昨日の謝罪文
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朝、玄関の内側に紙が貼られていた。
障子紙より薄い。戸の隙間から入った光を受けて、白い面だけが土間に浮いて見える。端は湿気で反り、米粒で貼りつけた跡がいくつも膨らんでいた。
墨ではない。焦げたような黒い線で、短い文が並んでいる。
返事のない寺。
味方と飯と逃げ道。
軍師殿のそばに立つ者。
その下に、もう一行。
その後はどうする。
景は草鞋に手を伸ばしたまま、動けなくなった。
昨日の本堂が、朝の土間へ戻ってくる。薄暗い板間。仏像の前に座る坊主頭の男。数珠が床に当たった乾いた音。三日だ、と言った低い声。
夜のうちに置いてきたはずのものが、紙一枚になって館まで来ていた。
「……またかよ」
声は土間に小さく落ちた。
背後で床板が鳴る。紗那が男物の小袖の襟を直しながら近づいてきた。景の肩越しに紙を見るなり、足を止める。
「触るな」
「触ってない」
紗那は膝をつき、紙に顔を近づけた。薄い唇が少し結ばれる。
「墨ではないな」
「焼いて書いたんだと思う」
「昨日の童か」
「たぶん」
寺の門に立っていた少年。笠をかぶり、本堂まで景を案内した小柄な影。声も姿も子供だったのに、目だけが妙に古かった。
《状況更新。非同期伝達物を確認。発信元不明。敵性確定不可。記載内容は心理誘導、情報整理、挑発のいずれにも分類可能》
胸の奥に響く声は、いつもどおり冷たかった。
「敵か味方か分からないって、いちばん困るやつだろ」
「誰に言っている」
「独り言」
紗那は景の顔ではなく、膝のあたりを見た。
「震えている」
「寒いだけ」
「今朝は寒くない」
戸口の外では、鶏が土をつついている。少し離れたところで薪を割る音がした。炊事場から粟を煮る匂いも漂ってくる。
いつもの朝と同じはずだった。
けれど紙一枚のせいで、館全体が薄い膜の中に沈んでいるように見える。誰が起きているのか。誰が寝ているふりをしているのか。誰がこの紙を貼った者を見たのか。景には何も分からなかった。
そこへ権爺が来た。肩に蓑をかけ、腰に古い刀を差している。玄関の紙を見ると、眉間の皺が深くなった。
「軍師殿。井戸端にもございました」
権爺は懐から薄い木片を出した。板にも焦げた線で同じ三つの文が刻まれている。
返事のない寺。
味方と飯と逃げ道。
軍師殿のそばに立つ者。
景は紙と木片を見比べた。
隠すためではない。見つけさせるためだ。玄関と井戸。朝になれば必ず誰かが通る場所に置いてある。
「誰か見た人は」
「夜明け前、桶が一つ倒れておりました。水も少し減っております」
紗那が木片を受け取り、匂いを嗅いだ。
「焼いたのは新しい。明け方より前だ」
《推奨行動。記載内容を三分類。返事のない寺は情報遮断点。味方と飯と逃げ道は維持資源。軍師殿のそばに立つ者は観測者または標的。戦闘行動は禁止。情報収集を継続》
景は唇を噛んだ。
戦うな、と言われた。そこだけは分かる。分かる言葉を握っていないと、足元の板が抜けそうだった。
「今日は戦わない」
紗那の眉が動いた。
「誰も戦うとは言っていない」
「先に言っときたいんだ。言わないと、誰かが刀を持って走りそうだから」
権爺がゆっくりうなずく。
「疑いは足を速くします」
景は紙の三行をもう一度見た。怖い。腹の底が冷える。だが、怖がっている間にも相手は動く。三日あると思っていた時間が、朝の玄関でいきなり削られていた。
「調べる。寺へ行った使いが誰だったか。戻ったのか、戻らなかったのか」
声は細かった。そこで止めると、もっと細くなる気がした。
「飯は、どこにどれだけあるか。鍵を誰が持ってるか。逃げ道は……みんなが知ってる道と、あまり知られてない道を分ける。北の村には、まず礼を言いに行く」
「援軍を頼むのではないのか」
紗那が問う。
「いきなり頼んだら、向こうが困る。米をもらった礼なら、まだ行ける」
権爺の目が少し細くなった。
「それなら村も門を閉じにくい」
三行目が、白い紙の上でやけに黒かった。
軍師殿のそばに立つ者。
紗那かもしれない。権爺かもしれない。紙を読んだ者の数だけ、疑う相手が増える。
「これ、紗那を疑わせたいのかもしれない」
「私か」
「俺が最初にそう思った」
「正直に言うな」
「ごめん」
「謝るな。顔に出ていた」
紗那は立ち上がった。紙を剥がす前に、玄関の外を一度見る。
「隠すか」
権爺が低く尋ねた。
隠したかった。こんなものを広間に出せば、誰もが誰かを疑う。けれど井戸端の木片を見た者はもういる。隠せば、口から口へ形を変えて広がる。
景は柱の木目を見た。古い傷が一本ある。誰かが昔、刀か何かをぶつけた跡だろう。傷は隠れていない。隠れていないから、誰ももう騒がない。
「広間に出す」
言った瞬間、腹の底がさらに冷えた。
紗那が景を見る。
「よいのか」
「よくない。でも、後で見つかる方がもっと悪い。俺が先に見せる」
紗那は少し黙り、それから紙の端をゆっくり剥がした。乾いた米粒が壁から離れるたび、かすかな音がした。
広間へ向かう廊下で、景は何度も足を止めそうになった。炊事場から粟を煮る匂いがする。濡れた藁の匂いも混じっていた。朝飯の椀を持った足軽たちが、景たちの方を見る。何人かは、権爺の持つ木片に気づいて口を閉じた。
紗那は広間の柱に白い紙を貼った。
「景が話す」
ざわめきが止まった。
景は前に出た。手のひらが湿っている。膝の震えは止まらない。止めようとすると、余計に自分の足が自分のものではなくなる。
「今日は戦わない。刀を持って走るな。まず数える」
足軽たちの顔に戸惑いが広がった。景は柱の紙を指した。
「寺に行った使い。飯の場所。抜け道。北の村へ礼に行ける人。それと、昨日の童を見た人。知っていることを出してほしい」
若い足軽がおずおずと手を上げた。
「見ました」
「どこで」
「夜明け前、井戸のそばでございます。水を飲んでおりました」
「どっちへ」
「門ではなく、裏の栗林へ」
権爺が顔をしかめる。
「栗林の先は古い墓地でございます」
若い足軽は、まだ言いにくそうに唇を噛んでいた。
「まだある?」
「童が申しておりました。軍師殿のそばに立つ者は、もう一人いる、と」
広間の空気が冷えた。
椀を置く音がした。衣擦れが重なる。誰も声を出さないのに、視線だけが動き回っている。紗那の手が刀へ行きかけ、途中で止まった。
景はその手を見てから、広間の人々を見た。権爺、炊事場の女、弓を抱えた少年、顔を伏せる足軽。誰を疑えばいいのかなど、分かるはずがなかった。
「人を決めつけない」
景は言った。
「飯が減る場所を見る。道を知ってる人を見る。寺に行ける人を見る。全部、別の人に任せる。同じ人が全部を見ないようにする」
誰かが小さく咳をした。反対の声は出ない。だが、納得した顔も少ない。
「飯は一か所に置かない。蔵だけじゃなくて、台所にも、誰かの家にも少しずつ分ける。全部見つかったら終わりだから」
炊事場の女が声を上げる。
「蔵の鍵は私が預かっております」
「じゃあ、蔵はあなた。台所は別の人。家に移す分は権爺が見てください」
権爺が即座にうなずいた。
「承知しました」
《追加推奨。西方経路封鎖、北方同盟接触、分散備蓄、秘匿撤退路確保を同時進行。人的伝達の遅延を考慮し、各行動に独立裁量を付与せよ》
景は奥歯を噛んだ。
西方経路封鎖。言葉だけなら分かる。だが、この館にいる者たちに封鎖と言えば、道を完全に塞ごうとするかもしれない。寺の者も通れなくなる。味方も逃げられなくなる。石と木で詰まった道の前で、皆が立ち往生する姿が浮かんだ。
「西の道は、ふさがない」
権爺が聞き返した。
「ふさがぬので」
「急げないようにする。倒木とか石を置く。でも通れるくらいにする。道を直してるみたいに」
権爺の表情が変わった。
「道普請でございますか」
「うん。道をよくしてるふり。馬と大人数だけ困るようにしたい」
紗那が横から口を挟む。
「歩く者は通れるか」
「通れるようにする。たぶん」
「たぶんか」
「全部ふさいだら、俺たちが逃げるとき詰む」
紗那はそこで黙った。きれいに言い直すかわりに、広間の顔ぶれを見回す。
「聞いたな。ふさぐな。遅くしろ」
足軽たちの間に、ようやく小さな動きが生まれた。何人かが互いに顔を見合わせ、誰が縄を持つかを指で示し合う。
北の村には、米の礼を持って行くことにした。助けてくれとは言わない。ただ、こちらが慌てていないところを見せる。景がそう言うと、権爺は近くの老人を呼んだ。白髪の男が腰を上げ、炊事場へ向かう。小さな米袋が用意され、口を固く結ばれた。
逃げ道については、景は声を落とした。
「今ここでは言わない。俺と紗那と権爺で見る」
またざわめきが起きたが、さっきほど鋭くはならなかった。何かが決まると、人は動き出す。椀が片づけられ、草鞋の紐が結ばれ、戸口へ向かう足音が重なっていく。
柱の白い紙は、まだ不気味だった。だが、誰もがその前を通り、見て、口を結び、自分の持ち場へ向かった。
紗那が景の横に来た。
「栗林へ行くぞ」
「今?」
「童は待たぬ」
「俺も行くのか」
「問いを投げられたのはお前だ」
景は広間の外を見た。朝靄の向こうに、栗の木が黒く並んでいる。喉の奥が乾いた。
「刀は持たない」
「またか」
「持っていったら、向こうも構える」
「すでに構えている」
「じゃあ、こっちは少しでも軽くする」
紗那はしばらく景を見て、それから自分の腰の刀を確かめた。
「私が持つ」
「うん」
井戸のそばには、小さな足跡が残っていた。景の足よりずっと小さい草鞋の跡。水桶の縁には、濡れた指の跡が四本、薄く残っている。
栗林の草は露で濡れていた。足を踏み入れるたび、草鞋の裏に冷たさが染みた。枝から落ちた水滴が景の首筋に当たり、思わず肩が跳ねる。
奥の墓地は、朝なのに薄暗かった。古い石塔が傾き、苔が文字を覆っている。鳥の声が高いところで短く鳴いた。
石塔の一つに、赤い布が結ばれていた。
景は足を止めた。
「寺で見た色だ」
「触るな」
「触らない」
紗那は布を確かめ、石塔の陰に置かれていた小さな木札を拾った。表には焦げた線がある。
西を閉じるな。
北を絶やすな。
飯を一つに置くな。
逃げ道を人に言うな。
景の背中に汗が浮いた。
短い言葉だった。難しい言い回しはない。西。北。飯。逃げ道。村の道を歩き、米袋を担ぎ、夜の井戸で水を飲む者の言葉だった。
「味方なのか」
紗那は答えなかった。木札を懐に入れる前に、栗林の奥を睨む。
枝が揺れた。
笠をかぶった小柄な少年が立っていた。昨日と同じように静かで、最初からそこにいたのを、景たちが今まで見落としていただけのようだった。
「君が置いたのか」
少年は答えない。笠を少し上げる。冷たい目が見えた。
「その後はどうする」
景は木札を見た。
館ではもう人が動いている。飯を分け、西の道へ倒木を運び、北へ礼を持っていく。逃げ道はこれから見る。怖さは消えない。消えないまま、足だけが先へ出ている。
「三日待たない」
声は震えた。それでも、景は続けた。
「今日、動く。西の道は直すふりをして遅くする。北には礼を言ってつなぐ。飯は分ける。逃げ道は、ここでは言わない」
少年はまばたきもせず景を見ていた。
「鹿島か津田を動かせって言われた。でも、こっちから押すんじゃない。動きたくなるようにする」
紗那が低く言う。
「短く言え。持ち帰るなら、その方がよい」
景は唾を飲み込んだ。
「西へ来たら、道で遅れる。北を切ろうとしたら、村に見られる。待ったら、俺たちは飯を分け終わる。だから、相手は早く動きたくなる。早く動けば、雑になる」
そこまで言って、自分の言葉に自分で怖くなった。
雑になった敵は、人を殺すかもしれない。焦った兵は、家に火をつけるかもしれない。動かした先に何が起きるのか、最後まで見えていない。
少年の目がわずかに細くなった。
「寺へ伝える」
「待って。名前は」
少年は足を止めた。
「名はまだ要らぬ」
「なんで」
「名を呼べば、足がそちらへ向く」
少年は紗那を見た。
「今は西へ向けろ」
紗那の手が刀へ動く。景は反射的に袖をつかんだ。
「追わない」
「なぜ」
「今追ったら、西の道が止まる」
少年は栗林の奥へ下がった。枝が揺れ、笠の影が木々に紛れる。足音はほとんどしなかった。
紗那は景の手を見た。
「離せ」
景は慌てて手を離した。指先に、紗那の袖の硬い布の感触が残る。
「……すまん」
「次は声で止めろ」
「間に合わないと思った」
「なら、次も間に合わせろ」
遠くで、木を引きずる音がした。西の方からだった。何人かの掛け声も聞こえる。
館の裏手では、足軽たちが倒木を縄で引き、権爺が杖で道の泥を指していた。若い者が石を運び、別の者が枝を払っている。
北へ向かう老人は米の小袋を抱え、門の外で一度だけ振り返ってから歩き出した。炊事場では、女たちが俵の口を開き、米を小分けにしている。蔵の前には別の足軽が立ち、誰が入って誰が出たかを権爺の孫が木片に刻んでいた。
景は栗林を出た。ぬかるんだ西の道へ向かう。倒木を引く縄の端を一人が持ち替えようとして、手を滑らせた。丸太が泥に落ち、重い音を立てる。
「そこ、もう少し右」
景は思わず声を出した。
足軽たちが振り返る。
「右でございますか」
「うん。真ん中に置くと誰も通れない。端に寄せて、馬だけ嫌がる感じで」
「馬だけ……」
「人は通れるように。逃げるとき、俺たちも困るから」
権爺が杖で泥をつついた。
「ここに石を置けば、馬は足を嫌がりますな。人は脇を抜けられる」
「それで。あと、見た目は直してる感じで」
「直してる感じとは」
「ええと……泥をならす。枝を払う。通りやすくしてます、って顔をする」
権爺は少しだけ笑った。
「顔で道普請をするのは難しゅうございます」
「俺もそう思う」
景は草鞋を泥に沈め、縄の端をつかんだ。濡れた麻が手のひらに食い込む。紗那が横に立ち、黙ってもう一本の縄を取った。
「引くぞ」
権爺の声が飛ぶ。
景は歯を食いしばり、足を踏ん張った。丸太が少しだけ動き、泥水が跳ねて小袖の裾を汚した。西の道の向こうでは、まだ朝靄が白く残っている。
手のひらが痛んだ。縄が滑りそうになる。景は握り直し、泥に沈む足を半歩ずらして、もう一度引いた。
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