名将の形
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鹿島が渡しを越えた。
報告が入ったのは早朝だった。見張りの武士が二人、転がるように広間に飛び込んできた。
「鹿島の先手、七名が渡しを越えました。こちらの岸に上がっています」
広間の空気が一瞬で凍った。
越えた。塞いでいたのではなく、越えてきた。こちらの岸に鹿島がいる。下流では津田が動き始めたという報告も昨夜あった。東から鹿島、南西から津田。
挟まれる。
「KM-07」
《敵方二勢力の同時行動を検出。挟撃態勢への移行と評価。現有戦力での正面防衛は非推奨。推奨行動、戦力を分散配置し、複数拠点で抵抗の兆候を示すことで敵の前進速度を低下させる。単一拠点への集中は包囲殲滅のリスクを増大》
分散配置。複数拠点。抵抗の兆候。
景の頭に浮かんだのは、KM-07が言っている意味とは違うものだった。
米がある場所。山の隠し場所に二俵。北の村に五俵。館に五俵。米がある場所に人を置けば、そこが「拠点」に見える。米を守っている兵に見える。
「紗那」
「聞いた」
「散らす。みんなを散らす」
紗那の顔が強張った。
「散らす?」
「館に全員いたら、囲まれて終わりだ。山の隠し場所に三人。北の村に向かう道に二人。館には残りと空俵。鹿島も津田も、こっちが一か所にいると思ってるはずだ。行ってみたら、あちこちに人がいたら——」
「それは——」
紗那が言葉を切った。
「一か所に十五人いるのと、三か所に五人ずついるのでは、どちらが強い」
「一か所に決まってる」
「ならば——」
「でも、一か所に十五人いたら、十五人まとめて潰される」
紗那が黙った。
景は自分の言葉が正しいかどうか分からなかった。軍の常識なら集中が正しいのだろう。だが景には軍の常識がない。あるのは、現代人の直感だけだ。卵を一つの籠に入れるな。投資を分散しろ。リスクを散らせ。
それが正しいかどうかは分からない。ただ、全員が一か所で死ぬのだけは嫌だった。
「館の主の許しがいるだろう」
「もらってくる」
景は広間の奥に走った。
館の主は甲冑をつけかけていた。古い、錆の浮いた胴丸。戦う気でいる。
「散らします。三か所に分けます」
「理由は」
「囲まれたくないからです」
それだけ言った。理屈ではない。恐怖だった。だが館の主は景を見て、長い間黙ってから頷いた。
「お前がそう言うなら」
信頼。景が積み上げたものではなく、景の周りに積み上がってしまったもの。橋の勝ち。空俵。紗那の翻訳。全部が重なって、景の言葉に重さを与えている。
昼までに、人を動かした。
山の隠し場所に武士三人と米二俵。彼らには猟師が道を案内した。北の村へ続く道の途中、見晴らしの良い丘に武士二人。旗を一本持たせた。館には景と紗那と館の主、武士八人、そして空俵十六体。
紗那が最後に一つだけやったことがあった。
散らした武士たちに、それぞれ空俵を三体ずつ持たせたのだ。山の組は木の間に立てた。丘の組は道沿いに並べた。遠目には、どの場所にも人がいるように見える。
「紗那、それ——」
「景殿の策だ。私はただ、数を足した」
景の策ではなかった。景はただ散らしただけだ。空俵を持たせたのは紗那だ。だがその区別は、もう誰にも分からなくなっていた。
午後、鹿島の先手が館の方角に近づいているという報告が入った。
同時に、南西から津田の偵察とおぼしき三人組が道を上ってきているという報告も入った。
挟まれつつある。
だが——
夕方、鹿島の動きが止まった。
見張りが戻ってきて言った。
「鹿島の先手、山のほうに人影を見て止まりました。動かなくなっています」
山の隠し場所。武士三人と空俵三体。合わせて六つの影。木の間に立つ藁の兵が、本物の武士と混じって、六人の守備隊に見えたのだろう。
南西の津田も動きを緩めた。丘の上に旗が一本立ち、その周りに影が五つ。武士二人と空俵三体。遠目に見れば、見張り台のように見える。
「止まった」
景は自分の声が震えているのに気づいた。
「止まったぞ」
紗那が隣で息を吐いた。長い、長い息だった。
「あちこちに人がいる。鹿島も津田もそう見ている。一か所に集まっているはずの敵が散っている。何かの策があると思っている」
「策なんてない」
「ない。だが彼らにはそう見える。散っている兵が見えれば、その間にも兵がいると疑う。見えない兵を恐れる。見えない兵は、実在する兵より多く数えられる」
景は膝を抱えた。
怖くて散らした。それだけだ。
卵を一つの籠に入れたくなかった。
それだけなのに——
鹿島も津田も、動かない。
景は息を吐いた。
夜になっても、鹿島は動かなかった。津田も止まったままだった。村からは子供が来て、「山に人がいるのが見えた、頼もしい」と言った。村は散らされた武士を、自分たちを守る兵だと思っている。
守るつもりで置いたのではない。逃がすつもりで散らしたのだ。
だが村にはそう見えた。そう見えた以上、村は景を「守ってくれる人」として見る。
その夜、広間で景が座っていると、庭の向こうから声がした。
「景殿」
紗那の声ではなかった。見張りの武士が、誰かを連れてきた。
暗がりの中に、見覚えのない顔があった。いや——見覚えがある。
「偵察の——」
西に出して、捕まって、もう一人だけが放されて。戻らなかったもう一人。
「ただいま戻りました」
武士は痩せていた。服は汚れ、顔には青あざがあった。だが立っていた。
「どこにいた」
「寺です。ずっと。今日、放されました」
「放された?」
「はい。伝言を預かりました」
景は唾を飲んだ。
「何と」
「寺を預かっている者たちの頭が、景殿に会いたいと」
広間が静まった。
寺を預かっている者たち。西の道を塞いだ者たち。赤い旗。あの十人と繋がっているのか。別の者か。分からない。だが会いたいと言っている。
「条件は」
「景殿が一人で来ること。場所は寺。日は、三日後」
紗那が景の前に立った。
「行くな」
「行かなかったら?」
「何も起きない」
「何も起きないのは、今の状況が続くってことだ。今の状況は——」
景は指を折った。米は減り続けている。鹿島は止まっているが、退いてはいない。津田は小屋の中で待っている。道は北と山の二本。空俵はいつか風で倒れる。
「長くは持たない」
紗那は何も言わなかった。
景は庭を見た。月の下で、空俵が並んでいる。偽物の兵隊。今日、その偽物たちが本物の敵を止めた。嘘が本当になる瞬間を、景は見た。
だが嘘は、いつまでも本当ではいられない。
三日後。寺。一人で。
景は胸元に触れた。KM-07は何も言わなかった。
データがないのだろう。未知の相手との交渉には、確率も推奨もない。
景は初めて、KM-07なしで決めなければならないことがあると知った。
庭の空俵が風に揺れた。十六体。いや、もう数は合わなかった。散らした分を足せば二十二体。二十二人の偽物の兵隊が、この小さな戦を支えている。
並んでいるのは、兵じゃない。藁だ。
それでも今夜、景の周りの人間は生きていた。武士も、猟師も、村の子供も。
それだけは嘘ではなかった。
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