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未来AIの戦術が理解できない俺、室町で名将と呼ばれる  作者: 堀吉 蔵人


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23/27

昨日の謝罪文

興味をお持ちいただきありがとうございます !

朝、玄関の内側に紙が貼られていた。


 障子紙より薄い。戸の隙間から入った光を受けて、白い面だけが土間に浮いて見える。端は湿気で反り、米粒で貼りつけた跡がいくつも膨らんでいた。


 墨ではない。焦げたような黒い線で、短い文が並んでいる。


 返事のない寺。

 味方と飯と逃げ道。

 軍師殿のそばに立つ者。


 その下に、もう一行。


 その後はどうする。


 景は草鞋に手を伸ばしたまま、動けなくなった。


 昨日の本堂が、朝の土間へ戻ってくる。薄暗い板間。仏像の前に座る坊主頭の男。数珠が床に当たった乾いた音。三日だ、と言った低い声。


 夜のうちに置いてきたはずのものが、紙一枚になって館まで来ていた。


「……またかよ」


 声は土間に小さく落ちた。


 背後で床板が鳴る。紗那が男物の小袖の襟を直しながら近づいてきた。景の肩越しに紙を見るなり、足を止める。


「触るな」


「触ってない」


 紗那は膝をつき、紙に顔を近づけた。薄い唇が少し結ばれる。


「墨ではないな」


「焼いて書いたんだと思う」


「昨日の童か」


「たぶん」


 寺の門に立っていた少年。笠をかぶり、本堂まで景を案内した小柄な影。声も姿も子供だったのに、目だけが妙に古かった。


《状況更新。非同期伝達物を確認。発信元不明。敵性確定不可。記載内容は心理誘導、情報整理、挑発のいずれにも分類可能》


 胸の奥に響く声は、いつもどおり冷たかった。


「敵か味方か分からないって、いちばん困るやつだろ」


「誰に言っている」


「独り言」


 紗那は景の顔ではなく、膝のあたりを見た。


「震えている」


「寒いだけ」


「今朝は寒くない」


 戸口の外では、鶏が土をつついている。少し離れたところで薪を割る音がした。炊事場から粟を煮る匂いも漂ってくる。


 いつもの朝と同じはずだった。


 けれど紙一枚のせいで、館全体が薄い膜の中に沈んでいるように見える。誰が起きているのか。誰が寝ているふりをしているのか。誰がこの紙を貼った者を見たのか。景には何も分からなかった。


 そこへ権爺が来た。肩に蓑をかけ、腰に古い刀を差している。玄関の紙を見ると、眉間の皺が深くなった。


「軍師殿。井戸端にもございました」


 権爺は懐から薄い木片を出した。板にも焦げた線で同じ三つの文が刻まれている。


 返事のない寺。

 味方と飯と逃げ道。

 軍師殿のそばに立つ者。


 景は紙と木片を見比べた。


 隠すためではない。見つけさせるためだ。玄関と井戸。朝になれば必ず誰かが通る場所に置いてある。


「誰か見た人は」


「夜明け前、桶が一つ倒れておりました。水も少し減っております」


 紗那が木片を受け取り、匂いを嗅いだ。


「焼いたのは新しい。明け方より前だ」


《推奨行動。記載内容を三分類。返事のない寺は情報遮断点。味方と飯と逃げ道は維持資源。軍師殿のそばに立つ者は観測者または標的。戦闘行動は禁止。情報収集を継続》


 景は唇を噛んだ。


 戦うな、と言われた。そこだけは分かる。分かる言葉を握っていないと、足元の板が抜けそうだった。


「今日は戦わない」


 紗那の眉が動いた。


「誰も戦うとは言っていない」


「先に言っときたいんだ。言わないと、誰かが刀を持って走りそうだから」


 権爺がゆっくりうなずく。


「疑いは足を速くします」


 景は紙の三行をもう一度見た。怖い。腹の底が冷える。だが、怖がっている間にも相手は動く。三日あると思っていた時間が、朝の玄関でいきなり削られていた。


「調べる。寺へ行った使いが誰だったか。戻ったのか、戻らなかったのか」


 声は細かった。そこで止めると、もっと細くなる気がした。


「飯は、どこにどれだけあるか。鍵を誰が持ってるか。逃げ道は……みんなが知ってる道と、あまり知られてない道を分ける。北の村には、まず礼を言いに行く」


「援軍を頼むのではないのか」


 紗那が問う。


「いきなり頼んだら、向こうが困る。米をもらった礼なら、まだ行ける」


 権爺の目が少し細くなった。


「それなら村も門を閉じにくい」


 三行目が、白い紙の上でやけに黒かった。


 軍師殿のそばに立つ者。


 紗那かもしれない。権爺かもしれない。紙を読んだ者の数だけ、疑う相手が増える。


「これ、紗那を疑わせたいのかもしれない」


「私か」


「俺が最初にそう思った」


「正直に言うな」


「ごめん」


「謝るな。顔に出ていた」


 紗那は立ち上がった。紙を剥がす前に、玄関の外を一度見る。


「隠すか」


 権爺が低く尋ねた。


 隠したかった。こんなものを広間に出せば、誰もが誰かを疑う。けれど井戸端の木片を見た者はもういる。隠せば、口から口へ形を変えて広がる。


 景は柱の木目を見た。古い傷が一本ある。誰かが昔、刀か何かをぶつけた跡だろう。傷は隠れていない。隠れていないから、誰ももう騒がない。


「広間に出す」


 言った瞬間、腹の底がさらに冷えた。


 紗那が景を見る。


「よいのか」


「よくない。でも、後で見つかる方がもっと悪い。俺が先に見せる」


 紗那は少し黙り、それから紙の端をゆっくり剥がした。乾いた米粒が壁から離れるたび、かすかな音がした。


 広間へ向かう廊下で、景は何度も足を止めそうになった。炊事場から粟を煮る匂いがする。濡れた藁の匂いも混じっていた。朝飯の椀を持った足軽たちが、景たちの方を見る。何人かは、権爺の持つ木片に気づいて口を閉じた。


 紗那は広間の柱に白い紙を貼った。


「景が話す」


 ざわめきが止まった。


 景は前に出た。手のひらが湿っている。膝の震えは止まらない。止めようとすると、余計に自分の足が自分のものではなくなる。


「今日は戦わない。刀を持って走るな。まず数える」


 足軽たちの顔に戸惑いが広がった。景は柱の紙を指した。


「寺に行った使い。飯の場所。抜け道。北の村へ礼に行ける人。それと、昨日の童を見た人。知っていることを出してほしい」


 若い足軽がおずおずと手を上げた。


「見ました」


「どこで」


「夜明け前、井戸のそばでございます。水を飲んでおりました」


「どっちへ」


「門ではなく、裏の栗林へ」


 権爺が顔をしかめる。


「栗林の先は古い墓地でございます」


 若い足軽は、まだ言いにくそうに唇を噛んでいた。


「まだある?」


「童が申しておりました。軍師殿のそばに立つ者は、もう一人いる、と」


 広間の空気が冷えた。


 椀を置く音がした。衣擦れが重なる。誰も声を出さないのに、視線だけが動き回っている。紗那の手が刀へ行きかけ、途中で止まった。


 景はその手を見てから、広間の人々を見た。権爺、炊事場の女、弓を抱えた少年、顔を伏せる足軽。誰を疑えばいいのかなど、分かるはずがなかった。


「人を決めつけない」


 景は言った。


「飯が減る場所を見る。道を知ってる人を見る。寺に行ける人を見る。全部、別の人に任せる。同じ人が全部を見ないようにする」


 誰かが小さく咳をした。反対の声は出ない。だが、納得した顔も少ない。


「飯は一か所に置かない。蔵だけじゃなくて、台所にも、誰かの家にも少しずつ分ける。全部見つかったら終わりだから」


 炊事場の女が声を上げる。


「蔵の鍵は私が預かっております」


「じゃあ、蔵はあなた。台所は別の人。家に移す分は権爺が見てください」


 権爺が即座にうなずいた。


「承知しました」


《追加推奨。西方経路封鎖、北方同盟接触、分散備蓄、秘匿撤退路確保を同時進行。人的伝達の遅延を考慮し、各行動に独立裁量を付与せよ》


 景は奥歯を噛んだ。


 西方経路封鎖。言葉だけなら分かる。だが、この館にいる者たちに封鎖と言えば、道を完全に塞ごうとするかもしれない。寺の者も通れなくなる。味方も逃げられなくなる。石と木で詰まった道の前で、皆が立ち往生する姿が浮かんだ。


「西の道は、ふさがない」


 権爺が聞き返した。


「ふさがぬので」


「急げないようにする。倒木とか石を置く。でも通れるくらいにする。道を直してるみたいに」


 権爺の表情が変わった。


「道普請でございますか」


「うん。道をよくしてるふり。馬と大人数だけ困るようにしたい」


 紗那が横から口を挟む。


「歩く者は通れるか」


「通れるようにする。たぶん」


「たぶんか」


「全部ふさいだら、俺たちが逃げるとき詰む」


 紗那はそこで黙った。きれいに言い直すかわりに、広間の顔ぶれを見回す。


「聞いたな。ふさぐな。遅くしろ」


 足軽たちの間に、ようやく小さな動きが生まれた。何人かが互いに顔を見合わせ、誰が縄を持つかを指で示し合う。


 北の村には、米の礼を持って行くことにした。助けてくれとは言わない。ただ、こちらが慌てていないところを見せる。景がそう言うと、権爺は近くの老人を呼んだ。白髪の男が腰を上げ、炊事場へ向かう。小さな米袋が用意され、口を固く結ばれた。


 逃げ道については、景は声を落とした。


「今ここでは言わない。俺と紗那と権爺で見る」


 またざわめきが起きたが、さっきほど鋭くはならなかった。何かが決まると、人は動き出す。椀が片づけられ、草鞋の紐が結ばれ、戸口へ向かう足音が重なっていく。


 柱の白い紙は、まだ不気味だった。だが、誰もがその前を通り、見て、口を結び、自分の持ち場へ向かった。


 紗那が景の横に来た。


「栗林へ行くぞ」


「今?」


「童は待たぬ」


「俺も行くのか」


「問いを投げられたのはお前だ」


 景は広間の外を見た。朝靄の向こうに、栗の木が黒く並んでいる。喉の奥が乾いた。


「刀は持たない」


「またか」


「持っていったら、向こうも構える」


「すでに構えている」


「じゃあ、こっちは少しでも軽くする」


 紗那はしばらく景を見て、それから自分の腰の刀を確かめた。


「私が持つ」


「うん」


 井戸のそばには、小さな足跡が残っていた。景の足よりずっと小さい草鞋の跡。水桶の縁には、濡れた指の跡が四本、薄く残っている。


 栗林の草は露で濡れていた。足を踏み入れるたび、草鞋の裏に冷たさが染みた。枝から落ちた水滴が景の首筋に当たり、思わず肩が跳ねる。


 奥の墓地は、朝なのに薄暗かった。古い石塔が傾き、苔が文字を覆っている。鳥の声が高いところで短く鳴いた。


 石塔の一つに、赤い布が結ばれていた。


 景は足を止めた。


「寺で見た色だ」


「触るな」


「触らない」


 紗那は布を確かめ、石塔の陰に置かれていた小さな木札を拾った。表には焦げた線がある。


 西を閉じるな。

 北を絶やすな。

 飯を一つに置くな。

 逃げ道を人に言うな。


 景の背中に汗が浮いた。


 短い言葉だった。難しい言い回しはない。西。北。飯。逃げ道。村の道を歩き、米袋を担ぎ、夜の井戸で水を飲む者の言葉だった。


「味方なのか」


 紗那は答えなかった。木札を懐に入れる前に、栗林の奥を睨む。


 枝が揺れた。


 笠をかぶった小柄な少年が立っていた。昨日と同じように静かで、最初からそこにいたのを、景たちが今まで見落としていただけのようだった。


「君が置いたのか」


 少年は答えない。笠を少し上げる。冷たい目が見えた。


「その後はどうする」


 景は木札を見た。


 館ではもう人が動いている。飯を分け、西の道へ倒木を運び、北へ礼を持っていく。逃げ道はこれから見る。怖さは消えない。消えないまま、足だけが先へ出ている。


「三日待たない」


 声は震えた。それでも、景は続けた。


「今日、動く。西の道は直すふりをして遅くする。北には礼を言ってつなぐ。飯は分ける。逃げ道は、ここでは言わない」


 少年はまばたきもせず景を見ていた。


「鹿島か津田を動かせって言われた。でも、こっちから押すんじゃない。動きたくなるようにする」


 紗那が低く言う。


「短く言え。持ち帰るなら、その方がよい」


 景は唾を飲み込んだ。


「西へ来たら、道で遅れる。北を切ろうとしたら、村に見られる。待ったら、俺たちは飯を分け終わる。だから、相手は早く動きたくなる。早く動けば、雑になる」


 そこまで言って、自分の言葉に自分で怖くなった。


 雑になった敵は、人を殺すかもしれない。焦った兵は、家に火をつけるかもしれない。動かした先に何が起きるのか、最後まで見えていない。


 少年の目がわずかに細くなった。


「寺へ伝える」


「待って。名前は」


 少年は足を止めた。


「名はまだ要らぬ」


「なんで」


「名を呼べば、足がそちらへ向く」


 少年は紗那を見た。


「今は西へ向けろ」


 紗那の手が刀へ動く。景は反射的に袖をつかんだ。


「追わない」


「なぜ」


「今追ったら、西の道が止まる」


 少年は栗林の奥へ下がった。枝が揺れ、笠の影が木々に紛れる。足音はほとんどしなかった。


 紗那は景の手を見た。


「離せ」


 景は慌てて手を離した。指先に、紗那の袖の硬い布の感触が残る。


「……すまん」


「次は声で止めろ」


「間に合わないと思った」


「なら、次も間に合わせろ」


 遠くで、木を引きずる音がした。西の方からだった。何人かの掛け声も聞こえる。


 館の裏手では、足軽たちが倒木を縄で引き、権爺が杖で道の泥を指していた。若い者が石を運び、別の者が枝を払っている。


 北へ向かう老人は米の小袋を抱え、門の外で一度だけ振り返ってから歩き出した。炊事場では、女たちが俵の口を開き、米を小分けにしている。蔵の前には別の足軽が立ち、誰が入って誰が出たかを権爺の孫が木片に刻んでいた。


 景は栗林を出た。ぬかるんだ西の道へ向かう。倒木を引く縄の端を一人が持ち替えようとして、手を滑らせた。丸太が泥に落ち、重い音を立てる。


「そこ、もう少し右」


 景は思わず声を出した。


 足軽たちが振り返る。


「右でございますか」


「うん。真ん中に置くと誰も通れない。端に寄せて、馬だけ嫌がる感じで」


「馬だけ……」


「人は通れるように。逃げるとき、俺たちも困るから」


 権爺が杖で泥をつついた。


「ここに石を置けば、馬は足を嫌がりますな。人は脇を抜けられる」


「それで。あと、見た目は直してる感じで」


「直してる感じとは」


「ええと……泥をならす。枝を払う。通りやすくしてます、って顔をする」


 権爺は少しだけ笑った。


「顔で道普請をするのは難しゅうございます」


「俺もそう思う」


 景は草鞋を泥に沈め、縄の端をつかんだ。濡れた麻が手のひらに食い込む。紗那が横に立ち、黙ってもう一本の縄を取った。


「引くぞ」


 権爺の声が飛ぶ。


 景は歯を食いしばり、足を踏ん張った。丸太が少しだけ動き、泥水が跳ねて小袖の裾を汚した。西の道の向こうでは、まだ朝靄が白く残っている。


 手のひらが痛んだ。縄が滑りそうになる。景は握り直し、泥に沈む足を半歩ずらして、もう一度引いた。

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