手ぶらの価値
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門の前の影は、景が五歩の距離まで近づいても動かなかった。
小柄だった。景の胸の高さくらいしかない。笠の奥は見えないが、ひどく静かな立ち姿だった。
「……景、です」
名乗った。声が少し上ずった。
影が動いた。笠を少しだけ上げる。見えたのは、子供の顔だった。寺の小僧のような、まだ元服もしていないような少年。だが、目は大人よりも冷たかった。
「お一人で」
「はい」
「刀もなしに」
「はい」
少年は景の腰のあたりを一瞥し、それから踵を返した。ついてこい、という意味だと受け取って、景は門をくぐった。
寺の中は異様だった。
静かすぎる。そして、人が多すぎる。
枯山水の庭の隅、縁の下、廊下の奥。あちこちに人が座っている。皆、武装している。農具を改造したような槍、古い刀。だが、誰一人として声を出さない。景が通っても、ただ目で追うだけだ。
赤い布を腕に巻いている者がいくつか見えた。あの赤い旗の十人は、この中に混じっているのだろう。ここが一つの「陣」になっていることは、素人の景にも分かった。
本堂に案内された。
薄暗い堂内には、仏像の前に男が一人座っていた。
少年ではない。三十代半ばほどの、坊主頭の男だ。僧衣ではなく、墨染めの小袖を着ている。武士なのか、僧なのか、それとも別の何かなのか、景には判別がつかなかった。
男は景を見ると、手元の数珠を床に置いた。木の当たる乾いた音が、堂内に響いた。
「よく来た、軍師殿」
声は低く、よく通った。
「軍師じゃありません。ただの……景です」
「ほう。では、あの空の俵を並べて鹿島と津田を足止めしているのは、ただの案山子作りか」
景は息を呑んだ。
知られている。見抜かれている。空俵だと。
《……》
景は胸の奥でKM-07を呼んだが、AIは沈黙を保っていた。答えてくれない。データがない。状況の推移を見守っているのか、それとも本当に何も計算できないのか。
「どうして、空だと」
「風だ」
男は短く答えた。
「夕風が吹いたとき、一番端の兵が不自然に揺れた。人間の重さがあれば、あのような揺れ方はしない。それに、兵の数が急に増えすぎた。我らは数日前からお前たちの館を見ている。運び込まれる飯の量と、兵の数が合わん」
見られていた。
浅瀬を使った偵察のとき、西から来た足跡があった。あの時から、いや、もっと前から、彼らは景たちを観察していたのだ。北の村から米が運ばれる様子も、館の庭に俵が並ぶ様子も、すべて。
「なら、どうして鹿島や津田に教えないんですか」
景の問いに、男は初めて少しだけ口元を緩めた。笑ったのではない。ただ、皮肉の形に唇を曲げただけだ。
「教える義理がない。我らは、我らの邪魔をする者を排除するだけだ。お前たちが鹿島と津田を惹きつけている間、この寺周辺は静かだ。空の俵が役に立っているうちは、黙っておいてやる」
景は少しだけ安堵した。少なくとも、今すぐ敵に回るわけではない。
「じゃあ、どうして俺を呼んだんですか」
「手ぶらで来た男に、一つ聞きたかった」
男はすっと立ち上がった。背が高い。堂内の影が、男の輪郭を大きく見せていた。
「お前は、この戦をどう終わらせるつもりだ?」
景は答えられなかった。
終わらせる? そんなこと、考えたこともなかった。毎日を生き延びるだけで精一杯だった。米を数え、敵の数を数え、日数を数えるだけ。
「終わらせる、というのは……」
「鹿島と津田は、お前たちを潰すか、従えるまで止まらん。空の俵は三日と持たないだろう。その後はどうする。あそこで全員死ぬか。それとも、どこかへ逃げるか。それとも——我らに泣きつくか」
男の目が、景を射抜いていた。
「俺は……」
景は言葉を探した。KM-07は黙っている。紗那はいない。誰も答えを教えてくれない。
「俺は、誰も死なせたくない」
口から出たのは、そんな子供のような言葉だった。自分でも馬鹿げていると思った。
男は鼻で笑った。
「誰も死なせずに、戦を終わらせるか。それは名将の寝言か、それともただの阿呆か」
「阿呆でいいです。でも、誰も死なせない方法を探してる」
「ならば、見せてみろ。その手ぶらのままで、どうやって鹿島と津田を退けるのか」
男は再び座った。
「三日だ」
「三日?」
「お前たちの空俵がバレるまで、長くて三日。その間に、鹿島か津田のどちらかを動かしてみせろ。お前の『策』でな。できなければ、我らはお前たちを見限る。寺の道は開け、鹿島を通す」
景の背筋に冷たい汗が流れた。
寺の道を開ける。それは、西からの攻撃を許すということだ。
東の鹿島、南西の津田、そして西の寺。完全に包囲される。
「待って……」
「話は終わりだ。帰れ」
男が顎をしゃくると、案内してきた少年が景の袖を引いた。
拒絶。いや、これは試練だ。
彼らは景を値踏みしている。景が本当に「軍師」なのか、それともただの案山子作りなのか。
寺を出るとき、振り返ったが、本堂はもう暗闇に沈んで見えなかった。
ただ、手の中には三日という期限だけが残されていた。
行きと同じ道を、景は一人で戻った。
手ぶらで来た意味はあったのだろうか。刀を持っていれば、あの男はもっと警戒して、話すら聞かなかったかもしれない。だが、手ぶらだったからこそ、「何も持たない阿呆」として扱われた気もした。
館に戻ると、門の前に紗那が立っていた。
景の顔を見るなり、紗那は一歩前に出た。
「無事か」
「うん。なんとか」
「寺の者は」
「三日、くれた」
景は空俵の並ぶ庭を見た。風で揺れる藁の兵隊。
「三日のうちに、鹿島か津田を動かせって。そうしないと、西の道を開けるって言われた」
紗那は息を呑んだ。
「それは……」
「試されてる。俺たちが、ただの囮なのか、それとも何かできる奴らなのか」
景は胸元に触れた。相変わらず、KM-07は何も言わない。
これからは、自分が本当に「軍師」のふりをしなければならない。空俵の中身を、自分の手で埋めなければならないのだ。
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