紙の川筋
座敷の畳は、外の泥よりよほど始末が悪かった。
足を拭かれ、裾を払われ、上がれと言われるほど、景には逃げ場がなくなる。濡れた草鞋を脱いだだけで、自分が場違いなものとしてきれいに並べられていく気がした。
廊下の向こうでは、捕らえた敵が縄の軋む音を立てている。庭ではまだ兵の足が止まらない。だがこの部屋だけは音が薄く、低く、重い。誰かが咳払いひとつするだけで、そこへ意味が乗る。
上座には館の主がいた。年の頃は五十に届くかどうか。肉の厚い顔ではないが、痩せてもいない。目元だけが硬く、疲れているのに眠っていない顔だった。
その前へ、紗那が紙を置く。
「尾根にて捕えた者より出ました」
館の主は紙を開き、しばらく黙った。畳の上へ広がった川筋は粗い。だが粗いからこそ嫌だった。橋だけでなく、古渡、北寄りの浅瀬、さらに木立の切れ目まで、渡れるかもしれない場所が爪でひっかいたみたいな線で拾われている。
「村境の揉め事では済まぬな」
低い声が、部屋の温度を少し下げた。
年嵩の武士が膝を進める。
「昨夜の濡れ布の紋とも合います。尾根の見張りも、小人数にて戻り道まで押さえておりました。渡りを探る目にございます」
「どこの目だ」
「それがまだ」
言葉の切れ目が、そのまま不安の形になる。
この時代の面倒さを、景はまた思い知った。スマホなら写真を撮って送れば済む。住所も履歴も、どこで拾ったかまでついてくる。だがここには紙一枚と、見た者の記憶と、捕らえた相手の口しかない。そしてその口は、たいていすぐ閉じる。
館の主は景を見た。
「尾根へ伏せよと言ったのは、おぬしか」
「いや、ええと、言ったっていうか」
「帰る道で待ったとも聞く」
「それは、その……帰るときって、知ってる道を使うかなって」
途端に、座にいた数人の視線が寄った。
まずい、と景は思った。こんな雑な言い方で納得されても困るし、呆れられても困る。だが紗那は何も助け船を出さない。逃がさない時の沈黙だった。
「知ってる道を使う、か」
館の主が繰り返す。
景は半ばやけで続けた。
「見張ってた場所で戦うのは、たぶん嫌だろ。見つかったら、とにかく早く戻りたい。で、急いでる時ほど、前に通った道を選ぶじゃないですか」
「急いでいたと、なぜ見る」
今度は別の武士が口を挟んだ。声に棘はない。だが試されている感じだけは、はっきりある。
景は畳の上の紙を指した。
「これ、雑だからです」
自分で言ってから、さらにまずいと思った。上座の前で、敵が命懸けで持ち帰ろうとした紙を雑と言ったのだ。
だがもう遅い。
「雑とは」
館の主の声が変わらないのが、逆に怖い。
「橋なら橋だけ書けばいい。古渡も知ってるなら、古渡だけでいい。でも、これ、渡れそうなところを片っ端から拾ってる感じで……」
景は紙の線を追う。太いところ、細いところ、途切れているところ。地図と呼ぶには頼りない。だが、だからこそ誰かが急いで歩き、急いで見て、急いで書いたのだと分かる。
「まだ決めきれてないんだと思う。どこから渡るか。というか、どこなら渡れるかを、まだ測ってる途中だ」
座敷の空気が、ほんのわずかに変わった。
年嵩の武士が紙へ身を寄せる。
「……確かに、浅瀬の深さも、道の広さも記されておらぬ」
「知ってる土地なら、要らないことだ」
紗那が静かに継いだ。
「つまり、向こうは地を借り切れておらぬ」
景はその言い方に顔をしかめた。
「いや、そこまで格好いい話じゃなくて」
「同じだ」
紗那はあっさり言った。
「土地勘が足りぬ。案内も足りぬ。足りぬまま、急いで見て回っている。ならば急がせれば、さらに粗くなる」
その瞬間、景の胸元でKM-07が震えた。
《敵偵察網は未飽和。誤情報と時間圧迫を併用し、判断精度を低下させてください》
言い方がもう嫌だった。
だが意味だけは、何となく分かる。
「急がせれば、粗くなる……」
景は独り言みたいに繰り返した。
館の主が目を上げる。
「何かあるか」
「え、いや、その」
ないと言える空気ではない。景は腹をくくるしかなかった。
「向こう、昨日からこっちを見てるだろ。橋も、古渡も、尾根も。で、今日、目を捕まえられた。だったら向こうは、急いで次を決めたいはずだ」
「捕らえた目が戻らぬからか」
「それもあるし、こっちに読まれたって分かったから」
自分で言うと恥ずかしい。だが敵兵が言った。「軍師か」と。違うと言っても面倒だと返された。あれは見た者の言葉だった。
「なら、向こうが安心する材料をわざと見せたほうがいい。こっちはまだ橋しか見てません、って」
「橋を恐れておるように見せる、か」
紗那の目が細くなる。
「そう。橋に人も物も寄せる。煙も上げる。何度も往き来する。見張りが残ってるなら、たぶんそう見る」
「古渡は」
「静かにする。動いてても、見せない」
しばし、誰も口を開かなかった。
廊下の外を、伝令が一人走り抜ける。音が遠のいたあとで、別の足音が近づいてきた。小者が膝をつき、北の浅瀬を見にやった百姓が戻ったと告げる。
館の主が頷き、入れと言う。
泥を脛まで跳ねた百姓は、座敷の端で額を畳へこすりつけた。
「北寄りの渡り、昨日より人の踏み跡が増えておりました。馬はまだ少のうございますが、川岸の草が払われております」
それだけで、また場が重くなる。
景にはそれがたまらなく不便で、たまらなく生々しかった。一人が見てきて、一人が戻り、その一言で空気が変わる。遅い。遅いのに、重い。遅いぶんだけ、間違えた時の傷も大きい。
「急いでいるな」
館の主が言う。
今度は誰も反論しなかった。
そのとき、庭から怒鳴り声が上がった。縄を打つ音。捕虜のひとりが暴れたらしい。紗那がちらと目を向けると、館の主は顎だけで合図した。
「一人、ここへ」
しばらくして、尾根で捕らえた敵のひとりが引きずられてきた。泥は乾きかけ、額の傷からこめかみへ赤黒い筋が走っている。だが目だけはまだ死んでいない。
庭で見た時と同じ目だ、と景は思った。
相手も景を見つけるなり、口の端をわずかに曲げた。
「おるではないか、軍師殿」
「違うって言ってるだろ」
「違わぬから座に上がっておる」
景は言い返しかけて、やめた。確かに、そこだけ見ればそうだ。泥だらけの素人が、館の主の前で紙を指している。自分でも悪夢みたいだと思う。
館の主が捕虜へ問う。
「どこの者だ」
返事はない。
「誰の命で渡りを見た」
返事はない。
年嵩の武士が一歩進み、声を低くする。だが敵は目を伏せなかった。閉じているというより、値踏みしている顔だった。何を言い、何を言わぬべきか、まだ秤にかけている。
KM-07 がまた震えた。
《対人尋問における推奨。相手の保有情報の一部を先行提示し、未知領域の反応差を観測》
だから言い方が嫌だ。
だが景は、その意味なら分かった。全部を聞き出そうとするな。知っているところまで先に置いて、相手がどこで揺れるか見ろ、ということだろう。
景は思わず口を開いていた。
「橋は囮だろ」
座敷の視線がまた揃う。
捕虜の眉が、ほんの少しだけ動いた。
「本命は、まだ決まってない」
今度は、相手の目の奥が冷えた。
当たった、と景は分かった。というより、外していない場所へ触れた。
「渡りを数えてる。北も古渡も見てる。ってことは、向こう、案内をまだ信じきれてないんだ」
そこまで言ったところで、捕虜が初めて鼻で笑った。
「信じるに足る案内なら、橋であれほど派手に守るか」
言ってから、相手はしまったという顔をした。
座敷の空気が凍りつく。景にも分かった。今の一言で、向こうがこちらの橋の騒ぎを見ていたと認めたのだ。
紗那の声が鋭く落ちる。
「まだ目が残っておるな」
捕虜は黙った。だがもう遅い。
館の主は指を組み、しばらく景を見た。景は見返したくなかった。さっきのはほとんど偶然だ。AIの意味不明な言葉を、ただ雑に置き換えただけだ。それで敵の口が滑ったからといって、自分が何か分かっているわけではない。
だが周りは違う。
「景殿は、口を割らせようとしたのではない」
紗那が言った。
「相手が守る芯だけを先に踏んだ。橋を囮と認めさせ、なお本命の定まらぬことを晒した」
「そんなつもりじゃ」
「つもりで届くなら、誰も苦労はせぬ」
いつもの調子で切って捨てられ、景は黙るしかなくなった。
館の主がようやく口を開く。
「橋を騒がせよ」
短い一声で、座の者が背筋を伸ばした。
「人も物も、今まで以上に見せよ。ただし古渡と北は、見せるな。渡りは渡れるまま保て。目が残っておるなら、見たいものだけ見せて持ち帰らせる」
「はっ」
「それと」
館の主の目が、景へ拠わる。
「景」
「はい」
「おぬし、紗那の側を離れるな」
嫌な予感が、その一言で形になった。
「え」
「目に見えぬものを先に嫌がる鼻は、戦では使う」
「鼻って」
「嫌な予感が増えた、と申したそうだな」
誰だそんな報告まで上げたのは、と思ったが、この館ではたぶん何でも上がる。
「鈍い者は増える前に死ぬ、と紗那は言った」
館の主は少しだけ口元を動かした。笑ったのかどうかは分からない。
「ならば、生きておるうちは使える」
座敷のあちこちで気配が動く。命令が受け取られ、もう外へ走り出しているのだと分かった。橋へ積む材木。見せるための煙。黙って走る裏道。すべてが、今ここで言葉になったせいで、本当の段取りへ変わっていく。
景だけが取り残される。
「待ってくれ。俺は本当に、軍師とかじゃ」
「知っておる」
館の主は言った。
「だが敵は、そう見ぬ」
それは反論のしようがなかった。
捕虜が座敷の端で、低く笑う。
「厄介になったな、軍師殿」
景は顔をしかめた。
「だから違う」
「違っても同じだ」
尾根でも聞いた言葉だった。今度は、前より重い。
紗那が立ち上がる。紙を畳み、袖へ入れ、景の前で止まった。
「行くぞ」
「どこへ」
「橋を怖がる顔を、館じゅうへ作りに」
「言い方が最悪なんだよ」
「安心せよ。おぬしは黙って歩くだけでよい」
「それが一番嫌だ」
だがもう、座敷の外では人が動きはじめていた。板を担ぐ足音。煙を起こす声。遠くで馬が鳴く。ひとつの紙から広がった川筋が、館じゅうの動きへ変わっていく。
景は立ち上がりながら、胸元へ小さく言った。
「おまえのせいだからな」
《訂正。最終判断と発話は常にあなたです》
「そういうところだよ」
紗那が怪訝そうに振り向く。
「また独り言か」
「独り言じゃない。八つ当たりだ」
「余裕があるな」
「なくなってきた」
「よい」
紗那は先に廊下へ出る。薄暗い板の間を進む背中は細いのに、不思議と迷わない。景はその後ろを追いながら、ようやく分かった。
尾根で敵を捕まえた時点で、もう引き返せなかったのだ。
橋を守っただの、古渡を読んだだの、そんな話ではない。敵はもうこちらを見ている。館ももう自分を見ている。その両方の視線の間へ、紗那に引っぱられる形で、自分は押し込まれてしまった。
廊下を抜けると、西の空が赤く低く沈んでいた。橋のほうでは、見せるための忙しさがもう始まっている。人が走り、材木が鳴り、煙が立つ。その騒ぎの裏で、静かな渡りへ何人が伏せるのか、景にはまだ知らされていない。
知らされていないことばかりだ。
それでも、次の戦はもう始まっている。
嫌な予感だけが、今までで一番はっきりしていた。




