戻ってくる。勝ったという実感は遅れて来なかった。ただ、まだ生きているという事実だけが、冷たい夜気の中で妙にはっきりしていた。
景は胸元を押さえ、低く言った。
「次は、もうちょっと分かる言葉で頼む」
《要求を確認。以後、抽象度を下げた戦術説明を試行します》
「本当だな」
《例。敵の後ろを切ってください》
「それが駄目なんだよ」
紗那が首を傾げる。
「敵の後ろを切る?」
「聞かなかったことにしてくれ」
「いや、よい言葉だ」
「よくない」
遠く、古渡のほうで勝ち鬨が上がった。抑えきれなかったのだろう。橋の者たちも今度は止められず、低い声が次々に重なった。
その中で、誰かが言った。
軍師殿、と。
景は振り向かなかった。振り向けば、認めたことになる気がした。
けれど呼び名は、夜の川風に乗って何度も揺れた。否定しても、届くころには別の意味へ変わる。この時代の情報は遅い。遅いくせに、噂だけは妙にしぶとい。
景はその場に立ったまま、初めて自分の勝ちが怖いと思った。




