見た者と聞いた者
戻る道は、勝った帰りにしては静かすぎた。
橋を守り切ったのだから、誰かひとりくらいは大声を出してもよさそうなものなのに、足軽たちは槍を肩に掛けたまま、泥を踏む音だけを連ねて歩いている。景も何か言う気にはなれなかった。さっき溝に落ちた敵兵の腕が、水を掻くみたいに空を切っていたのを、まだ目が覚えている。
勝った、で片づく重さではない。
隣を行く兵が、ちらと景を見る。目が合いそうになると、すぐ逸らす。
その視線が厄介だった。怯えているのか、頼りにしているのか、景には判別がつかない。たいていその二つは、外から見るとよく似ている。
「歩けるか」
前を行く紗那が言った。振り返らないままの、よく通る声だった。
「足はある。中身はたぶん落としてきた」
「足があれば十分だ」
「戦っていつもそれなのか」
「まず足が止まらぬ者が残る」
容赦がない。
景は泥を吸った草履を引きずりながら、その背を見た。小柄で、濡れた袖が腕に張りついている。戦の最中は刃みたいな目をしていたのに、こうして歩いているだけだと急に若く見える。そのくせ命じ始めると、年どころか人間の温度まで消える。
やがて一行は、低い土塁と木柵で囲われた館へ入った。村役の屋敷なのか、小さな砦なのか、景にはまだ区別がつかない。ただ門をくぐったとたん、匂いだけははっきり変わった。血と泥の湿った臭いに、湯気と薬草の苦さが重なる。生き残った者を集める場所の匂いだった。
負傷者は土間へ運ばれ、捕らえた敵は裏の納屋へ引かれていく。紗那の「見た者と見ていない者を分けろ」という命が、庭のあちこちを走っていた。橋にいた者、林にいた者、あとから来た者。混ざる前に裂く。それだけでざわめきの質が変わる。
放っておけば、見たことに聞いたことが貼りつく。十人が十一人になり、十一人が三十人になる。橋板が外れたのではなく、景が何か唱えて田を沈めた話にだってなるだろう。
戦では矢より先に、そういうものが飛ぶ。
土間の隅に座らされ、白湯へ塩をひとつまみ落とした椀を渡された。湯気が鼻にしみる。口に含むと、塩気が喉の奥へ落ちていくのがわかった。
《脱水》
「遅いんだよ」
思わず漏らすと、脇にいた年若い足軽がびくりと肩を震わせた。
「も、申し訳ございませぬ」
「いや、君じゃない」
「では、どなたに……」
「独り言」
景が答えると、足軽は困った顔で半歩ぶん下がった。少し離れたところで別の兵がひそひそと言う。
「やはり見えぬ何かと話しておられる」
「物の怪憑きでは」
「聞こえてるからな」
二人は揃って首をすくめた。
最悪だった。得体の知れない男と思われるだけでも困るのに、正体が見えないぶん想像で好き放題に補われるのがもっと困る。
その空気を切るように、紗那が土間へ上がってきた。髪を結び直したばかりらしく、首筋に細い水の筋が残っている。彼女が立つだけで、周りの気配が勝手に引いた。
「景殿」
「今度は何だ」
「一人、見てもらう」
「怪我は無理だぞ」
「怪我ではない」
拒む間もなく踵を返される。景は椀を置いて立ち上がった。背中へ、また兵たちの視線が刺さった。さっきよりも期待が混じっているのがわかってしまう。
納屋の中は暗く、湿っていた。油皿の火が梁の下で細く揺れている。柱に縛られた敵兵がひとり、壁にもたれて座っていた。溝へ落ちたまま引き上げられた男だ。泥で固まった髪の下で、目だけが妙に強い。
その前に、紗那がしゃがんでいた。
「口は重い。名も、どこの者かも言わぬ」
男は唾を吐こうとして、喉の乾きに負けたらしい。小さく咳いただけで黙った。
景は気が進まなかった。縛られた相手を覗き込む立場に、自分がいること自体が嫌だった。だが目を逸らせば、それでもう済む気もしない。
《観察》
胸元の短い音声に背を押されるように、景は男の前へしゃがみ込んだ。
鎧は派手ではない。だが、寄せ集めにも見えなかった。札を綴じる紐の太さが揃っている。脛当ての革紐はどれも新しい替えが入っていて、結び方まで似ていた。槍の柄も、泥まみれなのに削れ方が近い。ばらばらの連中が偶然集まった感じではない。出る前に、まとめて支度させた匂いがした。
腰の小袋に目が止まる。
「それ、見てもいいか」
紗那が黙って頷いた。
袋の中には潰れた握り飯の欠け、塩を包んだ油紙、矢羽を直すためらしい細い糸。油紙の端に、濃い藍で小さな印が押されていた。家紋か荷印か、景にはわからない。ただ、こういう細かいものまで同じ場所から渡されたように見える。
「村の揉め事で集まった人間じゃない」
気づけば口が動いていた。
「替え紐も、塩も、補修の糸も、同じところで揃えてる。道で拾った人数合わせじゃない。最初から送り出すつもりでまとめたやつだ」
紗那の目が細くなる。
「ほかに」
景は男の足元を見る。草鞋の鼻緒は二重に巻き直されている。足先には、このあたりの黒い田泥と違う、赤っぽい乾いた土がこびりついていた。粒が粗い。
「遠くから歩いてる。この近くの土じゃない。鼻緒も替えてるから、急ぎ足ではあるけど、最初からある程度の距離を踏むつもりで来てる」
そこで捕虜の喉が、目に見えて動いた。
当たった、と景にもわかった。自分の推理が鋭いというより、答えが相手の格好にそのまま残っていたことのほうが気味悪い。
紗那は男へ向き直った。声は低いままなのに、怒鳴るより逃げ場がない。
「聞こえたな。おぬしが黙っていても、こちらは拾える」
男は目を逸らした。
「橋を奪うことだけが目的ではない。こちらがどれほど早く集まり、どれほど深追いするか、それを見た。違うか」
男の眉がかすかに動く。
景はそこで、ようやく引っかかったものの形が見えた。もし橋が本命なら、あの引き方はきれいすぎた。崩れたまま逃げた連中にしては、林の奥へ消える気配が揃いすぎていた。負けて終わりではなく、見て帰るための後退に近い。
「……軍師か」
捕虜が、初めてはっきり声を出した。
景の肩がこわばる。
「違う」
「荷を見て、土を見て、そこまで言うなら似たようなものだ」
「似ても困る」
男は割れた唇の端だけで笑った。
「なら、なお厄介だ」
それだけ言って、また口を閉ざした。
外へ出ると、夜気が肌に貼りついた。庭では湯を沸かす音がし、土間の向こうから負傷者のうめきが細く流れてくる。館じゅうが声を潜めて動いているせいで、かえって人の気配ばかりが濃かった。
「今ので、何かわかったのか」
景が訊くと、紗那は歩きながら答えた。
「村争いではないと、皆に言えるようになった」
「皆に言うのか」
「言う」
迷いがない。
「ただし、広がる形はこちらで決める」
景は少し黙った。見た者と見ていない者を分けた理由が、そこでようやく腹へ落ちる。噂が勝手に育つ前に、骨組みだけこちらで渡してしまうのだ。
「景殿が敵の揃いを見抜いた。橋だけでなく、その後ろの意図も読んだ。そう伝わる」
「増えてる」
「減らしてどうする」
「増やす前提なのかよ」
「派手な話は足が速い。なら、こちらに都合のよい向きで走らせる」
紗那はごくわずかに笑った。
「安心しろ。おぬしが呪で田を沈めた、とまでは言わせぬ」
「そこが基準なの、本当に嫌なんだけど」
「兵はその手の話が好きだ」
「知りたくなかった」
そのとき、門のほうで足音が跳ねた。泥だらけの伝令がひとり駆け込み、膝をついたまま息を整える。
「西の古渡に火が三つ。さらに奥にも、動かぬ灯が見えます」
「数は」
「見えませぬ。ただ、村の者が焚く位置ではありませぬ。道の口を押さえるように」
古渡。景には地名の重さがわからない。だが橋とは別に渡れる場所なのだろう。そこへ夜のうちから火を置く意味くらいはわかる。
橋で騒がせ、林から押し、引いたあとで別の渡りを見る。
頭の中でばらばらだったものが、そこでようやく一枚になる。
「……囮か」
景は自分の声に気づいて、少し遅れて息を呑んだ。
《妥当》
KM-07 の声は、そのあとで来た。
紗那が横顔のまま訊く。
「何が見えた」
「橋だけ取るつもりなら、引き方が変だ」
景は門の外の闇を見た。
「最初の橋でこっちを急がせて、林で押して、こっちがどれだけ早く集まるか見る。そのあとで別の渡りに火を置く。ひと口を噛んで終わりじゃなくて、どこから入ると痛いか探ってる」
伝令の若者が顔を上げた。紗那は黙ったまま聞いている。
「明日はもっと嫌な来方をすると思う」
「どんな」
「そこまでは知らない」
景は正直に言った。
「でも、今日みたいに一つの口だけで済ませる気はない。渡りをいくつか見て、こっちの足をばらす。走らせたいんだ」
言い終えてから、自分の声が思ったより落ち着いていたことに気づいた。怖くないわけではない。むしろ怖さに形がついたぶん、口に出せたのかもしれない。
紗那はしばらく景を見た。庭の薄暗がりで、その目だけが妙に澄んでいる。
「よい」
やがてそう言って、伝令へ向き直る。
「古渡へは二人だけやれ。近づきすぎるな。火の位置だけ見て戻れ。見たことを見たまま持ち帰れ。聞いたことは足すな」
「はっ」
「それと、門の内の者には伝えよ。今夜の敵は橋を試しただけだとな。景殿はその先を読んだ、とも」
景がすぐさま振り向く。
「待て待て待て」
「何だ」
「いま最後に余計なのが入った」
「必要だ」
「必要でも勝手に盛るな」
「盛ってはおらぬ。削っている」
「何を基準に削ったんだよ」
「物の怪憑きの噂」
「そっちのほうがまだ安い気がしてきた……」
紗那は本気なのか冗談なのか判別しづらい顔で、ほんの少しだけ肩を揺らした。
伝令が走り去る。門の内では、もう小さな声がいくつも立ち始めていた。橋板がどう落ちたか。林の人数をどう読んだか。納屋の捕虜がどんな顔をしたか。そのどれもが、明日の朝には景の知らない形になるのだろう。
「今夜は門の内で休め」
紗那が言う。
「逃げるな。隠れるな。私の見えるところにいろ」
「命令が増えていくな」
「景殿が増やしている」
「納得いかない」
「私もだ」
そう言ってから、紗那は少しだけ声を落とした。
「だが、おぬしが見たものは使う。敵も噂も、遅く来るものほど面倒だ」
景は返事をしなかった。
土間へ戻ると、白湯の椀はまだ少し温かかった。指先の泥は乾きかけて、爪の縁に黒く残っている。こすっても落ちない。さっき踏んだ田の泥か、敵が落ちた溝の泥か、それとも館の庭の泥か、もう景には区別がつかなかった。
《語彙追加候補。一、慧眼でした。二、恐るべき洞察です。三、非標準的判断ながら有効でした》
「三だけ、おまえの本音だろ」
《はい》
景は小さく息を吐いた。笑いともため息ともつかない音だった。
門の向こうでは、見張りが夜番の声を低く回している。遠く、西のほうに置かれた火は、ここからはもう見えない。それでも頭の中には残っていた。暗い野のどこかで、動かない灯がこちらの道を測っている。
橋ひとつで終わる話ではない。
明日になれば、また誰かが景を軍師と呼ぶのかもしれない。物の怪憑きと囁くのかもしれない。どちらでもよかった。そんな呼び名より先に、自分の口から出た言葉で人が走り、槍の向きが決まる、その事実のほうがよほど重い。
椀を持つ手に、まだわずかに震えが残っていた。
それでも今夜は、逃げるより先に火の位置を考えてしまう自分がいた。




