鐘の間に立つ
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西の竹藪から聞こえた低い叫びは、すぐに途切れた。
人が斬られた声ではなかった。怒鳴り声に近い。だが、言葉にはならず、竹の葉と夜の湿りに潰される。続いて北の尾根で鳴った板の音が、乾いたまま一つだけ残った。
館の前にいた九人が、同時に武器を握り直した。
景もつられて手を上げかけた。何も持っていないことに気づき、撞木を握った手だけが胸の前で止まる。小さな木片は汗で滑り、欠けた角がまた傷に当たった。
《敵接触兆候》
《西方集団、北方集団間の識別不全を確認》
《推奨: 中央保持。発光源抑制。音響攪乱を避け、敵相互疑念を増幅》
「ちょっと待って」
景は小声で言った。
待ってくれるものは何もない。
西ではまた声が上がった。今度は二人分だった。片方が押さえつけるように低く、もう片方が鋭い。北の尾根からは、枝を折る音が斜面を滑るように近づいてくる。
紗那が横から問う。
「命を」
「明かり、消して」
言った瞬間、景は自分でも違う気がした。全部消したら、こちらも見えない。敵も見えない。転ぶ。たぶん転ぶ。
「いや、全部じゃない。門の中は減らす。表には出さない。炊事場の火は隠して。灯りは……」
どこに置けばいい。
景は暗い館の内側を見た。柱の陰に石籠があり、弓の少年が青い顔で立っている。女衆が火のついた松明を握ったまま、命令を待っていた。
《発光源: 敵誘導資源》
《推奨配置: 偽装退避路入口一、中央後方一》
「偽の逃げ道に一つ。館の奥にも一つ。でも人は置かない。火だけ」
権爺がすぐに女衆へ手を振る。
「沢筋の入口へ、明かり一つ。柱の奥へ一つ。持つ者は置いたら戻れ。火守りはするな」
「火守りなしでございますか」
女の一人が不安そうに言った。
景は頷く。
「火が消えたら消えたでいい。燃え広がりそうなら消して。ええと、火事はだめ」
紗那が短く言い直した。
「敵に見る火だ。味方のためではない。命より火を惜しむな」
女衆の顔が引き締まった。
景はまた横目で紗那を見た。今のは、かなりありがたかった。自分が言うと火事の心配だけで終わるところだった。
西の竹藪で、槍の穂先が一瞬だけ見えた。さっきより近い。丸太の前ではない。少し南、沢筋へ下りる偽の足跡の方だ。
そこに、火が置かれた。
松明の火は小さかったが、夜の中では大きすぎるほど目立つ。濡れた泥に赤く映り、草鞋の跡が浮かび上がった。人が何度も通ったような、しかしよく見ればおかしな跡。景には、下手な落書きにしか見えない。
西の影は、それを見て止まった。
北の尾根でも音が止まる。
誰も息をしないような一瞬があった。
次に動いたのは、西ではなく北だった。
山肌の暗がりから、三つの影が下りてきた。低く走る。館へ向かうのではない。沢筋の火へ向かう。逃げ道を押さえようとしているのだと、景は少し遅れて気づいた。
同じ場所へ、西の竹藪からも二人が出た。
火を挟んで、影と影が向かい合う。
「まずい」
景は声を漏らした。
まずいのは、どちらにとってなのか分からなかった。ただ、人がぶつかる場所に火を置いてしまった。それは分かった。
《敵相互接触》
《介入不要》
《中央保持》
「介入不要って、人が」
《敵戦力同士の摩擦は防衛側利益》
「言い方」
景の声はかすれた。
沢筋で、誰かが叫んだ。
「津田か!」
返った声は聞き取れない。だが、否定ではなかったらしい。槍の柄が火の前でぶつかり、乾いた音がした。続いて、足が泥を蹴る音。短い悲鳴。怒声。
九人のうち一人が前へ出かけた。
「軍師殿、今なら横から」
「行かない」
景は反射で言った。
行きたくなかった。暗い。敵がどちらかも分からない。味方が飛び込めば、味方まで敵に見える。そう思っただけだ。
足軽は歯を食いしばった。
「されど、敵が乱れております」
「だから、行かない。乱れてるところに入ったら、こっちも乱れる」
紗那が半歩前へ出た。
「聞け。軍師殿は、敵の乱れを奪うなと申された。あれは敵のものだ。こちらが触れば、こちらの乱れになる」
足軽の顔が変わった。
景の中では、そこまで立派な理屈ではなかった。乱れている場所が怖いだけだ。けれど、怖いから動かないという言葉より、紗那の言い方の方が、ずっと皆の足を止めた。
沢筋の火が倒れた。
地面に落ちた松明は泥に半分沈み、低く煙を吐いた。それでも完全には消えず、赤い芯だけが残る。人影がそれを踏みかけ、足を滑らせた。誰かが笑うような声を出し、すぐ罵声に変わる。
北の尾根で、板が二つ鳴った。
今度は続けて。
それを聞いた西の竹藪がざわめいた。津田か鹿島か分からない者たちが、笠の置かれた丸太を振り返る。丸太の上の笠は、闇の中で黒い皿のように見えた。
権爺が低く言う。
「津田の笠を見て、北の合図を聞く。嫌でございましょうな」
「どうなる?」
「大抵は、自分だけが騙されたと思います」
「最悪じゃん」
「敵にとっては」
景は笑えなかった。沢筋ではまだ人が揉み合っている。刃の光は少ない。互いに相手を確かめようとしているのか、すぐには斬り込まない。だが、槍の柄と柄が当たり、肩がぶつかり、泥が跳ねる音は確実に近づいていた。
《中央前縁まで距離: 推定六十七メートル》
《推奨: 可視境界の提示。射撃は威嚇に限定》
「境界って何」
《侵入許容限界を敵に認識させよ》
「線を引けってこと?」
《概略として不適》
「じゃあ何」
景は足元を見た。権爺が夕方に消した泥の線は、もう見えない。暗い地面に線を引いても敵は見ない。板を立てる時間もない。
弓の少年が震える手で矢を番えていた。
景はそれを見て、ようやく言う。
「門の上じゃなくて、横の木に射って。人じゃなくて。こっちに来るなって分かるところ」
少年が目を見開く。
「外します」
「外していい。人に当てない方がいい」
紗那が少年の肩に手を置いた。
「門右の枯れ木だ。火の明かりから見える。高く射るな。幹を狙え」
少年は息を吸い、矢を放った。
矢は枯れ木の幹ではなく、横の枝に当たった。枝が折れ、乾いた音を立てて落ちる。
景は肩をすくめた。
だが、沢筋の影が止まった。
火の向こうで揉み合っていた者たちが、同時に館の方を見た。人を射ったわけではない。だから、怒って突っ込んでくる理由には足りない。けれど、何も見ていないわけではないと伝わった。
権爺が小さく頷く。
「よい外しでございました」
「外しに、よいとかあるんだ」
「ございます」
少年は泣きそうな顔のまま、少しだけ背を伸ばした。
西の竹藪から、今度ははっきりした声が飛んだ。
「北の者、先に手を出したな!」
北の斜面から返る。
「津田の名で村を荒らしたはそちらであろう!」
景は息を呑んだ。
鹿島が津田の名を使った話。
津田の笠。
寺の鐘。
北の村の木片。
全部が、暗い沢筋でぶつかった。
こちらが強いわけではない。誰かを討ち取ったわけでもない。火を置き、矢を外し、人を出さなかっただけだ。
それなのに、敵の怒りは景たちではなく、互いへ向いている。
《敵意思決定同期: 破壊》
《局地交戦発生》
《推奨: 継続監視。追撃禁止》
追撃禁止。
それは分かる。
景は深く息を吸った。
「追わない。誰も出ない。門の前から減らさない。けが人がこっちへ転がってきても、武器を持ってるなら近づかない。武器を捨てて、こっちを見てないなら、権爺に聞く」
権爺が目だけで笑った。
「最後だけ急に弱くなりましたな」
「判断できない」
「それも命でございます」
紗那が兵たちへ向き直った。
「軍師殿は敵の命も味方の命も、夜の勢いに預けぬと申された。助けるにも順がある。斬るにも順がある。順を乱す者は、敵より先にこの場を乱す」
九人が頷いた。
景は胸の奥が変に痛くなった。そんな大きなことを考えていたわけではない。ただ、暗いところで倒れた人に近づくのが怖い。武器を持った人を助けようとして刺されるのが怖い。怖いから権爺に聞くと言った。
それが、命令になっていく。
沢筋の争いは長くは続かなかった。
どちらも本隊ではない。闇の中で相手を確かめられず、火は泥に沈み、館からは矢が飛ぶかもしれない。西の竹藪の奥で笛のような音が鳴ると、津田らしき影が二つ、丸太の方へ退いた。北の斜面でも板が三度打たれ、鹿島らしき影が上へ戻り始める。
退きながらも、互いを見ていた。
館をではない。
互いを。
景はそれを見て、膝から力が抜けそうになった。紗那がさりげなく肘を支える。
「まだ倒れるな」
「倒れてない」
「倒れる顔だ」
「顔で分かるの?」
「分かる」
短いやり取りの間にも、夜は深くなっていく。西の竹藪の声は遠ざかり、北の尾根の枝音も薄くなった。代わりに寺の鐘が鳴る。
一つ。
間を置いて、また一つ。
そして、長く沈黙したあと、三つ目が鳴った。
権爺が目を細めた。
「三つ」
「意味は?」
「分かりませぬ」
景は撞木を握った。
分からないものがまた増えた。けれど、今度はそれを追いかけようとは思わなかった。鐘の意味を知るために人を走らせれば、九人は八人になる。八人は七人になる。少しずつ、真ん中が消える。
「朝まで動かない」
景は言った。
声は震えていたが、夜の中で妙にはっきり届いた。
「鐘が鳴っても、板が鳴っても、叫ばれても、朝まで動かない。火は増やさない。矢は、人に射たない。門の前は九人。交代で座っていいけど、数は減らさない」
紗那はすぐには言い直さなかった。
少しだけ景を見て、それから皆へ向く。
「軍師殿の夜戦は終わった。あとは敵に夜戦を続けさせる。こちらは朝を取る」
その言葉で、空気が変わった。
勝ったわけではない。まだ西に敵がいる。北にもいる。寺の鐘の意味も分からない。だが、何をしないかが決まった。夜の中で、人はそれだけでも立てるらしい。
足軽たちは門の前に腰を下ろし、槍を膝に置いた。弓の少年は矢を番えず、弦だけを確かめる。女衆は火の始末をし、石籠の横で黙って座った。権爺は杖を抱えたまま、泥の上に残った足跡をじっと見ている。
景は眠れなかった。
何度も西を見た。何度も北を見た。見ても、ほとんど何も分からない。黒い竹藪。黒い山。消えかけた火の赤。ときおり遠くで人の声がしたが、それが敵か味方か、怒声か合図かも判別できなかった。
《防衛側損耗: 現時点ゼロ》
《敵先遣隊連携: 低下》
《作戦成功確率: 上昇》
「成功って言うには早いだろ」
《定義による》
「ずるい」
小声で返すと、紗那が隣で首を傾けた。
「何がずるい」
「未来」
「また妙なことを」
「うん」
夜明け前、北の尾根から人が下りてきた。
今度は走っていなかった。両手を上げている。武器はない。近づきすぎず、声が届くところで膝をついた。昨日、蕪を運んできた女ではない。北の村の若い男だった。肩で息をし、額に泥がついている。
「北山の者にございます」
権爺が景を見る。
景は頷いた。頷くだけで、喉が痛い。
男は続けた。
「鹿島の先触れ、夜半に退きました。津田と斬り合うたと触れております。津田も西の道を下がり、寺下へ寄らず。どちらも、夜明けを待たずに本隊へ使いを戻しました」
景はすぐに意味が分からなかった。
紗那が一歩前へ出る。
「つまり、今ここへ押し寄せる兵はないのだな」
「少なくとも、朝のうちは」
男は地面に額を近づけた。
「村の年寄りが申しました。館の軍師殿は、津田と鹿島に同じ夜を見せ、違う敵を見せた。米の礼は受けた。次は、こちらが礼を返す、と」
景は口を開けたまま固まった。
同じ夜を見せた。
違う敵を見せた。
そんな詩みたいなことをした覚えはない。火を置いた。矢を外した。人を出さなかった。分からないから動かなかった。それだけだ。
背後で、誰かが息を吐いた。
一人ではなかった。九人の足軽、弓の少年、女衆、権爺。館の内側に溜まっていた夜の息が、少しずつ外へ抜けていく。
西の空が白み始めた。
丸太の上の笠は、夜の黒い塊ではなく、ただの古い笠に戻っていた。沢筋の足跡は踏み荒らされ、どれが味方でどれが敵か分からない。泥に沈んだ松明からは、細い煙だけが上がっている。
景は門の外へ一歩出た。
紗那が止めなかった。権爺も何も言わない。九人の足軽だけが、自然に左右へ開いた。
道の向こうには、誰もいなかった。
西にも、北にも、まだ敵はいるのだろう。津田も鹿島も消えたわけではない。本隊へ使いを戻したなら、次にもっと大きく動くかもしれない。
それでも、今朝この門は破られていない。
挟まれて、潰れなかった。
「勝った……の?」
景は自分でも情けないほど小さく言った。
紗那が隣へ来た。
「少なくとも、敵はここで勝てなかった」
「それ、勝ち?」
「戦では、それを勝ちと呼ぶことがある」
景は返事を探した。見つからなかった。
権爺が杖をついて、ゆっくり膝を折った。完全に座り込むのではない。礼に近い。九人の足軽が、それに続く。弓の少年も慌てて頭を下げ、女衆が柱の陰で手を合わせた。
景は後ずさりしかけた。
「いや、やめて。俺、何も」
紗那の声が、その上に重なった。
「軍師殿は、敵を討つより先に敵の心を割った。津田には鹿島を見せ、鹿島には津田を見せ、我らには動かぬ場所を残した。昨夜、軍師殿が守ったのは門ではない。皆の足だ」
足軽たちの顔が上がる。
景は頭を抱えたくなった。
また違う意味になっている。
けれど、誰も笑っていなかった。泥に濡れた顔で、疲れ切った目で、それでも確かに景を見ている。怖さの中で一晩立っていた人たちが、何か名前を欲しがっている。
偶然でも、誤解でも、怖くて動けなかっただけでも。
その名前がなければ、昨夜の震えを明日へ持っていけないのかもしれない。
景は撞木を見た。
焦げた字は、朝の光では薄く見えた。
鐘は二つ。
道は三つ。
先に急ぐ者が、後ろを疑う。
誰が書いたのか、まだ分からない。寺の下の童も、鐘の三つ目の意味も、北の村の本心も分からない。
分からないものは残っている。
でも、分かるものもあった。
門の前に九人いる。
誰も減っていない。
西の道に、敵はいない。
景はゆっくり息を吐いた。
「朝飯にしよう」
場が止まった。
権爺が顔を上げる。
「は」
「いや、みんな一晩起きてたし。腹減ってると、次に何か来たとき絶対だめになる。米、少ないけど。薄くてもいいから」
紗那が目を伏せた。笑ったのかもしれない。
「聞いたな。軍師殿は勝ちに酔うな、腹を満たして次を見よと申された」
「そこまでは言ってない」
「言っている」
「言ってない」
そのやり取りで、誰かが小さく笑った。
一人が笑うと、別の一人も息を漏らした。大きな笑いにはならない。夜の怖さがまだ体に残っている。けれど、門の前に座り込んだ足軽たちの肩から、少しだけ力が抜けた。
炊事場で火が起こる。
煙がまっすぐ朝へ上がっていく。
寺の鐘は、もう鳴らなかった。
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