霧の向こうの目
館へ戻るころには、昼の色がもう鈍っていた。
勝ったあとの足取りではない、と景は思った。誰もが敵を追い払った顔をしていない。古渡の冷たい水音と、林の際で止まっていた馬の跡と、その先にいる見えない誰かが、皆の背に薄く張りついている。
門をくぐるなり、紗那は周りの者へ短く命を飛ばした。
「古渡を知る者は口を閉ざせ。知らぬ者には、渡りを守り切ったとだけ言え」
「見ていた者の話は」
「混ぜるな。見たままの順で私へ持ってこい」
兵が散る。庭の端では湯を沸かし、別のところでは濡れた弓弦を替えている。館の中は忙しいのに、声だけが妙に低い。誰も大きく笑わず、誰も勝ちを言い募らない。その代わり、景が通るたびに視線だけが寄ってきた。
頼る目と、怖がる目と、そのどちらでもない、何か見定めようとする目。
景はそれがたまらなく落ち着かなかった。
《敵観測段階を継続。次回行動は応答差分の確認が主目的となる可能性が高い》
「毎回言い回しがいやらしいな」
《平易化します。相手は、こちらがどう動くかを見たい》
「それはもう分かってる」
《推奨。可視域での偽装増幅。真防衛線は低視認状態で維持。既知信号体系の反復使用は避けるべきです》
景は足を止めた。
「……見えるところだけ忙しそうにして、本命は黙って隠せってことか」
《近似値として許容します》
腹が立つくらい素直に肯定された。
紗那が振り返る。
「今の独り言は、使えるものか」
「独り言じゃないと言い張りたいけど、説明が面倒だから独り言ってことにしておく」
「つまり、使えるのだな」
「そこだけ拾うなよ」
だが紗那はもう、景が口を滑らせるのを待つ顔になっていた。こういう時のこの人は本当に逃がさない。
景は庭の向こう、橋へ続く道を見た。館の西からは古渡へ下る細道がある。東には橋。林の際から見張っていた相手がいるなら、館の出入りも、土煙も、火の煙も、ある程度は見えるはずだった。
「この館、外から見える場所ってあるか」
「杉林の上の尾根だ」
紗那は即答した。
「今朝の馬跡も、そこへ向いていた。向こう岸と橋道、それに門前の動きまでは拾える」
「じゃあ、見せよう」
「何を」
「こっちが橋を怖がってるように」
紗那の目が、少しだけ細くなった。
そのまま年嵩の武士と喜八も呼ばれた。四人が土間の隅へ寄ると、外の兵たちまで息を潜める。景はその気配に負けそうになりながら、頭の中の雑な考えを無理やり言葉にした。
「橋板、戻すふりだけしてくれ。材木も縄も、人手も、目立つように出す。槍も弓も、見えるところへ多めに運ぶ。鍋の煙も上げたい。飯の支度でも何でもいいから」
「橋を固めると見せるわけか」
年嵩の武士が言う。
「そう。で、古渡は静かにする」
「今朝、敵を崩した場所をか」
「だからだよ。向こうはたぶん、こっちがまたあそこへ寄せると思ってる」
言いながら、景は自分の説明があまり上手くないことを自覚していた。だが紗那はそこで受け取ったらしい。景の言葉の、まだ形になっていないところを勝手に組み替える顔になった。
「橋で兵を食う、と敵に思わせる。その間、古渡は見えぬまま残す」
「まあ、そういう感じ」
「感じで戦をするのか」
年嵩の武士の声には半分あきれが混じっていた。
景は肩をすくめる。
「向こうだって全部見えてるわけじゃない。遠くから見たら、忙しそうなほうを本気だと思う」
そこで喜八がぽつりと言った。
「確かに、急いで見ればそう見えますな」
三人の視線がそちらへ向く。喜八は少し気まずそうに頭を掻いた。
「見張りなんぞ、ゆっくり数を勘定しておれぬでしょう。荷を運ぶ者が何度も往き来すれば、多く見える。煙が上がれば、飯も兵も多いと思う。わしでもそう思う」
紗那はそこで頷いた。
「よい。では橋道は騒がしく使う」
景が慌てる。
「騒がしいって言っても、ばらばらに騒ぐのは駄目だぞ。向こうに見せるための動きだけでいい。中の伝令は減らしたい」
「合図は」
「橋は太鼓を鳴らしていい。でも古渡は鳴らさない」
「鳴らさぬ?」
今度は紗那が訊き返した。
「今朝の三つは、向こうも聞いてる」
景は自分の胸の奥に残っていた嫌な感じを言葉にしていく。
「橋で騒いで、林で見て、古渡でやられた。向こうが次に知りたいのは、こっちがまた同じように寄るかどうかだろ。なら、古渡だけは音を消す」
紗那が黙った。
喜八も、年嵩の武士も黙った。
景はたぶん変なことを言っているのだと思った。だが、あの三つの太鼓を待っていた朝の息苦しさが、まだ体に残っている。決まりがあるのは楽だ。だが決まりが見えれば、相手にも読まれる。
「寄せる時は走る役だけ。人数も絞る。見張りは手で伝えろ。旗でも布でもいい。とにかく、向こうの耳には橋しか聞かせない」
しばらくして、紗那が口を開いた。
「景殿は、敵の目だけでなく耳まで釣る気だ」
「そんな大層な言い方してない」
「だが、やることはそうだ」
その言い方で、話が急に筋になってしまう。毎度のことながら厄介だった。
紗那は振り返り、庭へ向かって命じる。
「橋道へ材木を運べ。折れた板も捨てるな。縄と杭を見えるところへ積め。飯は早めに炊け。煙を絶やすな。門前の往き来は増やせ。ただし、同じ者を無駄に走らせよ」
最後の一言で、庭の空気が少しざわついた。
「無駄に、ですか」
「見せるためにだ。手を止めるな。だが橋へ本当に寄せる兵は増やすな」
兵たちが動き出す。板が運ばれ、縄束が積まれ、槍が何度も門前を往復する。同じ顔ぶれが何度も通るのを見て、景はだんだん不安になってきた。
「これ、子どもだましじゃないか」
「見る者が急げば、粗さは都合よく埋まる」
紗那は当然のように言った。
「急いで見たい者ほど、見たいものを見る」
その一言が妙に冷たく正しくて、景は口をつぐんだ。
西日が傾くころ、橋道のほうは本当に慌ただしく見えはじめた。木を打つ音が響き、煙が二筋三筋と立ち、門の外ではわざとらしいほど人影が動く。逆に古渡へ向かう裏道は、荷も声も消えた。行くのは紗那が選んだ者だけだ。足音を知っている百姓と、小舟の男と、弓二人、槍四人。景まで数えても、あまりに少ない。
古渡の岸は、朝より暗かった。
霧はない。代わりに夕靄が低くたまり、水面の色を鈍くしている。朝に倒した白い杭はまだ半分だけ沈み、流れの筋を知る者にしか、そこがどれだけ嫌な場所か分からない。
景は低い草の陰に身を伏せた。右に紗那、少し離れて喜八。誰も口をきかない。橋の方角からだけ、遠く太鼓の音が聞こえる。わざとらしく、何度も。
「本当に来ると思うか」
景が小声で訊くと、紗那は水面を見たまま答えた。
「見ている者がいるなら、来る」
「来なかったら」
「橋を恐れて騒いだ一日になる。それだけだ」
「十分恥ずかしいんだけど」
「おぬしは恥を嫌がるわりに、よく戦に使うな」
景は返す言葉に詰まった。
嫌な思い出ほど頭に残る。人目も、失敗も、笑われる感じも。現代で身についたその手の感覚が、こんな時代で役に立つとは思わなかった。
《敵接近。少数前衛、後方に観測主体》
胸元が短く震える。
「……いるのか」
「何がだ」
「来る」
それだけ言うと、紗那はもうそれ以上は訊かなかった。手を軽く下げ、岸沿いに伏せた者たちへ合図を流す。音はない。草が少しだけ動く。
やがて、向こう岸の暗がりに影が出た。
一人。次に二人。朝の溺れた連中とは歩き方が違う。様子を見ながら、それでも止まりすぎず進む。後ろにはさらに数人いるらしいが、岸からははっきり見えない。そのまた奥、木立の脇に馬の頭らしい黒がひとつ浮かんでいた。
景の喉が鳴る。
敵は橋の太鼓を聞いているはずだ。こちらが静かなままなのを、どう思うだろう。気づいていないと見るか、寄せきれないと見るか。
先頭の男が水へ入った。朝よりずっと慎重だ。足を探り、石の筋を見ようとしている。
そのぶん遅い。
景はそれを見て、逆にまずいと思った。慎重な相手なら、浅瀬のずれにも気づくかもしれない。KM-07 の声が重なる。
《現在介入を推奨。上陸点で分断可能》
今か、と景は思った。だが次の瞬間、別の違和感が先に立つ。先頭ばかり慎重で、後ろが静かすぎる。試しているのは前の二人だけだ。その後ろは、踏み込む気配をまだ出していない。
景は朝に倒した白杭を見た。半分沈んだままのそれが、夕靄の中で妙に目立つ。
試しだ。まだ本気ではない。
「待て」
景は囁いた。
紗那が一瞬だけ横目を寄越す。
「まだ」
敵の二人がさらに一歩進む。膝まで。腿まで。そこで後ろへ小さく手を振った。向こう岸の影が動く。
今度は三人、四人と寄ってきた。急いではいない。だが「行ける」と伝わった時の、あの少しだけ雑になる足運びを景は見た。
「今だ」
自分でも驚くほど、声がよく出た。
次の瞬間、古渡の岸が生き物みたいに起き上がった。
伏せていた弓が二本、近い距離から鳴る。先頭のひとりが水へ膝を折り、後ろがたたらを踏む。その拍子に、朝からずらされた流れへ列が寄った。足元が揺らぐ。踏み直した者からさらに深いほうへ入る。
「右を塞げ!」
紗那の声が飛ぶ。
喜八たちが岸際だけへ踏み込み、上がり口を槍で切る。水の中へ深追いはしない。上がれそうな場所にだけ刃を見せる。そのために待ったのだと、景はようやく気づいた。
敵は引くにも押すにも半端な位置で詰まった。
後ろから鋭い声が飛ぶ。あの馬の陰だ。見ていた者が、ついに口を出したのだろう。
《観測主体、発声》
「白い杭の奥!」
景が反射で叫ぶと、弓の一人がそちらへ放った。馬が高くいななき、黒い影が跳ねる。人が落ちたかどうかまでは見えない。ただ、その一声で向こうの整い方が明らかに乱れた。
水面が大きく崩れる。退く者、押される者、仲間を掴む者。夕靄に溶けていた影が、そこで初めて個々の慌てた人間の形になった。
「岸を越えるな!」
紗那の制止が重なる。
それだけで味方は止まる。朝の勝ち気がもう兵の脚を動かしかけていたが、その一言で踏みとどまる。追えば散る。散れば見られる。そういう戦になっていた。
やがて敵は完全に引いた。向こう岸の木立へ黒が吸われ、馬の蹄だけが少し遅れて消える。
残ったのは、濁った水と、流れに引っかかった一本の笠だった。
景はその場へ座り込みそうになる膝を、どうにか堪えた。朝より短い。けれど妙に疲れた。見えない誰かの目を相手にしていたせいかもしれない。
紗那がすぐそばへ来る。
「今の『待て』は何だ」
「前の二人だけ見ても駄目だと思った」
「ほう」
「試してるだけだった。後ろがまだ乗ってなかった」
自分で言ってみて、そんなことが本当に分かっていたのかと景は思う。半分は勘だ。半分は、さっきのAIの指示に逆らっただけかもしれない。
《評価。結果は良好》
「その言い方だと、やっぱりさっきは早かったんだろ」
《標準解とは異なります》
「だろうな」
紗那は景の独り言を気にした様子もなく、川向こうを見たまま呟いた。
「敵は、こちらが同じようには動かぬと知った」
「それ、いいことか悪いことかどっちだ」
「両方だ」
館へ戻る途中、百姓が小声で何度も「本当に音を出さぬとは」と繰り返していた。橋の方では、結局一度も敵は大きく現れなかったらしい。太鼓と煙だけが、夕暮れまで無駄に元気だった。
門へ入ると、待っていた兵たちが一斉にこちらを見た。朝とはもう違う目だった。半信半疑の膜が薄くなり、そのぶん何か危ういものへ近づくみたいな熱が混じっている。
「景殿、また古渡を読み切ったと聞きました」
「読んでない。黙ってただけだ」
「黙して敵を誘うとは」
「違う、だからそういうのじゃ」
「景殿は見られていることまで戦に入れておられる」
紗那が平然と言い切った。
その一言で、周りの空気がすっと決まる。景が何を否定してももう遅い。兵たちはそれぞれに、自分の分かる言葉へ直して受け取っていく。
「橋を囮に」
「古渡を沈め」
「しかも音まで消して」
「盛るな!」
思わず叫ぶと、何人かがかえって神妙な顔で頷いた。最悪だった。
そのざわめきの中を、年嵩の武士が一枚の濡れた布を持ってきた。さっきの水際で拾ったものらしい。泥を拭われたそこには、見慣れない小さな紋が染め抜かれている。
「川向こうの雑兵が勝手に寄せたなら、こうはならぬでしょうな」
「分かるのか」
「名のない寄せ集めではない、という程度には」
武士は低く言った。
「見ていた者は、どこぞの家の目付か、それに近い者かもしれませぬ」
景は喉の奥が冷えるのを感じた。
ただの小競り合いでは済まない。誰かが見て、比べて、持ち帰る。橋のことも、古渡のことも、そして自分のことまで。
門の外ではもう夜が深くなりはじめていた。さっきまで太鼓を鳴らしていた東の空は静かで、その静けさの向こうに、別の動きがじわじわと広がっていく気がした。
紗那がその布をたたみ、景へ視線を向ける。
「明日からは、こちらが見る番だな」
「やめてくれ。今日で十分だ」
「足があるなら、十分ではない」
またそれだ、と景は思う。
だが笑い返す余裕はなかった。見えない相手に見られたまま、夜が来る。その重さだけが、今度は橋の泥より深く、胸の底へ沈んでいった。




