鐘二つの先
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二度目の鐘は、短かった。
さっきの鐘が山を撫でるように長く伸びたのに対し、今度の音は刃物で縄を切るように途切れた。余韻は薄く、竹藪の葉擦れにすぐ飲まれる。
景は足跡から目を離せなかった。
竹の根元に残った一つの跡。踵が深く、つま先は外へ向いている。立ち止まって見たあと、すぐ山側へ逃げたようにも見える。泥はまだ柔らかく、縁に水がにじんでいた。
「さっきの人、まだ近い?」
声が勝手に細くなる。
紗那は答えず、足跡の先を追った。竹の葉を払う音が小さく続き、すぐに戻ってくる。
「二人分ある。片方は草を踏むのに慣れている。片方は下手だ」
「下手?」
「枝を折っている」
紗那が折れた竹の小枝を見せた。折り口は白く、新しい。景はそれを受け取ろうとして、手を止めた。触れば何かを壊す気がした。
権爺が鐘の方角を見たまま言う。
「二度、二度でございますな」
「どういう意味?」
「寺の鐘に定まった合図はございませぬ。されど、同じ鳴らし方を二度するなら、聞かせたい相手が二つあるのでございましょう」
「二つ……」
西の竹藪。北の村。寺。津田。鹿島。
景の頭の中で、場所の名前だけが散らばった。地図の上なら指でつなげる。だが現実の山は湿っていて、道は曲がり、声は届かず、人は思ったより遅く歩く。
《状況再評価》
《外部観測点: 複数》
《推奨: 情報流通経路を制御。敵意思決定速度を上げ、行軍同期を破壊》
「同期を……」
景は口の中で繰り返した。
権爺が振り向く。
「何か」
「いや。ええと、相手が一緒に来るのを、ずらす?」
《概略として妥当》
概略として妥当、と言われても、何をすればいいのかは分からない。
西の道をふさがない。見られたものは、見せたことにする。寺の鐘は鳴った。北の村は半分だけ米を受け取った。
どれも中途半端だった。
中途半端なものを、敵がどう見るか。
「軍師殿」
山側の見張りが駆け戻ってきた。息を殺して走ったのか、肩だけが大きく上下している。
「竹の奥で、笠を落としておりました」
差し出された笠は、編み目の粗い古いものだった。縁に泥がついている。内側に、短い藁が二本結ばれていた。
権爺がそれを見て、顔をしかめた。
「津田の下働きが使う結びに似ております」
「津田?」
足軽たちの間に低いざわめきが広がる。
「鹿島ではないのか」
「津田がもう西へ?」
「北に鹿島、西に津田なら、挟まれるぞ」
その言葉だけ、景の耳に残った。
挟まれる。
地図の線ではなく、自分の体が左右から押される感じがした。西の道に津田が来る。北の山側に鹿島が回る。寺は鐘を鳴らし、北の村はどちらにも顔を向ける。館にいる人数は多くない。丸太も石も、まだ泥の上で濡れているだけだ。
《脅威仮説: 津田勢西方進出、鹿島勢北方接近》
《挟撃確率: 上昇》
《推奨: 西方遅滞線を維持。北方観測点を保護。中央戦力を温存》
「温存って、何もしないってこと?」
《否。決戦投入を遅延》
「同じに聞こえる」
紗那が景の横顔を見た。
「何が聞こえる」
「嫌なこと」
「それは皆同じだ」
景は笠を見た。津田のものかもしれない。そう見せたいだけかもしれない。見つけた瞬間に皆が津田の話をし始めた。鹿島の名を口にする者もいる。敵が二つに増えたのではない。もともと二つあった恐怖が、形を持っただけだ。
「この笠、見えるところに置いて」
権爺が眉を動かす。
「置くのでございますか」
「隠すと、持ってる人だけが知ってる話になる。見えるところに置いたら、みんな同じものを見る」
「敵に拾わせる恐れも」
「拾われてもいい。俺たちが拾ったことを、拾わせる」
自分で言って、景はまた意味が分からなくなった。
紗那は笠を受け取り、西の丸太の上へ静かに置いた。風で飛ばぬよう、泥のついた石を縁に乗せる。
「津田の影を隠さぬ、ということだな」
「いや、そこまで格好よくは」
「鹿島の物見が見れば、津田が先に触れたと思う。津田の物見が見れば、鹿島へ渡ったと思う。どちらも急ぐ」
紗那の声は、景の言葉よりずっと戦の形をしていた。
足軽たちが息を飲む。権爺も笠を見て、深くうなずいた。
「道普請に、落とし笠。しかも隠さぬ。これは嫌でございますな」
「俺も嫌だよ」
「敵が、でございます」
景は返事に詰まった。
昼を少し過ぎると、北の村から人が来た。
昨日の老人ではなかった。背の低い女で、頭に薪を載せている。館の門までは近づかず、西の道の手前で薪を下ろした。中から蕪の葉に包んだ木片を出す。
権爺が受け取り、景へ渡した。
木片には、細い字で短く刻まれていた。
北山、鹿島の先触れ増ゆ。
津田の名を借り、夕を待たず。
寺の鐘を聞き、道を急ぐ。
景は三度読んだ。
「鹿島が、津田の名前を使ってる?」
「先に米を取る、と触れていた件でございましょう」
「夕を待たずって」
紗那が言った。
「今夜を待たずに動く」
足元の泥が急に深くなった気がした。
夕まで時間があると思っていた。敵も準備する。村も迷う。寺も様子を見る。そういう曖昧な余白に、景は勝手にすがっていた。
だが鐘が鳴り、道普請が見られ、笠が落ちた。
相手も、待つのが怖くなっている。
《敵行動予測: 先遣隊の前倒し投入》
《リスク: 西方、北方の同時圧迫》
《推奨: 偽装退避路の露出。敵偵察資源の分散を誘発》
「偽装……退避路……」
景は西の道の山側に残した細い通り道を見た。人ひとりなら抜けられる。味方が逃げるために残したつもりだった。だが、そこを敵が見れば、館の者が逃げる道に見えるかもしれない。
「そこ、足跡を増やせる?」
権爺が目を細める。
「誰の足跡を」
「俺たちの。いや、全部じゃなくて。何人かが行ったり来たりしたように」
「本当に使う道でございますぞ」
「だから、使わない道にも少しつける」
景は言いながら、頭の中で道を探した。西の竹藪から少し南に、沢へ下りる細い斜面がある。朝、丸太を運ぶときに一人が滑りかけた場所だ。下りた先はぬかるみで、馬は嫌がる。人も嫌がる。
「あっち。沢に落ちそうな方。そこに草鞋の跡をつける。逃げ道っぽく」
若い足軽が露骨に不安そうな顔をした。
「落ちますぞ」
「落ちないように。跡だけ。無理ならやめて」
紗那がすぐに二人を選んだ。
「軽い者でよい。荷は持つな。行きは草を踏め。帰りは石を踏め。足跡を重ねるな」
景は驚いて紗那を見た。
「できるの?」
「できる者を選んだ」
選ばれた二人は緊張した顔でうなずき、竹の影へ消えた。
権爺は泥に杖で線を引く。
「本筋の細道は残す。沢筋に偽の足跡。丸太の上に津田の笠。北へは礼の使いを絶やさぬ。寺の鐘は聞く」
「うん」
「軍師殿。中央は」
中央。
館に残す人。動かさない人。誰かが攻めてきたとき、最後に踏ん張る場所。
景は門の方を見た。門の内側では、炊事場の女たちが米俵を小分けにしている。子供が小さな袋を抱えて走り、老人がそれを叱る。弓を持った少年は、弦を何度も確かめていた。
みんな動いている。
動いているからこそ、真ん中が空いていく。
「館の前に、何人残せる?」
権爺がすぐ数え始めた。指が折られ、戻され、また折られる。
「戦える者で八。弓が二。走れる童が三。女衆も石は投げましょうが、数に入れてはなりませぬ」
「八……」
少ないのか多いのか、景には分からない。ただ、胸の中では足りないと叫んでいた。
《中央戦力最小値: 現有戦力の四〇パーセント》
「四割って何人だよ」
《現有戦闘員推定二十二。必要中央保持数九》
「九。九人、残す」
景は言った。
権爺がすぐ返す。
「では、西の作業を一人減らします」
「北への使いは?」
「老人では遅い。若いのを一人、ただし武具なしで」
「武具なし?」
紗那が尋ねる。
景は北の村の木片を握った。武具を持っていけば、助けを求めるより脅しに見える。けれど丸腰で行かせるのは怖い。
「礼に行くから。槍を持って礼に行ったら、変だろ」
紗那は少しだけ口元を緩めた。
「変だな」
「笑うところじゃない」
「笑ってはいない」
その顔は、ほんの少し笑っていた。
午後の光が傾き始めるころ、西の沢筋へ足跡をつけに行った二人が戻った。一人の膝が泥だらけになっている。
「落ちた?」
「落ちてはおりませぬ。半分ほど」
「それ、落ちたって言わない?」
「敵には、慌てて逃げた跡に見えましょう」
紗那が泥の付き方を見て、うなずいた。
「悪くない」
「悪くないんだ……」
景は沢筋をのぞき込んだ。草が踏まれ、泥に滑った跡がある。確かに、人が急いで下りたように見えた。だが、その先は湿地で、さらに向こうは倒れた竹が絡む。逃げるには嫌すぎる道だ。
だから、逃げ道に見える。
景には、その理屈が少しも安心をくれなかった。
寺の方から、三度目の使いが来た。
今度は童だった。昨日、本堂で見た少年かと思ったが、違う。もっと幼く、頬に煤がついている。童は門へ近づかず、道の真ん中に座り込んだ。
手には小さな鐘の撞木を持っている。
「寺から?」
景が聞くと、童は首を横に振った。
「寺の下から」
「同じじゃないの?」
「違う」
童はそれだけ言い、撞木を地面に置いた。権爺が拾おうとすると、童は首を振る。
「軍師殿へ」
景はためらってから、それを拾った。木は手のひらに収まるほど小さく、端が少し欠けている。そこに焦げた字があった。
鐘は二つ。
道は三つ。
先に急ぐ者が、後ろを疑う。
景は息を止めた。
「誰が書いた」
紗那の声が低くなる。
童は答えなかった。代わりに、西の道の丸太を見る。そこに置かれた笠を見て、少しだけ目を細めた。
「笠を置いたなら、夕まで持たない」
「何が」
「黙っていること」
童は立ち上がった。逃げるようではない。だが、捕まえるには少し遠い距離を、最初から保っている。
「北は見てる。寺も聞いてる。津田は西の笠を嫌がる。鹿島は津田の名を先に使ったことを悔やむ」
「なんでそんなこと分かるんだ」
「大人が言ってた」
「どこの大人」
童は答えず、山の方へ駆けた。
足軽が追おうと一歩出た。景は反射で言う。
「追わない」
その一言が、今日何度目か分からなかった。
足軽は止まった。止まったあと、不満そうに唇を噛む。景にはその気持ちが分かりすぎた。追えば何か分かるかもしれない。追わなければ、分からないままだ。
けれど分からないものを追うたび、人が減る。
減ったところへ敵が来る。
「軍師殿」
西の見張りが、声を押し殺して呼んだ。
竹藪の奥ではない。もっと遠い、道が曲がる先。木々の間に、人影があった。二つ、三つ。すぐ消える。次に見えたときは、五つに増えていた。
槍の穂先が、夕方の光を一瞬だけ返した。
館の内側から、誰かが息を呑む音がした。
「津田か」
「旗はまだ見えませぬ」
権爺の声は低い。
北の尾根でも、鳥が一斉に飛び立った。遅れて、枝を踏む音が山肌から落ちてくる。そちらは姿が見えない。見えない方が、景には怖かった。
西に影。
北に音。
寺の鐘。
鹿島の先触れ。
津田の笠。
全部が、一度に景の前へ出てきた。
《挟撃危機: 顕在化》
《推奨: 交戦回避。遅滞線発動。敵先遣隊を分離。中央保持》
「発動って、何を」
《既設障害物、偽装退避路、情報露出物の組み合わせ》
「日本語で言ってくれ」
《敵が勝手に迷う配置を維持せよ》
それなら少し分かる。
景は丸太を見た。笠を見た。沢筋の足跡を見た。山側に残した本当の細道を見た。どれも頼りない。頼りないものを並べて、敵が勝手に怖がるのを待つ。
そんな作戦があるのか。
たぶん、ない。
「西は、撃つな。叫ぶな。笠を動かすな」
景は言った。
自分の声が思ったより通って、逆に驚いた。
「山側の本当の道には二人。見えないように。沢の偽の跡には、誰も置かない。北へ行った使いが戻る道を空ける。館の前は九人、絶対に減らさない」
権爺が復唱する。
「西は騒がず、北は空け、中央は減らさぬ」
紗那が足軽たちへ向き直った。
「聞いたな。軍師殿は敵を止めるとは言っていない。敵に、先に足を止めさせる」
景は横目で紗那を見た。
そんなことを言った覚えはない。
だが足軽たちの顔から、さっきの浮き足立った色が少し引いた。何をするかが決まると、人は怖いままでも動けるらしい。弓を持つ少年が門の内側へ走り、女衆が石を入れた籠を柱の陰へ寄せる。権爺は杖で九人を指し、残る場所を決めた。
西の人影は、道の曲がりから出てこなかった。
その代わり、竹藪の中で低い声が交わされた。言葉までは届かない。だが、丸太の上の笠を見たらしい。槍の穂先が一度上がり、すぐ下がる。
北の尾根では、枝を踏む音が速くなった。こちらも急いでいる。急いでいるが、姿は見せない。
景は喉の奥が乾いていくのを感じた。
「これ、成功してるのかな」
紗那が隣で答える。
「少なくとも、向こうは今、こちらを見ていない」
「見てるだろ」
「違う。互いを見ている」
景は西の影と北の音を交互に見た。
津田が鹿島を疑う。鹿島が津田を疑う。寺の鐘を誰が聞いたか、北の村が誰へ何を言ったか、笠がなぜ丸太の上にあるか。
景たちが強いからではない。
景たちが整っているからでもない。
ただ、敵も怖いのだ。
夕日が竹の葉の先に引っかかり、泥の水たまりを赤く染めた。
西の人影の一つが、沢筋の方へ下りかけた。足跡を見つけたのだろう。別の影がそれを止める。二人は短く言い争うように動き、結局どちらも進まなかった。
北の尾根からは、細い煙が上がった。狼煙にしては弱い。焚き火にしては場所が高い。
権爺がそれを見て、低く笑った。
「急ぎ火でございますな。濡れ枝を燃やした」
「なんで」
「急いだからでございましょう」
景は笑えなかった。
けれど膝の震えは、少しだけ別のものに変わっていた。怖さが消えたわけではない。むしろ増えている。西にも北にも敵がいる。挟まれている。その事実はもう、木片の上の噂ではなかった。
でも、今すぐ全部が押し寄せてくるわけではない。
敵は足を止めている。
こちらが置いた丸太と笠と泥の跡の前で、勝手に考え込んでいる。
日が沈む直前、寺の鐘がまた鳴った。
一つ。
長くない。
続けて、もう一つ。
今度は短くない。
紗那が目を細める。
「先ほどと違う」
「意味は?」
「分からぬ」
分からない鐘が、山へ広がる。
西の影が一歩下がった。北の音が止まった。館の中の誰も動かない。
景は手の中の撞木を握った。欠けた木の角が、縄で擦れた傷に当たって痛い。
「分からないままでいい」
自分に言うつもりだった。だが、声は周囲にも届いた。
「全部分かったふりして動いたら、たぶん負ける。分からないものは、分からないまま見てる。見て、数えて、減らさない」
紗那が静かにうなずいた。
「軍師殿の命だ。分からぬものを追うな。分かるものを減らすな」
また少し違う意味になった。
でも、今はそれでよかった。
西の道に夜が落ち始める。丸太の上の笠は黒い塊になり、沢筋の足跡は影に沈んだ。北の尾根の煙だけが、薄く空へ残っている。
津田か鹿島か。
どちらが先に動くのか。
それとも、どちらも動かず夜を待つのか。
景には分からない。
分からないまま、景は門の前に立った。九人の足軽が背後に残り、紗那が半歩横にいる。権爺は泥に描いた線を杖で消し、消した跡をさらに足で踏んだ。
敵に見せるものと、見せないもの。
その境目が、夕闇の中で少しずつ曖昧になる。
やがて西の竹藪の奥で、誰かが低く叫んだ。
同じ瞬間、北の尾根から乾いた板を打つ音が一つ返る。
景は息を吸った。
挟まれている。
そして、まだ潰れてはいない。
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