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未来AIの戦術が理解できない俺、室町で名将と呼ばれる  作者: 堀吉 蔵人


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鐘の音

興味をお持ちいただきありがとうございます !

縄は濡れていた。


 景が握り直すたび、麻の繊維が手のひらに食い込む。泥を吸った丸太は見た目よりずっと重く、男たちが声を合わせても、少しずつしか動かなかった。


「引け」


 権爺の声が飛ぶ。


 景は足を踏ん張った。草鞋の底がぬかるみに沈み、膝まで力が抜けそうになる。隣の足軽が肩で息をしながら縄を引き、さらに向こうで紗那が黙って同じ縄を取っている。


 丸太が泥の上をずるりと滑った。


「そこ、止めて」


 景が言うと、男たちは一斉に縄を緩めた。勢い余って丸太が斜めに転がり、脇に積んでいた石を二つ弾いた。泥水が跳ね、景の頬に冷たく当たる。


「止めすぎた」


「止めろと申されましたぞ」


「うん。言った。ごめん」


 景は袖で頬を拭った。手の泥がさらに広がっただけだった。


 西の道は、館から沢沿いへ下り、低い竹藪の横を抜けていく。幅は馬二頭が並べば狭く感じるほどで、雨の後は車輪の跡に水が残る。ここを完全にふさげば、津田だろうが鹿島だろうが通りにくい。だが、味方も逃げられない。


 それは分かっている。


 分かっているのに、どれくらい残せばよいのかは分からなかった。


《推奨: 通行能力を制限》


《条件: 歩行者の退避路を維持》


「通れるけど、嫌になるくらい……」


 景は道を見下ろした。丸太を真ん中に置けば、誰でも嫌になる。けれどそれは閉じているのと同じだ。端へ寄せすぎれば、ただの倒木に見える。


 権爺が杖で泥を突いた。


「人ひとりなら、こちらを抜けられますな」


 道の山側に、草の薄い細道がある。獣道のように細く、足を滑らせれば脛を打ちそうだった。鎧を着た者や馬は嫌がるだろう。だが身軽な者なら抜けられる。


「そこは残す。丸太は反対側へ」


「川側でございますか」


「うん。馬が避けようとすると、足を取られる感じで」


 言ってから、景は自分の声が少しだけ物騒に聞こえたことに気づいた。


「落とすんじゃなくて。遅くなるくらいで」


「承知」


 権爺は余計なことを言わなかった。杖で泥に線を引く。足軽たちがその線を見て、丸太の向きを直し始めた。


 紗那は景の横へ来た。息は乱れていない。袖には泥がついていたが、景ほどひどくはなかった。


「敵を止めたいのか、通したいのか」


「止めたい。でも止めたくない」


「答えになっていない」


「分かってる」


 景は道の先を見た。朝靄は薄くなり、遠くの木々の輪郭が見え始めている。あの向こうに誰がいるのか、まだ分からない。鹿島の兵か。津田の物見か。寺の使いか。あるいは、ただ薪を拾う村人か。


「来てほしくない。でも、来たって分かった方がいい。こっちが全部ふさいだら、向こうは別の道を探すかもしれない。そうしたら、どこから来るか分からない」


 紗那はしばらく黙っていた。


「西へ来れば、ここで足が鈍る」


「たぶん」


「北へ行けば、村が見る」


「たぶん」


「寺へ寄れば、鐘か使いで知れる」


「それも、たぶん」


「たぶんが多い」


「俺もそう思う」


 景は肩を落とした。だが紗那は、それ以上言わなかった。きれいな言葉に直すこともない。ただ、山側の細道へ視線を向ける。


「なら、たぶんを増やしすぎるな。ここでできることだけ見ろ」


 丸太の位置が決まると、今度は石を置いた。大きすぎる石は人も通れなくする。小さすぎる石は馬が踏み越える。足軽たちは石を持ち上げては戻し、また別の石を運んだ。


 景も一つ抱えた。腰に重さが落ち、腕が震える。どうにか道の端へ運んだところで、権爺が首を横に振った。


「それは目立ちすぎますな」


「だめ?」


「道を直す者は、そこへその石を置きませぬ」


「道普請っぽくない?」


「ぽくありませぬ」


 景は石を抱えたまま固まった。


「じゃあ、どこ」


「こちらへ。泥を留めるように見せます」


 権爺が示した場所へ石を置くと、確かに道の肩を補っているように見えた。けれど馬が通れば、足を置く場所を少し迷う。景にはその違いが分からなかったが、権爺と年配の足軽は納得した顔をした。


 景は息を吐いた。


「俺、道のこと全然知らないな」


「知っておれば、かえって塞いだかもしれませぬ」


 権爺が言った。


「知らぬ者は、怖がって隙間を残すことがございます」


「褒めてます?」


「さて」


 権爺は少しだけ口元を緩めた。それもすぐに消え、谷の方へ目をやる。


 竹藪の奥で、何かが鳴った。


 鳥かと思った。だが、二度目は短く、三度目は間を置いた。作業していた足軽の一人が顔を上げる。


「合図か」


 紗那の手が刀へ動いた。


「皆、声を落とせ」


 ざわめきが止まる。丸太にかけた縄が泥の上で小さく揺れた。


 景は息を止めた。竹の葉が風で擦れる音がする。沢の水が石に当たる音も聞こえる。人の足音は分からない。分からないのに、背中だけが冷えていく。


《状況: 遠方音を確認》


《敵性: 未確定》


《推奨: 観察》


「見るだけ」


 景は小さく言った。


 紗那が低く返す。


「誰に言っている」


「俺に」


 権爺が若い足軽を二人、山側へ回した。走るな、と言ってから行かせる。二人は腰を低くし、草の中へ消えた。


 待つ時間は長かった。


 景は手を握ったり開いたりした。縄で擦れたところが熱い。泥が爪の間に入り、指先が重く感じる。何かすべきだと思うのに、動けば音を立てる。何もできないまま立っていることが、こんなに苦しいとは思わなかった。


 やがて、山側へ回った一人が戻ってきた。


「人影がありました」


 声は抑えられていたが、全員の耳に届いた。


「何人」


 紗那が問う。


「二人。いや、三人かもしれませぬ。笠をかぶり、竹の間からこちらを見ておりました。近づく前に退きました」


「旗は」


「見えませぬ」


「武具は」


「一人、短い槍のようなものを」


 足軽たちの顔が一斉に固くなった。


「鹿島か」


「津田ではないのか」


「村の者では」


「槍を持つ村人もいる」


 言葉が低く交わされる。さっきまで石の置き場を気にしていた道が、急に戦の入口に変わったようだった。


 景は竹藪を見た。


 誰かが、こちらを見た。


 それだけだ。攻めてきたわけではない。矢を射られたわけでもない。だが、こちらが道をいじっていることは見られた。丸太も石も、泥をならす足軽も、全部。


「追うか」


 紗那が景ではなく権爺を見た。権爺は景を見た。


 景はすぐに答えられなかった。追えば捕まえられるかもしれない。捕まえたら、どこの者か分かるかもしれない。だが、追うために人が散れば、今の作業は止まる。山側の細道も空く。罠なら、追った方が負ける。


《戦闘行動: 非推奨》


《推奨: 監視継続》


「追わない」


 声はかすれた。


 足軽の一人が不満そうに眉を寄せた。


「見られたのでございますぞ」


「うん。見られた。だから、見せたことにする」


 言ってから、景は自分で驚いた。そんなつもりで準備していたわけではない。ただ、追うのが怖かった。怖くて、別の言い方を探しただけだ。


 紗那はそれを大きく言い直さなかった。静かに竹藪の方へ目を向ける。


「作業を止めるな。だが、山側に二人残せ。見張りは交代でよい」


 権爺がすぐに頷いた。


「物見返しでございますな」


「返し?」


 景が聞くと、権爺は短く答えた。


「見られたなら、こちらも見るだけでございます」


 追いかけない。騒がない。隠しもしない。


 それは何かの策に見えるかもしれない。けれど景の中には、策というほどはっきりしたものはなかった。胸の奥で、怖さが形を変えただけだ。


 物見がいたという知らせは、すぐ館へ走らせた。広間ではなく、権爺の孫へ伝える。誰が聞き、誰へ渡したかを木片に刻ませるためだった。


 昼に近づくころ、北へ行った老人が戻ってきた。


 景は西の道から館の門へ戻る途中で、その姿を見つけた。老人は米袋を抱えていなかった。代わりに、小さな竹籠を持っている。中には青菜と、まだ土のついた蕪が三つ入っていた。


「受け取ってくれた?」


 景が聞くと、老人は一度息を整えた。


「半分だけ。残りは持ち帰れと言われました」


「なんで」


「北の村も蓄えは薄い。されど、礼を断てば鹿島に見られる。全部受ければ津田に言われる。半分なら、見舞いにも見え、貸しにも見える、と」


 景は籠の中を見た。青菜は少し萎れている。それでも、何も返さないよりずっと重い。


「村の人は、何を怖がってた?」


「鹿島の先触れが昨日、山向こうを通ったそうでございます。兵ではなく、物見に近い者。津田の名も口にしたとか」


 紗那が近づく。


「津田の名を、鹿島が?」


「はい。『津田が先に米を取る』と」


 景は胃の奥が沈むのを感じた。


 北が黙れば、鹿島が話を作る。


 童の言葉が頭の中で響いた。北の村はまだこちらを助けるとは言っていない。だが、鹿島の言葉だけで動くことも避けている。半分受け取り、野菜を返す。それは味方の印ではない。敵ではないという印でも、たぶんない。


 ただ、まだ切れていない。


「返事は?」


 紗那が聞く。


「『道を見る目は一つではない』と」


 老人はそう言って、声を落とした。


「それと、西の竹に人が入ったなら、夕までにもう一度来る、と」


「北の村の者が?」


「はっきりとは申されませなんだ」


 景は西の方を振り返った。竹藪の物見を、北の村も知っているのかもしれない。あるいは、知っているふりをしているだけかもしれない。誰も全部を言わない。言葉は半分で止まり、残りは道と鐘と足跡に残る。


 午後、寺へ向かった若い足軽は戻らなかった。


 代わりに、寺の方角から鐘が鳴った。


 一つ。


 長い余韻が、山の斜面をなでるように広がった。作業していた者たちが手を止める。二つ目が鳴るまで、誰も動かなかった。


 二つ。


 紗那が顔を上げた。


「弔いではない」


「分かるの?」


「間が違う」


 三つ目は鳴らなかった。


 鐘の音が消えた後、遠くの道から小さな影が現れた。寺へ行った足軽ではない。笠をかぶった男で、手に竹の杖を持っている。館の門までは来ず、道の曲がりで止まった。


 権爺が目を細める。


「寺の下働きか」


 男は深く頭を下げると、杖の先で地面に何かを置いた。紙ではない。白木の小片だった。それだけ置いて、すぐに背を向ける。


「待て」


 足軽が声を上げかけたが、紗那が手で制した。


「追うな」


 景は喉を鳴らした。


 また追わない。


 今日はそればかりだ。追わない。決めつけない。勝った顔をしない。誰かが置いたものを見て、どこへ伝わったかを考える。


 権爺が小片を拾って戻った。表には、墨で短く書かれていた。


 西、見られたり。

 鐘、二つにて返す。


 景は何度も読み返した。


「西を、見られたって……寺も知ってる?」


「少なくとも、知らせを受けたのでございましょう」


 権爺の声は重かった。


 紗那が西の道を見た。


「こちらの動きが、寺へ届いた。寺が鐘で返した。鐘を聞く者は寺だけではない」


 その先は言わなかった。


 景にも分かった。


 鐘は山に響く。村にも届く。道を行く物見にも届く。鹿島か津田か分からない誰かにも。


《状況: 行動露見》


《推奨: 配置維持》


 景は手のひらを見た。縄で赤く擦れた跡に、泥が入り込んでいる。丸太はまだ敵を止めていない。石も、誰も転ばせていない。北の村は半分だけ米を受け取り、寺は敵でも味方でもないまま鐘を鳴らした。


 それでも、何かが動いた。


 こちらが西の道で何かをしていると、誰かが知った。誰かが寺へ伝えた。寺は鐘で返した。その鐘を、また別の誰かが聞いた。


「急がせるって」


 景はぽつりと言った。


 紗那が振り向く。


「何をだ」


「敵を倒すんじゃなくて、急がせる。こっちを見たなら、向こうは考える。道を閉じる前に行くか、別の道を探すか、北へ先に行くか。たぶん、待ちにくくなる」


「待てば、こちらが整う」


「整ってないけど」


「整っていなくとも、そう見えることはある」


 景は笑えなかった。


「怖いな」


「怖くない策など、聞いたことがない」


 紗那は静かに言った。それは景を持ち上げる言葉ではなかった。ただ、今ある泥と鐘と物見を見ている声だった。


 西の道の方で、見張りの足軽が手を上げた。


 竹藪の奥が揺れている。


 人影は見えない。だが、葉の動きは風だけのものではなかった。こちらを見ているのか、離れていくのか、それすら分からない。


 寺の鐘の余韻は、もう消えていた。


 景は丸太の脇に残した細い通り道を見た。そこには、自分たちの草鞋の跡が何本もついている。その少し向こう、竹の根元に、見慣れない足跡が一つだけ残っていた。


 小さくはない。


 童のものでもない。


 泥の縁がまだ崩れていなかった。ついさっき、誰かがそこに立っていた。


 景が顔を上げると、山の向こうで、二度目の鐘がまた短く鳴った。

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