半分の答え
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猟師が二日目の監視から戻ったのは、日暮れ少し前だった。
裏の井戸端に三人が集まる。もう手順が決まっていた。猟師が話し、紗那が聞き、景がその間で考える。
「今日も来ました。同じ人物です」
「間違いないか」
「笠と歩き方が同じです。今日は向こう岸ではなく、こちらの岸から渡りました。北の方角から下りてきて、浅瀬を渡って向こう岸へ行きました」
景は眉を寄せた。昨日は向こうからこちらへ。今日はこちらから向こうへ。往復している。
「荷は」
「今日は持っていませんでした。手ぶらです。ただ、渡った先で少し待っていました。しばらくすると、向こう岸から別の者が来ました」
広間の空気が変わった。
「別の者?」
「はい。年配の、やはり百姓のなりをした男です。二人は何か話していました。声は聞こえません。遠かったので。話が終わると、浅瀬を渡ってきた者はまたこちらへ戻り、北の方角に消えました。向こう岸の男はそのまま向こうへ去りました」
紗那が目を閉じた。
「落ち合っている」
「ああ」
「浅瀬が待ち合わせ場所だ。こちら岸と向こう岸の人間が、あそこで会っている」
景は唾を飲んだ。こちら岸の人間は北の村の方角から来ている。向こう岸の人間は——津田か鹿島の領域にいる誰かだ。
「北の村が、川向こうと繋がっている」
景がそう言うと、紗那が目を開けた。
「そうだ。だが、それは当然のことだ」
「当然?」
「村は我らの味方でも、津田の味方でも、鹿島の味方でもない。村は村だ。川を挟んだ先にも親戚がいるだろう。取引先もあるだろう。渡しが使えなくなったから、裏の道を使っているだけだ。村にとっては、我らが来る前から続いていた暮らしの一部にすぎぬ」
景はその言葉に少し救われた。敵ではない。裏切りでもない。ただの暮らし。だが——
「でも、その道を向こう岸の誰かが知っているってことは」
「知っている者がいる。それが津田か鹿島に伝わっているかは、別の話だ」
「伝わっていたら」
「この道はもう使えない。伝わっていなければ、まだ使える。半分の答えだ」
半分の答え。紗那がそう言い切った。
景はKM-07に聞いた。
「分かったことをまとめてくれ」
《観測二回分の分析結果。浅瀬利用者は北方村落の住民と推定、確度七八パーセント。渡河目的は川向こうとの私的交流、確度六五パーセント。当該経路が敵対勢力に露見している確率は、現データでは算出不能。三回目の観測データが必要》
「三回目」
景は猟師を見た。
「明日も行けるか」
「行けます。ただ——」
猟師が言いにくそうに口を開いた。
「向こう岸の年配の男が、帰り際に一度だけ、こちら岸のほうを見ました。上のほう、私がいた場所の方を」
三人とも黙った。
「見られたか」
「分かりません。木の陰にいましたので。ただ、なんとなく——上を気にしていたように見えました」
紗那が顎に手を当てた。
「気づかれていれば、明日は来ない。来るなら、気づいていないか、気づいた上で来るかのどちらかだ」
「来なかったら?」
「我らが監視していることが伝わったということだ。それはそれで、一つの答えになる」
三回目の答えは、来るか来ないかで変わる。来れば安全。来なければ露見。どちらに転んでも情報にはなるが、気持ちは大きく違う。
その夜、景は眠れなかった。
広間の隅で横になりながら、天井の暗がりを見ていた。北の村の人間があの浅瀬を使っている。向こう岸の誰かと会っている。それは敵対行為ではない。村の暮らしだ。だが、その暮らしの道の上に、景たちの秘密が乗っている。
明け方、景は起き上がって庭に出た。空俵が並んでいる。夜のうちにまた一つ増えていた。十五体。誰が増やしているのか、景はまだ聞いていなかった。聞かないほうがいい気がしていた。
猟師が出発する前に、景は一つだけ頼んだ。
「もし今日、あの人が来たら——こっちから何かしなくていい。ただ見てくれ。もし来なかったら、昼過ぎに戻ってきてくれ」
「承知」
猟師が山に入った後、紗那が隣に来た。
「来ると思うか」
「分からない。でも、来てほしい」
「なぜだ」
「来なかったら、疑うしかなくなるから」
紗那は何も言わなかった。
午前中、景は広間で地図を見ていた。集中できなかった。何度も北の方角に目がいく。村からは今日も子供が来ていた。今度は男の子で、干し柿を五つ持ってきた。
「長が、景殿によろしくと」
「ありがとう。長に聞きたいことがあるんだけど——いや、いい。よろしくとだけ伝えて」
景は聞くのをやめた。聞けば、それは「尋問」になる。まだそこまで踏み込む段階ではない。子供の無邪気な顔を見ていると、裏を疑っている自分が嫌になった。
昼を過ぎた。
猟師は戻ってこない。
つまり、浅瀬に誰かが来たということだ。
紗那と目が合った。紗那が小さく頷いた。来た。
夕方、猟師が戻った。顔が少し硬かった。
「来ました。今日は二人。いつもの小柄な者と、もう一人。若い男です。こちらの岸から二人で渡って、向こう岸で昨日と同じ年配の男と会いました」
「今日は増えた」
「はい。そして——」
猟師が声を落とした。
「今日は荷を受け取っていました。向こう岸の男から、小さな包みを。二人はそれを持ってこちらへ戻り、北のほうへ消えました」
向こう岸から荷を受け取った。何の荷か。薬か。塩か。情報か。分からない。だが、北の村は川向こうから「何か」をもらっている。
紗那が聞いた。
「包みの大きさは」
「両手で持てるくらいです。重くはなさそうでした」
景は考えた。重くない、両手で持てる包み。米ではない。武器でもない。
「KM-07」
《三回の観測結果を統合。浅瀬利用者は北方村落住民、確度九二パーセント。渡河目的は川向こうとの物資交換、確度七一パーセント。当該経路は村落の生活インフラとして定着しており、敵対勢力への情報伝達を目的としたものではないと推定。ただし——》
「ただし?」
《当該経路の存在が敵対勢力に知られていないという保証はありません。村落が意図せず経路情報を漏洩するリスクは残存》
九二パーセント。村の人だ。ほぼ確定。敵ではない。だが、安全でもない。
「紗那」
「聞いた」
「村は敵じゃない」
「そうだ」
「でも、味方でもない」
「そうだ」
「それが分かったのは、意味がある?」
紗那は川のほうを見た。見えるはずのない水面を、暗がりの中で見ている顔だった。
「大きい。敵でないと分かれば、背中を預ける方角が決まる。味方でないと分かれば、預けすぎない知恵が要る」
背中を預ける方角と、預けすぎない知恵。
景はその二つを同時に持たなければならないのだと思った。信じながら疑う。預けながら引く。この時代の人付き合いは、景が知っている世界よりずっと繊細で、ずっと残酷だった。
庭に出ると、空俵の間に猫が一匹座っていた。偽物の兵隊に囲まれて、平然と毛繕いをしている。
猫には味方も敵もない。ただそこにいるだけだ。
北の村も、たぶんそれに近い。
ただ、猫と違って村には田んぼがあり、子供がおり、冬が来る。だから米を受け取り、川を渡り、包みをもらう。生き延びるために、どの道も閉じたくないのだ。
景にはその気持ちが分かった。分かるからこそ、怒れなかった。
「猟師さん。もう見張りはいい。明日からまた、山の道を頼みます」
「承知」
景は広間に戻った。地図の上に、自分の指で鹿の浅瀬の場所を軽く押した。誰にも見えない印。秘密の道。秘密ではなかったが、敵の道でもなかった。
村の道だった。それだけだ。
だがその「それだけ」を知ったことで、景は一つだけ分かった。
この浅瀬は、使えるが、使い方を選ばなければならない。村が使っている時間を避けて、村に気づかれないように、村の道を借りる。
借りる、という言葉を使った自分に、景は少しだけ笑った。
米を返さなくていいと言ったのは自分だ。道は借りる。矛盾しているようで、この時代ではたぶん、矛盾していないのだ。
たぶん。
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