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未来AIの戦術が理解できない俺、室町で名将と呼ばれる  作者: 堀吉 蔵人


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4/10

霧の古渡

眠れたかと問われれば、景にはうまく答えられなかった。


 横になった覚えはある。白湯も飲んだ。けれど館の内では夜通し、誰かが戸を引き、誰かが走り、誰かが小声で相談していた。傷の浅い者は物を運び、傷の深い者はうめき、見張りは声を低く回す。人の数は多いのに、どこもひどく静かで、その静けさがかえって眠りを遠ざけた。


 明け方の土間は冷えていた。板壁にもたれて外を見ていると、庭の向こうから囁きが流れてくる。


「橋で敵を沈めたそうだ」

「いや、林の人数を読み切ったのだ」

「捕らえた者が景殿の前で口を噤んだ、と」


 景は目を閉じた。


 昨夜、自分がしたのは、橋の前で慌て、林の影にぞっとし、納屋で泥と紐を見比べただけだ。だが夜を越えるうちに、それらはもう別の形へ変わりはじめている。


《風説の収束を確認。現段階なら誘導可能です》


「その言い方、毎回いやなんだけど」


《放置時の不利益が大きいためです。誤認は指揮の代用品になります》


「代用にされたくない」


《しかし既に進行中です》


 妙にきっぱりしていて腹が立つ。景は返事の代わりに膝を抱えた。


 空が少し白んだところで、紗那が庭へ出てきた。夜露を吸った袴の裾を払う仕草まで無駄がない。甲冑はまだ着けていないのに、そこへ立つだけで周囲の空気が締まる。


「景殿」


「おはよう。たぶん、おはようでいいんだよな」


「朝が来た。そこだけは確かだ」


 紗那はそう言って、庭の中央へ進んだ。既に兵が十人あまり集められている。喜八のほか、年嵩の武士も二人いた。皆、睡眠不足の目をしているのに、景が出てきた途端、その視線だけが妙に揃う。


 やめてほしい、と景は思った。昨日までなら、こんな視線は向けられなかった。


「古渡を見てきた者の話を聞いた」


 紗那が言う。


「流れは浅いが、筋がまっすぐではない。土地の者は杭を見て渡る。知らぬ者は水に引かれる」


「杭?」


 景が訊くと、紗那は頷いた。


「白く削った柳が二本。霧の朝でも見える」


 その言葉で、昨夜から胸の奥に貼りついていた嫌な感じが、やっと輪郭を持った。橋で騒がせ、林で人数を見て、今度は古渡。敵は渡りそのものを欲しているというより、こちらがどこへ何人寄せるか、その速さまで測っている。


《敵目的を更新。主眼は占拠より観測。多方向に圧をかけ、応答規則を抽出中》


「また難しいことを」


「何だ」


 紗那がこちらを見る。兵たちもつられて見る。


 独り言で済ませるには、庭が静かすぎた。景は鼻先を指で押さえ、言葉を探した。


「……合図を減らしたほうがいい」


「減らす」


 紗那の復唱は短かったが、その場の全員が続きを待った。


「見えた。試した。渡ってきた。この三つだけに分ける。あとはいらない」


 言ってしまってから、自分でもずいぶん乱暴だと思う。だがこの時代では、細かい理屈ほど走る途中で消える。誰かが一つ言い添えただけで、別の話になる。


「太鼓一つなら、見えただけ。二つなら、こっちを探ってる。三つなら本当に渡るつもりだ。その三つ以外では大きく動かない」


 年嵩の武士が眉をひそめた。


「待ちすぎれば、奪われませぬか」


「全部に兵を振ったら、向こうの思う通りになる」


 景は自分でも驚くほど、すぐに答えていた。


「見つけたのと、岸へ寄ったのと、水へ入ったのは違う。そこを混ぜると、伝令が来るたび皆ばらばらに動く」


 喜八が景を見た。昨夜、水門へ走った時の汗臭い顔のままだが、今は目だけが妙に真剣だ。


「三つまでなら、覚えられます」


「四つ目から怪しくなるだろ」


「五つあれば、わしは怪しい」


 喜八が真顔で言い、何人かが低く笑った。緊張が一瞬だけ緩む。


 紗那はその隙を逃さなかった。


「一つは見えた。二つは試し。三つで寄せる。これを今朝の決めとする」


 兵たちが応じる。声は大きくないが、昨夜よりずっと揃っていた。


 それで終わるかと思ったら、紗那はなお景から視線を外さない。


「まだあるな」


「何でわかる」


「その顔だ」


「そこを読むの、やめてくれ」


「やめぬ」


 景は古渡の方角へ目をやった。霧が低く溜まり、木立の裾が曖昧に霞んでいる。


「白い杭、少し動かせるか」


 庭の空気が変わった。


 誰も口を挟まない。代わりに、兵たちの息づかいだけがやけに近くなる。


「古渡の目印を、ずらすと」


 年嵩の武士が慎重に言う。


「半間もいらない」


 景は言葉を選びながら続けた。


「向こうが夜のうちに実際に渡って確かめてたら駄目かもしれない。でも、火を置いて遠くから見ただけなら、朝はあの白を頼る。少しでも流れの強いほうへ寄せれば、列が崩れる」


「こちらの者まで危うくなる」


「だから古渡を知ってる人間だけに知らせる」


 黙り込んだ庭に、朝の鳥の声がひとつ落ちた。


 紗那は景を見たまま、しばらく何も言わなかった。景はその沈黙の長さで、自分がとんでもないことを口走ったのだと改めて思い知る。戦の目印を動かす。村の者からすれば、冗談では済まない話だ。


 やがて紗那は庭の隅へ向き直った。


「古渡を日々使う者を呼べ」


 若い兵が駆けていく。


「信じるのか」


 景が小声で訊くと、紗那は平然と返した。


「昨夜、橋板の落ちどころを当てた者の言葉だ。捨て置く理由がない」


「その言い方されると余計に怖いんだけど」


「私は少し愉快だ」


「最悪だな」


 紗那の口元が、ほんのわずかに動いた。


 呼ばれてきたのは、古渡の近くで田を見回る百姓と、小舟を扱う男だった。三人で現地へ向かう。景は霧の中を歩きながら、何度も「本当にこれでいいのか」と思った。だが古渡を前にすると、その迷いは少し薄くなる。


 川幅は広くない。ところが途中で石の並びが乱れ、水の色が急に深くなる。白い柳の杭が二本、ちょうどそこを避けるように立っていた。土地を知らぬ者には、あれが道に見えるだろう。


「ほんの少しだけ」


 景が言うと、百姓は露骨に顔をしかめた。


「これを動かすのですか」


「戻すのはあとでできる」


 紗那の声は短かった。逆らう余地を与えない声だった。


 杭は引き抜かれ、流れを知る者にしかわからぬ程度にずらされた。ほんのわずかだ。だが霧の向こうでは、そのわずかが大きい。景は自分の喉が乾くのを感じた。上手くいけば敵が乱れる。失敗すれば、こちらが危うい。


《許容範囲内。現地知識保有者への限定共有を推奨》


「それ、もう終わってる」


《適切です》


 珍しく素直に肯定されて、景はかえって腹が立った。


 館へ戻ると、庭は既に慌ただしかった。太鼓の位置が決め直され、法螺を持つ者の順が整えられ、走る役の兵がはっきり分けられている。昨夜までなら、誰もが自分の判断で声を張り上げていたはずだ。三つまで、と決めたことで、かえって皆の迷いが減っていた。


 最初の太鼓は東から一つ。


 庭にいた兵がぴくりと反応する。しかし誰も駆けない。景も門の方へ顔を向けたまま、息だけを浅くした。


「見えた、だけだ」


 紗那の声が落ちる。それだけで兵たちは持ち場に留まる。


 次は南から二つ。今度は槍が触れたらしい。喜八が一歩出かけ、すぐに堪えた。三つを待つ。待たされること自体が、ひどく重い。走らなくて済んでいるのに、胸の内だけが忙しい。


 やがて西から、重い音が三つ、続けて響いた。


「古渡だ」


 紗那が身を翻す。


 今度は迷いがなかった。寄せる兵は西へだけ集まる。東と南には最低限が残される。景も後を追った。草履が泥を跳ね、露を含んだ草が脛を濡らす。昨日のように、何も見えぬまま走るのとは違う。どこへ向かうかが決まっているだけで、息の上がり方まで少し違った。


 古渡へ近づく前から、水の荒れる音が聞こえた。


 霧の向こうで、誰かが怒鳴っている。岸へ出た景は、思わず足を止めた。


 白い杭に導かれた敵兵が、浅瀬の外れでまとめて崩れていた。先頭は膝ほどのつもりで入ったのだろう。ところが実際は腿近くまで沈み、後ろはそれが見えないまま押す。槍を上げれば足元が見えず、足元を見れば前に構えられない。列が乱れ、横へ避けた者ほど深いところへ寄る。


「射て!」


 紗那の声で、岸の低みに伏せていた弓兵が立ち上がる。近い距離から放たれた矢が水面を裂いた。深みに足を取られた敵は、踏ん張りが利かない。一本受けるだけで、姿勢がさらに崩れる。


 それでも向こうにはまとめ役がいた。後ろから鋭い声が飛び、乱れた列を引き締めようとする。


《指示主体推定。後列右寄り、白布の近傍》


 景は反射でそちらを見た。霧の中、確かに白い布の巻かれた杭の脇に、周りより動きの少ない影がひとつある。


「あの白い杭を倒せ!」


 叫んだ瞬間、自分でも何を言ったのかわかった。


「その横にいるやつのところ!」


 喜八が真っ先に応じた。岸から踏み込みすぎない位置で長柄を振るう。白い杭がぐらりと傾き、水へ落ちた。


 目印が消えた途端、敵の列が明らかに揺れた。


 前へ出るべきか、引くべきか、その判断が一瞬遅れる。その一瞬で十分だった。紗那が槍兵に合図し、岸際へ上がりかけた者だけを払わせる。深追いはしない。浅瀬から這い上がる場所を塞ぐだけで、敵は自分から崩れていく。


 大きな水音が続けて二つ、三つ。罵声が上がり、それがすぐ退き際の声へ変わる。最初は押し込もうとしていた敵兵が、今は水から抜けることばかり考えていた。


「止まれ。岸を越えるな」


 紗那の制止は早かった。熱くなった兵たちも、それで踏み留まる。


 霧の向こうへ敵の姿が消えていく。残ったのは、折れた矢と濁った水だけだった。


 景は膝へ手をついて息を吐いた。胸が痛いほど上下する。怖かった。いまも怖い。だが昨夜とは違った。自分の口から出た言葉が、合図の数を減らし、白い杭をずらし、最後に一本倒させた。その流れを、目の前で見てしまった。


「景殿」


 振り向くと、紗那がすぐ横にいた。


「今の声、よく通った」


「通したくて通したわけじゃない」


「だが通った」


 紗那の目は静かなまま、奥だけ少し熱を持っていた。戦の最中にだけ生まれる光だと、景にももうわかる。


 少し離れたところで、年嵩の武士が倒れた白杭を見下ろしていた。やがてゆっくり景へ向き直る。


「奇策、というより、嫌なほど細かい読みですな」


「褒め言葉に聞こえない」


「戦場では上等です」


 それだけ言って、武士は紗那に一礼した。昨夜までの懐疑が、今朝で完全に消えたわけではないだろう。それでも少なくとも、景の言葉を無視はしなくなっている。その変化が、景には妙に重かった。


 百姓が慎重な足取りで近づき、ずらした杭と倒れた杭を見比べている。顔色はよくない。


「戻しますか」


 景が訊くと、紗那は首を振った。


「まだだ」


「また来るのか」


「今朝ので終わるなら、橋で試さぬ。誰かがこちらの寄せ方を見ている」


 その言葉を裏づけるように、林縁へ回っていた見張りが駆け戻ってきた。


「古渡の奥に馬の跡がございます。今朝の者らより後ろ、林の際で止まり、そこから先へは出ておりませぬ」


「人数は」


「多くはございませぬ。重い者が一人か二人、供がいくらか。戦の最中に前へ出る類ではなく、見るために来たように思えます」


 景は川向こうの霧を見た。さっきまで敵がいた場所はもう静かで、かえってその先の見えない誰かの存在ばかりが濃くなる。


《評価更新。敵対勢力は観測段階を継続。次回は応答差分の確認を試みる可能性が高い》


「つまり、まだ終わらないってことだろ」


《要約としては正確です》


 景は小さく息を吐いた。


 館へ戻れば、また噂が一つ増えるだろう。白い杭を動かして敵を沈めた。そういう話になるかもしれない。実際には、半分は土地の知識で、半分はたまたまだ。けれどそのたまたまを、自分が口にしたことだけは事実だった。


 川面を渡る風はまだ冷たい。倒れたままの白杭が、水に半分浸かっている。その一本が消えたことで、何人もの動きが鈍り、こちらの矢が間に合った。


 景はその光景をしばらく見ていた。


 昨日まで、自分の言葉で動くのはせいぜい自分ひとりだった。今は違う。一言で兵が走り、一言で留まり、一言で川へ矢が向く。


 霧が薄れても、その重さだけは少しも軽くならなかった。

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