見る者の背中
朝の庭は、濡れた灰を薄く延ばしたみたいな色をしていた。
夜露を吸った土の上を、兵が声を落として行き来する。湯を運ぶ者、弓弦を張り替える者、見張りから戻ってくる者。誰も手を止めてはいないのに、景が土間へ出た瞬間だけ、そこに細い静けさが走った。
「景殿、お目覚めに」
「古渡を読み切ったあとで、よう寝られましたな」
「寝てないよ」
返しても、兵たちは妙に神妙な顔で頷くだけだ。眠らず策を練っていた、くらいに受け取っているらしい。最悪だった。
《周囲認識の固定が進行中》
「報告するな」
胸元へ小さく言っただけで、井戸のそばにいた若い兵がはっとこちらを見る。独り言すら勝手に意味を持たされる。この時代に来てから、黙っていても面倒だし、喋っても面倒だった。
ざわめきの向こうから紗那が現れた。今日はまだ甲冑を着けていない。濃い色の小袖に袴だけなのに、庭へ下りてくると人の流れが自然に割れる。
「景殿。西の尾根へ行く」
「起き抜けに聞きたくない言葉だな」
「嫌なことほど、朝のうちに済ませる」
きっぱり言われると、反論するだけ損に思えてくる。
館の西手、杉林の上へ回る細道は昨夜の雨気を残していた。ぬかるみを避けるだけで足を使う。橋は人が集まるぶん怖い。林は音を吸うぶん怖い。尾根は見えるぶん怖い。昨日まで全部まとめて「死にそうな場所」だったものが、今日はそれぞれ違う嫌さを持ちはじめていた。
先を行く紗那の後ろに、喜八と年嵩の武士、それに兵が六人。多すぎれば隠れられない。少なすぎれば捕らえたあとで困る。その加減が、この人たちにはもう身についている。
「昨夜の馬跡、尾根へ向いていたと言っていたな」
景が息を整えながら訊くと、紗那は前を見たまま答えた。
「見張りの者が暗いうちに見つけた。草の倒れ方も新しかった」
「まだ、いるかもしれないってことか」
「いるなら今日も見る。見ていた者は、一度見た場所をそう簡単には捨てぬ」
尾根へ近づくほど見通しがよくなった。館の屋根、橋へ続く道、昨日騒ぎになった古渡の川筋まで、少し高いだけで手の内みたいに見える。敵がここからこちらを見ていたのだと思うと、腹の奥が冷えた。
《観測点より離脱路を押さえてください》
短い一言だけが胸元で鳴る。
景は舌打ちしかけて、やめた。腹は立つが、言っていることは分かる。見ている奴は、見ている場所で斬られたくはない。帰る道を先に覚える。
「何だ」
紗那が足を止めずに問う。
「……見張る奴って、立ってた場所より帰る道のほうをしつこく覚えるだろ」
自分でもはっきりした理屈ではなかった。だが紗那はそこで初めて振り返り、景の顔を一度だけ見た。
尾根の途中に、小さく開けた場所があった。草が踏み伏せられ、一本の杉の皮が不自然に削れている。そこへ立てば門前も橋道もよく見えた。昨日、泥の中を必死に走り回っていた自分たちが、ここからはきっと滑稽なくらい丸見えだったのだろう。
「ここだな」
年嵩の武士がしゃがみ込む。浅い蹄の跡。草に押しつけられた膝の形。土の上には黒ずんだ細かな灰が散っていた。
景は眉を寄せたが、すぐに気づいた。焚き火の跡ではない。夜を越して座り込んだ者の灰ではなく、火縄か火打ちの布を軽く払ったような、ごく少しのこぼれだ。
「長居はしておりませぬな」
年嵩の武士が指先で灰をつまむ。
「火を焚いたのではない。来て、見て、すぐ退いた跡です」
さっきの嫌な感じと、ぴたりと合った。ここは居場所ではない。目だけを置く場所だ。
「見張る座ならここでしょう」
喜八が言う。
「でも、捕るならここじゃない」
景の口が先に動いた。言ってから、しまったと思う。三人分の視線が揃うと、未だに喉が詰まる。
「ここで見て、やばいと思ったら、すぐ林へ戻るだろ。見つかった場所で踏ん張る奴はいない。急いで帰る時ほど、知ってる道を使う」
「知ってる道」
紗那が低く繰り返す。
景は尾根の裏へ回り、踏み崩れた下草を目で追った。細い筋が二つに分かれている。片方は人だけなら通れる。もう片方は少し深く、枝の高さに擦れた跡がある。
「こっちだ」
「なぜ」
「馬が通れる。それに……」
景は木々の隙間から館の屋根を指した。
「こっちは、戻りながらも下を見ていられる。あっちは曲がりすぎる」
紗那は尾根の向こうをひと目見て、あっさり頷いた。
「よい。見る場所は捨てる。帰る道で待つ」
決まるのが早い。兵がすぐ散った。二人は下へ回り、三人は獣道の脇へ伏せる。喜八は倒木の陰へ槍を寝かせた。景まで窪みに押し込まれ、湿った苔の匂いが鼻につく。
「で、どうやって戻らせるんだ」
「戻る理由を作る」
紗那は尾根の下へ控えていた兵へ指で合図した。
「門前を騒がせろ。橋道へ材木を運べ。槍も見えるように出せ。二度三度と往き来させよ」
「また見せるのか」
「見る者に、見せねばならぬ。この時代の情報は、見たものを足で持ち帰るしかない。ならば持ち帰らせるものを選ぶ」
景は頭を抱えたくなった。要するにまた囮だ。しかも今度は、自分が言った「知ってる道を使う」という雑な理屈が、そのまま餌になっている。
しばらくして尾根の下から音が上がりはじめた。木を打つ乾いた音。縄を引く掛け声。兵が行き来する気配。橋を固め直しているように見えるだろう。ここからなら、なおさらだ。
待つ時間だけが長い。
風が杉の葉を揺らすたび、景は肩をすくめた。昨日までは見えない敵が嫌だった。今日は、自分たちが見えないまま誰かを待っていることのほうが落ち着かない。
《接近。徒歩二、後方に騎乗一》
それだけ告げて、KM-07 は黙った。珍しく親切だと思った次の瞬間、草の擦れる気配が上から落ちてきた。
二つの影が尾根へ現れる。昨日、川へ突っ込んできた雑兵とは歩き方が違う。余計なところを見ない。ひとりは槍、もうひとりは小弓。さらに奥、木々の間に馬の鼻面がのぞいた。
見ていた奴らだ、と景は思った。
二人は開けた場所まで出て、下を眺めた。門前の往来。橋道の材木。立つ槍の数。長く見ない。欲しいところだけ拾って、互いに短く言葉を交わすと、すぐ引く。
「まだ」
紗那の囁きが横を走る。
兵たちの気が草むらで膨らむ。ここで飛び出せば前の二人は捕れるかもしれない。だが馬へ逃げられたら終わりだ。景は膝に力を入れ、息を殺した。
影が獣道へ乗る。
先頭が一人。その後ろにもう一人。少し遅れて、奥で馬が向きを変える音がした。
「今だ」
自分の声が思ったよりよく出たのと同時に、紗那の体が草から抜けた。
速い、では足りない。音がない。踏み込みざま先頭の槍を鞘で払う。二人目が引こうとしたところへ、倒木の陰から喜八の槍が突き出た。狭い道では背の低い木一本が壁になる。前の背中がそのまま逃げ道を塞ぐ。
馬がいなないた。奥の騎乗が引き返そうとしたのだろう。横から飛んだ矢が枝に弾かれ、馬が首を振る。その一瞬に年嵩の武士が林側へ回り込み、兵が脚へしがみついた。
「生け捕れ!」
紗那の声だけが鋭く残る。
景は動けなかった。目の前で人がぶつかり、枝が折れ、泥が跳ねる。橋の上みたいな大きな音はない。その代わり、息の詰まる短さで決まっていく。先頭の男はすぐ地へ伏せさせられた。二人目は崖側へ逃げようとして足を滑らせ、肩から落ちる。馬上のひとりだけが奥へ抜けかけたが、枝に引かれて勢いが死に、喜八たちに引きずり落とされた。
短い。ほんの息のあいだなのに、景には妙に長く感じられた。
音が収まったあとで、ようやく息が戻る。獣道の上には二人の敵が縛られ、少し先では馬ごと倒されたひとりがうめいていた。逃げ切れなかったらしい。
「本当に帰る道で待っておったか」
喜八が息を弾ませる。
「言ったけど、当たるとは思ってなかった」
「当ててから申すな」
紗那はそう言いながら、もう敵の腰を探っていた。革袋、火打石、短刀。その奥から、細く折られた紙が出る。
開いた紙には、乱れた墨で川筋が引かれていた。橋。古渡。そして景の知らない北寄りの浅瀬まで、三つ四つの渡りが粗く記されている。脇には小さな紋。昨夜の濡れた布に染め抜かれていたものと同じだ。
「……橋だけじゃないのか」
思わず声が漏れた。
古渡を守った、では済まない。ここで見ていた連中は、ひとつの渡りを試していたのではない。どこから渡れば崩せるか、もっと広く測っていた。
年嵩の武士の顔色が変わる。
「小競り合いの目ではありませぬな」
「渡りを選ぶための目だ」
紗那が紙を見たまま言う。
そこで、縛られた敵のひとりが景へ目を向けた。泥のついた額の下で、その目だけが妙に醒めている。
「軍師、か」
「違う」
反射で返した。
敵は口の端だけで笑った。
「違うなら、なお面倒だ」
景はその言葉に、胸の奥を素手で掴まれたような気がした。軍師だと決めつけられるのも迷惑だ。だが違うと言ったあとで、なお厄介だと返されるのは、もっと嫌だった。自分が何者であるかとは別に、向こうはもうこちらを面倒なものとして数えはじめている。
何も分かっていないのに、相手の計算には入ってしまった。
その事実だけが重かった。
「館へ戻る」
紗那が紙を畳む。
「これで終わりか」
「終わらぬ。輪郭が見えただけだ」
尾根を下るあいだ、さっきまで囮に使っていた木を打つ音がまだ下から聞こえていた。わざと立てた音のはずなのに、今は別の意味に聞こえる。橋を守る。古渡を読む。そんな目先の話の向こうで、もっと大きなものが形を取りはじめていた。
門へ戻るころには、もう噂が先に着いていた。
「景殿が尾根の目を刈った」
「帰る筋まで読まれた」
「紙も押さえたそうだ」
「足が速すぎるだろ!」
景が叫ぶと、庭の隅で口を滑らせた兵が慌てて俯いた。だがもう遅い。人の口は馬より速くはないが、止めるには遅すぎる。
紗那は平然としている。
「盛ってはおらぬ」
「十分盛れてる」
「削っている」
「その基準をやめろ」
言い返しながらも、景の目は紙の入った紗那の袖へ向いていた。橋だけではない。古渡だけでもない。北寄りの浅瀬まで記されていた。渡りを数えている敵がいる。その敵に、自分のことまで見られている。
庭の向こうで、館の主を呼ぶ声が上がった。捕虜と紙を見れば、兵だけで済む話ではなくなる。誰かが座り、誰かが決める。その場へ自分も引っ張り込まれるのだと、景にはもう分かっていた。
《戦域拡大の可能性、高》
「知ってる」
今度は毒づく気にもなれなかった。
紗那が半歩だけ寄る。
「どうした」
「嫌な予感が増えた」
「よい兆しだ」
「どこが」
「鈍い者は、増える前に死ぬ」
相変わらず容赦がない。
だがその言い方のせいで、少しだけ息が通った。優しく慰められるより、ずっとましだった。
館の座敷から低い声が漏れてくる。紙が一枚あるだけで、橋や古渡の話はもう村境の揉め事ではなくなる。見られて終わりではなかった。見返した先にあったのは、敵の背中ではない。その向こうで静かに膨らみはじめた、次の戦の形だった。




