伝わる嘘と伝わらない本当
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翌朝、鹿島が動いた。
見張りの武士が駆け込んできたのは、朝飯の前だった。
「渡しの方から、人が増えています。十人は超えます」
広間が一瞬で張り詰めた。昨日まで五人だった監視が十人以上に膨れている。渡しを塞ぐだけなら五人で足りる。増えたということは、塞ぐ以上のことをするつもりだ。
「来るのか」
館の主が低く言った。
「まだ分かりません。ただ、川沿いに下流へも人を出しているようです」
下流。津田の陣がある方向だ。鹿島が津田と繋がろうとしている。渡しに蓋をしたまま、下流で津田と手を組む。
景の胸元が震えた。
《渡河点における兵力増強と下流方面への展開を検出。二勢力の連携準備と評価。挟撃態勢への移行が始まっている可能性。推奨行動、情報欺瞞による敵方の判断遅延。具体的には、こちらの戦力・配置に関する虚偽情報を、制御可能な経路で敵方に到達させること》
情報欺瞞。虚偽情報。制御可能な経路。
景は一語ずつ噛んだ。嘘を流す。嘘を、相手に届く道で流す。相手に届く道——
「村だ」
声に出した。
紗那が振り向いた。
「村?」
「北の村の人が、川向こうと行き来している。向こう岸の相手に会っている。あの経路を使えば、向こう岸に情報を届けられる。嘘の情報を」
紗那の目が鋭くなった。
「村を使うのか」
「使うんじゃない。村に——本当のことを言いに行く」
「本当のこと?」
「俺たちの状況を話す。米がどれくらいあるか。武士が何人いるか。ただし——」
景は自分でも考えがまとまらないまま喋っていた。
「数を多めに言う。米は二十俵あると言う。武士は三十人いると言う。本当は七俵で十五人だけど」
紗那の表情が変わった。考えている顔ではなかった。景の言葉を追いかけようとして、追いつけていない顔だった。
「待て。村に嘘の数を教えるということは——」
「村の人が向こう岸の相手にそれを話す。向こう岸の相手が津田か鹿島に伝える。伝わった数字は、嘘だ」
「村がそれを話すとは限らない」
「話さなくてもいい。話したら嘘が伝わる。話さなかったら——村がこちらの味方に近づいたってことだ。どっちに転んでも損はしない」
紗那は長く黙った。
「景殿」
「うん」
「それは——」
紗那が言葉を選んでいた。いつもの速さがなかった。
「村を試しているのか、使っているのか」
「試してない。ただ——」
景は口ごもった。正直に言えば、何をしようとしているのか自分でもよく分かっていなかった。KM-07が言った「制御可能な経路で虚偽情報を届ける」を、景なりに噛み砕いた結果がこれだった。だが噛み砕きすぎて、形が変わっている気がする。
「紗那。止めるなら止めて」
「止めない。だが、私が行く」
「え?」
「景殿が行けば、軍師が直接来たと村は取る。重すぎる。私が行って、世間話のように話す。米が最近よく入る、人も増えた、と」
「世間話で嘘を——」
「嘘ではない。米は入っている。北の村から山菜も来た。人は——空俵を数えれば二十に見える」
景は目を見開いた。空俵。あの偽物の兵隊。庭に並んだ藁の人形。あれを「人」に数えるのか。
「それは嘘じゃないか?」
「嘘ではない。数えてみろと言っていないのだから。見た目の話をしているだけだ」
紗那の声は平らだった。嘘と本当の境目を、紙一枚で渡るような言い方。景にはその感覚が掴めなかった。だが紗那にとっては、これが「世間話」の範囲なのだろう。
「行ってくれ」
「承知」
紗那は昼前に出て、夕方に戻った。
「話した。長の弟に会えた」
「反応は」
「驚いていた。こちらに余裕があると思わなかったようだ」
「余裕なんてないけど」
「余裕があるように見えた。それで十分だ。問題は——」
紗那が声を落とした。
「村の長が、もう一つ聞いてきた」
「何を」
「渡しの鹿島は、いつ動くのか、と」
景は息を止めた。村の長が鹿島の動きを聞いている。それは、村が鹿島を気にしているということだ。気にしているのは——
「怖いんだ。村も」
「そうだ。鹿島が動けば、村も巻き込まれる。北にいるから安全というわけではない。戦が広がれば、道の上にいる村は踏まれる」
「何て答えた」
「分からぬと答えた。ただ、こちらは備えていると言った」
「備えてないけど」
「備えている顔をしているだけで、備えていることになる」
景は額を押さえた。顔。見た目。空俵。嘘ではない本当でもない話。全部が紙の上の城みたいだ。吹けば飛ぶ。だが吹かれるまでは城に見える。
夜、景は庭の空俵を数えた。十六体。
「KM-07。鹿島が十人に増えた。下流で津田と繋がろうとしてる。あと何日持つ」
《現在の態勢が維持された場合、敵方の包囲完成まで推定三日から五日。ただし、北方村落を通じた情報欺瞞が成功した場合、敵の行動に二日程度の遅延を生じさせる可能性あり》
二日。嘘が効けば二日だけ伸びる。
「二日で何ができる」
《渡河点の防衛準備、または撤退準備》
「防衛か撤退か」
《はい》
二つに一つ。守るか逃げるか。
景は空俵を見た。偽物の兵隊が月の下に並んでいる。守るなら兵がいる。逃げるなら道がいる。どちらも足りない。
「紗那」
「何だ」
「村の長が鹿島を怖がっている。俺たちも鹿島が怖い。怖い相手が同じなら——」
「言うな。それは、今言えば早い」
「でも——」
「早い。まだ嘘が届いていない。届いてから考える」
景は口を閉じた。紗那が「早い」と言うのは二度目だった。前回は浅瀬の主を疑うなと言った。今回は、村を味方にするのが早いと。
早すぎる手は、相手の手を塞ぐ前に自分の手を見せることになる。
そう言いたいのだろう。たぶん。
庭の隅で、空俵が一体倒れていた。風だろう。景はそれを起こして元の場所に戻した。藁が手のひらに刺さった。
偽物の兵隊を直しながら、景は思った。
この戦は、本物の刀より先に、嘘と見た目と噂で決まるのかもしれない。
それが名将のやることなのか、ただの臆病者のやることなのか、景にはまだ分からなかった。
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